ガリレオと家族――青木靖三『ガリレオ・ガリレイ』を読む2009年08月24日

青木靖三『ガリレオ・ガリレイ』(岩波新書、1965)
 青木靖三『ガリレオ・ガリレイ』を読みながら、違和感を禁じ得なかったのが、ガリレオの家族についての記述である。

 ガリレオはメディチ家のトスカナ大公コジモ二世の家庭教師をしていたことから、宮廷つきの学者に任じられ、その庇護を受けていた。発見した木星の衛星に「メディチ家の星」と名付けたり、著書を捧げたりもしている。他にも9倍に改良した望遠鏡を大学に贈って雇用契約を終身にして俸給も破格の金額にしてもらうなど、権力者におもねることもあった。そこには家族が増えることによる生活費増加に加え、妹の多額の持参金を払わなくてはならなかったことなど、厳しい経済事情が背景にあったようである。なにしろ、1610年にコジモ二世がガリレオを「ピサ大学特別数学者」で「トスカナ大公つき首席数学者・哲学者」に任命した年も、妹の持参金を支払うために二年間の俸給を前借りしたことがあるほど、当時の持参金の相場は高かったらしい。

 ガリレオはマリア・ガンバという女性と正式の結婚を経ずに3人の子供を持っていた。家柄が違いすぎたので正式な結婚をしなかったらしい。マリア・ガンバは1613年に別の男と正式に結婚、子供達の元を離れる。後に長女・ヴィルジニア、次女・リヴィア、長男・ヴィンチェンツィオは父親であるガリレオに法的に認知されている。

 それにしても当時はガリレオにとって、祖国に帰り、ありあまる名声と栄光とに輝いていた時期であった。しかし、このとき、ガリレオがしたことは、有力者に頼み込むなどして二人の娘を修道院にいれるよう画策することだった。しかし、二人はあまりにも幼かったために(10歳と9歳)、それぞれ13歳になるまで待って、修道院に入った。著者は「二人の娘について、ガリレオは自分が研究に専念し、母親と生き別れになったのであれば、十分に教育をみてやれないことを感じたためか、またその出生が正式の結婚によるのでないため、結婚させることの困難を予想したためか、あるいは持参金の調達の苦労をまたまた繰り返したくなかったためか、すでにパドヴァ時代から修道院に入れることを考えていた」と述べるが、いずれにせよ、幼い娘達が、厳しい修道院の暮らしを自ら望んだのではないことは確かだろう。残された息子は祖母のもとで育った。

 結局「娘たちをかたづけたこの時期こそ、ガリレオの一生でもっとも安定し落ち着いた時期であった。いまやかれは望み通り、そのすべての時間を好きな研究にあてることができた。」と著者は述べる。この本を読む限り―ガリレオの数々の素晴らしい研究業績の陰には、長男としては大家族の生活を背負わざるを得ず、一方で父親としては家族を研究の犠牲にする身勝手さが見え隠れする。

 それでも長女・ヴィルジニアは終生父親を愛し、誓願して修道女マリア・チェレステとなった後も、慰め、励まし続けた。ガリレオが晩年を過ごした家はその最愛の娘がいる修道院のそばにあった。ローマへガリレオが旅立ったときも、50通に近い手紙を送り、家の状況を報告したり、飲酒をいさめたり、苦境にあった父親をできるだけ慰めていたという。また父が善き信仰心にもかかわらず断罪された判決文を読んでは、心から悲しみながらもその贖罪のために課された罰を自ら引き受け、毎週7つの悔罪詩編を読むことを自分の義務としたという。その最愛の娘は32歳にして帰らぬ人となった。そのとき、ガリレオは70歳だった。

読んだ本:青木靖三『ガリレオ・ガリレイ』(岩波新書、1965)

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電話の発明者ベルのもう一つの顔――『孤独の克服――グラハム・ベルの生涯』を読む2009年08月24日

 昨晩もなかなか眠れなかった。思い切って起き出し、『孤独の克服――グラハム・ベルの生涯』を読んだ。501ページの分厚い本を一気に読むのは爽快だった。この本は日本の電話事業が開始されてから100年を記念してNTTから出版された本であるらしい。

 グラハム・ベルは電話という世紀の発明を成し遂げた成功者であり、ヘレン・ケラーの庇護者としても知られているが、詳しいことはこの本を読むまで知らなかった。

 この本はベルのメモ、書簡や裁判記録、妻メイベルの日記を含む膨大な史料など、詳細な調査に基づいて執筆されている。これを見ると、ベルは発明家としての業績も素晴らしいが、本来の専門の音響学の才能ある研究者であり、視話法の普及に尽くし聴覚障害者教育に大きな貢献をしており、人格的にも優れた人物であることが分かる。

 電話の発明でベルは名誉と富を得た。しかし、そのために18年にもわたる裁判に神経をすりへらした。彼を守ったのは、愛する家族や友人達だった。彼の人生全体を見て気がつくのは、発明のきっかけも、豊かな人脈も、その幸せな家庭生活も、本来の研究と聴覚障害者教育での出会いがもたらしたものだということだ。例えば電話発明の発想を得たのは、音響学の研究の延長上で電気と音の関係に興味を持ったことに始まるし、彼の電話発明と企業化のパートナーである企業経営者トマス・サンダースと弁護士を開業しているG・G・ハバードとの出会いも、その子女が聴覚障害者で、ベルの個人レッスンを受けていた生徒であったところから交流が始まっている。ちなみにベルは後にハバートの娘メイベルと結婚し、幸せな家庭を築くのだが、彼女は聴覚障害者だった。

 ベルのヘレン・ケラーへの援助も長期的で心細やかな配慮に基づいたものであった。ヘレンとの出会い以後、ヘレンとアン・サリバンの教育成果を機を捉えては宣伝し、心ない人々の攻撃から守り、落ち込んだ彼女たちを慰め、時に聴覚障害者教育の専門家として必要なアドバイスを与え、ヘレンの父親が亡くなって家産が傾いてからは様々な名目で必要な経済支援を行い、更にヘレンが講演の通訳(ヘレンは小さな声でしか話せなかったので、声を大きくして聴衆に伝える必要があった)のピンチヒッターを電話で頼んだときは(サリバン先生は風邪で寝込んでいた)快く引き受けてステージにも立っている。

 ベルに名誉と富をもたらしたのは発明の成功だが、彼に安らぎと幸せをもたらしたのは、聴覚障害者教育のほうだったような気がする。

読んだ本:『孤独の克服――グラハム・ベルの生涯』(NTT出版、1991)

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