紫禁城に少年宮が造られたわけ2008年06月10日

 中国の「少年宮」をご存知だろうか。5歳から16歳までの少年少女が通う、校外活動施設のことである。芸術活動、スポーツ活動、科学技術、文化活動他があり、様々な分野の人材を多く輩出してきた。特に宋慶齢が創設した上海「中国福利会少年宮」と紫禁城にある北京「北京市少年宮」は有名である。

 中でも、北京市少年宮は紫禁城の「寿皇殿」(皇帝の山登りや花見の為に建てられた宮殿)にある。天安門前を通るたびに、大きな看板が目に入り、なぜここに「少年宮」があるのか、不思議に思ったものだ。最近になって建設の経緯を知った。

 話は1952年に遡る。この年、北京の北海北岸の「闡福寺」に「少年之家」が造られ、以来、外国の訪中団が中国の少年の校外活動に興味を持って度々訪れるようになった。この少年の家は狭く、設備も粗末であったところから、中国の少年少女の校外活動を紹介する場として建設地に選ばれたのが、紫禁城の「寿皇殿」だったのである。紫禁城は民国時代からすでに一般の参観に開放されていた。それでも、少年少女の校外活動の拠点をわざわざ元・皇宮内に建設したのは、新国家・中華人民共和国の面子を保つ為の措置、いわば政治判断であったと思われる。

 北京市少年宮は当時の北京市長・彭真等の指導下で建設がすすめられ、1956年1月1日にオープンした。式典当日には、少年庁に500名の赤いネッカチーフ(紅領巾)をつけた少年先鋒隊隊員が一堂に会し、その前で副市長はこう宣言したという。「北京市の少年、児童に、私はここで宣言します。今日私は市の人民政府を代表し、この美しい少年宮を皆さんに贈ります。今日から、きみ達はこの宮殿の主人です。君たちがよく学び、健康に成長し、我々の偉大な祖国を建設する準備をしてくれることをのぞんでいます」

 この日から、北京少年宮はいわば中国の少年少女の校外活動の場の象徴的存在となり、党のリーダーを始め、外国の元首、訪中団などが多く訪れた。創立50周年の2006年には様々な記念行事が行われた模様である。なお、近年になって文化財の保存の立場から、この場所に少年宮があることは好ましくないということになり、引っ越しが決まって調整が進んでいるらしい。

『女子國文讀本』にみる清朝末期の思想教育2008年06月10日

 1905年(光緒31年)上海・商務印書館から出された『女子國文讀本』を見ると、康有為や梁啓超等の不纏足と婦女解放の論理は、変法運動失敗後も、中国における女性教育の基礎的な思想として生き続けたことが良く分かる。第一課から第四課までを見てみよう。

 始めに第一課から第四課で女性の問題を述べる。第一課で「男性が苦しくないのは、学問をするからである。女性の苦しみは、纏足をするからである。」として学問の大切さと同時に纏足の弊害を説き、第二、三課では女性が学問することの意義と学校教育の良さを述べ、第四課では再び「纏足の法は妓女の法である」として纏足の害を訴える。

 一方、国民の自覚を持たせる教育も行われている。第五課から第八課である。まず、第五課で「人が多いのは村、更に多いのは鎮、更に多いのが県、更に多いのが府、そして省である。各省を一つにしたものが国であり、名を[中国]という。」として国の構成を述べ、続いて第六課で「浙江は中国の一省であり、湖州は浙江の一府であり、烏程は湖州の一県である。私が住む南潯鎮は烏程に属している。」と具体的に地名で説明し、第七課では「中国は私の国である。中国の富強は私の栄えである。中国の貧弱は私の恥である。私は女子であるが国を守る責任があるのである。」と教える。その後念押しするように、第八課「南潯鎮の人は烏程県の人であり、烏程県の人は湖州府の人であり,湖州府の人は浙江省の人であり,浙江省の人は中国人である。ゆえに私は中国人である。」と第六課とは反対の順序で述べて、女児に中国人としての自覚と責任をうながすのである。

 ところで、第5-8課と同じような発想で中国人の自覚をうながす文章を、台湾の戦後初期の教科書『小学国語課本』で見たことがある。この時に私が見たものは奥付がなく、出版年度も出版地も不明であったが、後に資料集で同じ内容のものを見つけ、戦後初期の教科書であることが確認できた。この教科書の第一冊、第一課のタイトルは「台湾人」、課文は「私は台湾人です。あなたも台湾人です。彼も台湾人だ。我々はみな台湾人です」であり、続く第二課は「中国人」、内容は「我々の祖先は福建人、広東人です。福建人、広東人、台湾人、みな中国人です」となっている。出てくる地名は違うけれども、発想はよく似ている。 女性に中国人としての自覚を持たせる教育と、台湾が中国に「光復」したとき、台湾人に中国人としての自覚を持たせる為の教育に共通点があるというのは、興味深い発見だった。