ガリレオ・ガリレイと望遠鏡2009年08月23日

 最近、天文学の父・ガリレオのことが、気になっている。ガリレオが自作の10倍の望遠鏡を天体に向けたのは、1609年である。ガリレオの望遠鏡が大変名高いので、私は最近まで、ガリレオ・ガリレイが望遠鏡の発明者で天体に望遠鏡を向けた最初の人だと思い込んでいた。

 本当のところ、望遠鏡を発明したのは、イタリア・ナポリ出身の博学者、ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタという人物で、1580年頃であるらしい。また3倍の実用的な望遠鏡を発明したことで知られるのは、オランダの眼鏡職人ハンス・リッペルスハイである。1609年4月にはフランスで流行したといい、ガリレオが望遠鏡の存在を知ったという1609年5月にはすでに多くの人が望遠鏡を知っていたらしい。

 天体観測についても、イギリス・オックスフォードの科学者トーマス・ハリオットは、1609年7月には月を観察して表明の凸凹を発見してスケッチしており、更に太陽の黒点も発見していたといい、ガリレオよりも数ヶ月早かった。それというのも、ガリレオの新発見は1610年1月から始まっているからである。

 同じ時代に望遠鏡を手にして、ガリレオよりも先に天文観測に成功した人もいたのに、なぜガリレオが天文学の父と呼ばれるようになったのだろう、とふと思った。周知のことかも知れないが、図書館で関連書を探し読んでみた。

 ガリレオは1609年5月に望遠鏡のことを知ると、一日で10倍の望遠鏡を作り上げ、更に数ヶ月をかけて30倍まで倍率を高めたという。彼にとって望遠鏡は長年胸に秘めてきた多くの疑問を確認する手段であった。そして自ら改良した望遠鏡を天文に向け、1610年1月以降、新発見を重ねていく。月の表面の凸凹を発見したり、木星の4つの月を発見したり、金星の満ち欠けについて観察したり、太陽の黒点を発見したり…それらを慎重に考察した報告『星界の報告』を1610年3月に出版するのである。

 実は、ガリレオは1597年5月の同僚宛の手紙、8月のケプラー宛の手紙で地動説を信じていると記している。それでも公言は控えていた。ローマ・カトリック教会の熱心な信者でもあったガリレオはこの時点では慎重であった。地動説を証明するに足る証拠がなかったためだろう。様々な方法を模索していたらしいことは、ケプラー宛の書信にも見えるが、具体的に何をしていたのかは記されていない。ただ、望遠鏡を手にしたガリレオが、すぐさま改良にとりかかり、天体観測を行い、その報告を当時としては異例の早さでまとめ上げたところを見れば、胸に成竹あり(事前に十分なアイデアや方向性、考え方が定まっていること)であったことは確かだろう。地動説に論及するようになるのは、『星界の報告』以降のことだ。実験、観察を行って真理を追究することを貫いたガリレオらしい。

 新しい発見や発明には時に運命的な競合がある場合が少なくない。同じ時期に同じことを別個に考えている人物がいる偶然である。この勝負の分かれ目は、そのアイデアや発見をどのように生かし育てるか、にかかっている。望遠鏡もまさに同じ状況にあった。多くの人が同じ時期に手にした望遠鏡を、ガリレオが改良を加え、それを最も有効に上手く使いこなし、価値ある存在に育て上げたのだ。そして望遠鏡によって得られた観測結果を数学的に解析するという科学的手法を開拓し、天文学上の重要な多くの発見と考察によって地動説を証明し、哲学や宗教から科学を引き離すことに寄与した。ガリレオが、天文学の父、近代科学の父とよばれるにふさわしい業績をあげたことが私にもようやく納得できた。 

 しかし、優れた自然観察者であったガリレオも、教会とアリストテレス学派に対する人間観察の方は予測が外れたようだ。彼は信仰と科学は切り離せるものだと思っていたようだが、結局2回目の裁判(いろいろ説はあるようだが)を経て異端とされ、地動説を否定させられ、軟禁生活を強いられて、1642年その生涯を終えた。ローマ・カトリック教会によるガリレオの名誉回復は、死後350年後、1992年のことであった。

参考:ガリレオ・ガリレイ(Wikipedia) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%A4
渡部潤一『ガリレオがひらいた宇宙のとびら』(旬報社、2008)
青木靖三『ガリレオ・ガリレイ』(岩波新書、1965)


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