塩野七生『ユリウス・カエサル ルビコン以後 ローマ人の物語』を読む2009年11月18日

『ユリウス・カエサル ルビコン以後  ローマ人の物語
 ようやく『ユリウス・カエサル ルビコン以後 ローマ人の物語』を読み終えた。読後感に浸っている。忘れない内に、印象に残ったところを整理しておこうと思う。

 ローマの内戦、即ちかつての盟友ポンペイウスとの戦いは、大方の予想を裏切って、カエサルの勝利に終わる。興味深いのは、ルビコン以後のカエサルには、ガリア戦のような残酷さがないことである。明らかに兵力、資力他多方面で劣勢でありながら、基本的に、敵の捕虜は解放、降った敵の将軍がポンペイウスの元に戻ることさえ許している。カエサルは内戦後のローマを分裂状態にしないためにそうした態度を守ったのだろう。そればかりか、塩野七生さんは、カエサルが最終的に、実質上はカエサルの独裁であっても表面上はポンペイウスとの二頭政治にもっていくことで、両派を統合しつつ、事実上の帝政への移行を意図していたのではないかとの卓見を披露している。

 なにしろ、戦争処理にあたっても、カエサルは処刑名簿を作ることを拒否、ポンペイウス側についたキケロ等元老院議員たちが元の地位に戻ることも許したのだった。そればかりではなく、ポンペイウス側についた者も必要であれば重職に就かせることも厭わなかった。むろん、元老院側の勢力を削ぐための人事や制度改革などの仕掛けは忘れなかったにせよ、である。塩野七生さんはカエサルのこの態度を「寛容」と呼んでいる。

 ローマ人は同胞に対していつも「寛容」であったわけではない。スッラによる反対派の徹底的な粛清にしても、内戦においてポンペイウス側はローマ人であろうと容赦なかったのを見ても、またカエサル暗殺後に後継者となったオクタビアヌスや権力者アントニウスが処刑名簿を作り共和制支持者を根絶やしにしたのを見ても、カエサルが特別であったと言っていいだろう。

 カエサルは様々な改革を行い、ローマに事実上の帝政を敷いた。カエサルは共和制の限界を見極め、拡大したローマにふさわしい制度として「ローマの将来がモナルキア(一人の統治システム)にある」と考え、王位には執拗な拒否で対したのである。帝政を完成させたのは、後継者であるオクタビアヌス(アウグストゥス)だが、基盤を築いたのはカエサルだった。

 それにしても情けなくだらしないのは、カエサルの暗殺者達である。直接カエサル暗殺に関わったのは14名、興奮して滅多刺しにした。首謀者はカエサルの最愛の愛人セルヴィーリアの息子マルクス・ブルータスであり、主要メンバーにカエサルが愛した部下デキムス・ブルータスが入っていた。二人ともブルータスという姓だが、カエサルの最後の言葉「ブルータス、お前もか」が指しているのは、研究者によれば、後者の方デキムス・ブルータスであるという。カエサルの死後に公開された遺言状にも名があったほど、カエサルは彼を信頼していた。それほど大それた殺人を犯した彼らだが、先見性もなければ、限界を迎えた共和政を有効に機能させる構想もなく、民衆の反発や後の影響を予測することすら出来なかった。ただ、カエサルさえ殺せば共和制を守れると思い、あるいは個人的な恨みやカエサルに冷遇されたとの思い込みから、暗殺に与し、ローマにとって害だけをもたらした歴史的犯罪に手を染めたのであった。

 カエサルが戦勝後から暗殺までのごく短い期間に行った各方面の政策と改革、ユリウス暦等の文化事業、そして果たせなかった素晴らしい構想の数々、出身の尊卑よりは本人の能力を尊んだことを見れば、カエサルにあと10年の時間が与えられたら、その先見性と寛容さにより、ローマの帝政のあり方が、ひいてはその影響を受けた「帝国」は違うものになっていたような気がする。それらの可能性を打ち砕いた暗殺という卑劣な行為に、2000年後に生きる私でさえ怒りを覚える。

 次は、『パクス・ロマーナ ローマ人の物語Ⅵ』、政治家としてのカエサルの先見性と寛容の精神、改革の手腕によって築かれたローマ帝国の基盤を、カエサルの意図を理解できなかったアントニウスとクレオパトラを打倒し、後継者としての地位を確固たるものにしたオクタビアヌス(後のアウグストゥス)がどのように理解し、受容し、発展させていくのだろう。この後を読むのがとても楽しみである。

読んだ本:塩野七生『ユリウス・カエサル ルビコン以後 ローマ人の物語』(11,12,13、新潮文庫)

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論文・王耀徳「日本統治期台湾人入学制限のメカニズム」を読む2009年11月20日

 届いたばかりの『天理臺灣學報』(第18号、天理台湾学会)に面白い論文を見つけた。王耀徳「日本統治期台湾人入学制限のメカニズム」である。王耀徳氏のこの論文は「台湾人進学を抑圧する仕組みにおいて、一定の入学比率制限が存在していることは広く認知されていたものの、その具体的な状況に関する検討はあまりにもなされてこなかった」という研究状況を踏まえ、「戦前台南における台南州立台南第一中学校と第二中学校の比較、さらには台湾総督府台南高等工業学校の実態を通して、台湾人入学制限のメカニズムや論理を検討」した研究である。

 以前から、日本統治時代の教育面の台湾人差別の実態について、客観的なデータをみたいと思っていた。その意味でとても興味深い論文だったので、覚え書きを残しておこうと思う。

 台湾人入学制限のメカニズムについて、1919年の台湾教育令は日台分離、即ち日本人と台湾人が別の学校に就学するという教育制度であった。教育の質や水準は日本の学校と比べて低くても、台湾人の教育を受ける機会は守られていた。(このあからさまな愚民政策は強い反発を招いたと思うが…)同論文が主題としているのは、1922年の新台湾教育令の方である。この法令は一視同仁、平等教学というスローガンを掲げており、中等教育以上の学校で日台共学制度を実施したもので、制度上は台湾人も日本人も同程度の中等教育機関に受け入れられる体制が整えられた。

 ところが教育制度同化は、実際には台湾人の中等・高等専門教育機関への進学機会を奪うものとなった。同論文で言及されている理由で一番気になるのは、総督府当局の学校運営への干渉と圧力、及び学校上層部の自主的な作為による、台湾人入学者の人数制限である。同論文のデータから日本人と台湾人入学者の比率を見ると、台南一中は日本人9:台湾人1、台南高工は初年度が5:5であった他は日本人8:台湾人2から日本人9:台湾人1である。法令上の差別はないのだから、言葉の壁や教育環境の不利はあったにせよ、この割合は不自然である。「裏で厳密に操作」したのだという見方は妥当だろう。論者は「形式的な試験制度の裏には台湾人の入学者数の比率を制限する規定があったことは疑いの余地がない」としている。

 但し、これは多くの台湾人の証言と入学比率のデータの考察に基づいているが、いわば状況証拠による結論である。データは興味深いけれど、総督府当局が「裏で厳密に操作」したと断じるのは、少々論拠が弱い感じを受ける。台湾人の入学者数の比率を制限する規定を盛り込んだ台湾総督府学務部の内部文書や当時の上層部の人物の証言などの直接的な証拠が見つかれば、もっと説得力が増すと思う。このあたりの日本側の史料の発掘はどうなっているのだろう。まだ見つかっていないのだろうか?

 この論文を読んでいて、ふと、台湾で戦中から戦後にかけて活動した文学サークル・銀鈴会の同人の方々にインタビューしたときのことを思い出した。台湾人の公学校と日本人が通う小学校との年限の違い、台湾人には狭き門の中等学校の激烈な受験戦争、台湾人に認められた高学歴の職業が教師、医師や薬剤師くらいしかなかったことなど…、言葉の端々から日本統治時代の被差別体験が、彼らの心に傷を残したことをうかがわせた。

読んだ論文:王耀徳「日本統治期台湾人入学制限のメカニズム」『天理臺灣學報』(第18号、天理台湾学会、2009)


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水野直樹・藤永壮・駒込武 編『日本の植民地支配――肯定・賛美論を検証する』を読む2009年11月25日

 『日本の植民地支配――肯定・賛美論を検証する』を読んだ。一読して「模範回答集」だと思った。日本の植民地支配を肯定したり賛美したり言論には、いくつかのパターンがあり、その際よく挙げられる事例がある。これを20の質問にまとめ、それぞれの問題について、歴史研究者が具体的な論拠を示して答えるQ&Aで構成したのが本書である。

 質問は、例えば「近代的な教育の普及は日本の植民地支配の[功績]なのか?」「植民地支配は近代的な医療・衛生の発展に寄与したのか?」「植民地の工業化・インフラ整備は民衆生活を向上させたのか?」他にも朝鮮「併合」問題、慰安婦問題、朝鮮人と台湾人の志願兵問題、植民地支配に対する賠償・補償問題など、いずれも複雑な経緯や事情が絡んでいる微妙な問題である。

 これを第一線の歴史研究者が、歴史的事実を丁寧に積みあげて検証することで、日本統治時代を美化する見方の誤りを指摘する内容になっている。ただ、ブックレットだけに紙幅に限りがありすぎる。一つ一つの問題が、一冊のブックレット、あるいはそれ以上になる内容である。それをほんの2-3頁にまとめるのは、苦労したに違いない。これは模範回答集であって、より詳細な事実関係を理解してこそ価値がある。そのためにも、巻末掲載の引用・参考文献を参考にしたほうがいいだろう。

 ちなみにこのブックレットは図書館で借りたのだが、購入しようと調べたら、書店にも発行元にもなく、アマゾンに古本は出ていたが希少品扱いであった。

読んだ本:水野直樹・藤永壮・駒込武 編『日本の植民地支配――肯定・賛美論を検証する』 (岩波ブックレット、岩波書店、2001)

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駒込武・橋本伸也 編『帝国と学校』を読む2009年11月27日

駒込武・橋本伸也 編『帝国と学校』
 『帝国と学校』(昭和堂)を読んでいる。「帝国と学校」、まさにいまの私の興味とぴったりのタイトルにひかれて手に取った。

 序論がいわば総論で、それ以降は「帝国と学校」というテーマを、論者がそれぞれのフィールドで論じる構成となっている。序章の冒頭に「本書は19世紀から20世紀前半にかけてのロシア帝国、ハプスブルク帝国、大日本帝国、大英帝国、アメリカ合衆国の例に即して、世界史的な視野から[帝国と学校]という問題群を考察するための手がかりを獲得することをねらいとしている。」とあるように、とくかくフィールドが広い。

 そして素材が面白い。ロシア帝国におけるユダヤ人の教育問題、モラヴィアのチェコ系とドイツ系住民の民族言語相互習得の問題、ウィーンのチェコ系小学校、日本統治下の朝鮮における非義務教育制と学校の普及の問題、日本統治下の台湾における先住民族児童の就学率と実態、大英帝国統治下のナイジェリアにおけるミッションスクールによるエリート育成の功罪、朝鮮における近代教育の先駈けであるミッションスクールの生成と発展、イギリス帝国と女性宣教師、アメリカ合衆国という帝国と日本女子大学、官立女子高等師範と奈良女子高等師範の満州への修学旅行、など。いずれも興味深い素材を扱っている。

 さらっと読んだが、アジア以外の部分では歴史的背景がつかめない部分もあったので、関連書を図書館で探して、もう少し深く読んでみようと思っている。

読んでいる本:駒込武・橋本伸也 編『帝国と学校』(昭和堂、2007)

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学習発表会「ミステリー・きえたゆびわをさがせ」2009年11月28日

 昨日は一年に一度の学習発表会だった。娘は、役決めのときにタイミング良く学校に復帰したおかげで、希望通り「まちのひと」になれた。嬉しそうに報告してくれた娘だが…台本を見ると、「まちのひと」はとても地味な役。この役の何処が娘を惹きつけたのだろう、不思議に思って理由を聞いたところ、「この役の言葉が一番女の人らしかったから」という回答だった。この後…役決め直後にインフルエンザで一週間お休みしたものの、「まちのひと」のセリフが多くなかったおかげで、すぐ覚えられたし、歌の練習もなんとか間に合って、無事本番を迎えることができたのだった。

 劇のタイトルは「ミステリー・きえたゆびわをさがせ」。小学校低中学年向けの歌と台詞で構成された劇である。あらすじは以下の通り。


むかしむかし、あるところに、魔法の指輪の国があった。魔法の指輪のおかげで、いつも平和だった。ところが、指輪がぬすまれ、「たぬきのてがみ」という不思議な暗号文の手紙が残される。その暗号を解くと、盗んだのは大魔神だとわかる。おとなたちがおそれおののくなか、子どもたちは、指輪を取り返すための冒険の旅に出る。とちゅう、火の巨人、水の魔神と出会い、彼らの出した暗号文(「ことりのてがみ」「かみきりむしのてがみ」)のなぞをときながら、すすんでいく。最後に出会った大魔神は、子どもたちに「かたつむりのてがみ」を見せる。さあ、大魔神の正体は!? 指輪のゆくえはどこか!!


 歌もお芝居も子供達が一所懸命にやっているのが分かって、なかなか可愛かった。例年は体育館の舞台を使うそうだが、今年はインフルエンザ流行を予防するため、教室で行われたので、客席との距離が近く、子供の表情がよく見えて却って良かったような気がする。

 なにより…この秋は運動会も遠足も参加できなかったので、今回の学習発表会でクラスメートと楽しい時間を共有できて本当によかった。