毎晩読んでる『斉藤孝のイッキによめる!音読名作選 小学一年生』 ― 2008年10月04日
娘の「まじょ子」ブーム、とうとうあと二冊を残してシリーズを読んでしまった。その二冊も図書館にリクエスト済み。次に来るのは…とちょっとだけ気になる今日この頃である。母としては、美しい日本語を読んで欲しい気持ちもあったりするので…それで購入したのが『斉藤孝のイッキによめる!音読名作選
小学一年生』。
これが思った以上に娘に好評である。娘が気に入って何度も何度も読んでいるのが、宮沢賢治「やまなし」、斉藤弘「ペンギンたんけんたい」、落語の「うそつき村」と「わらいだけ」、新見南吉の「手袋を買いに」…特に冒頭に載っていた「やまなし」の「クラムボン」という不思議な名前に、次に載っていた「ペンギンたんけんたい」の「エンヤラドッコイ」のかけ声に惹かれたらしい。他の作品も含め、さすがに斉藤孝さんが選んだ部分、どれも絶妙だ。「これからどうなるのだろう」と思わせる力がある。母子で楽しませて貰っている。
読んだ本:『斉藤孝のイッキによめる!音読名作選 小学一年生』(講談社、2008)
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これが思った以上に娘に好評である。娘が気に入って何度も何度も読んでいるのが、宮沢賢治「やまなし」、斉藤弘「ペンギンたんけんたい」、落語の「うそつき村」と「わらいだけ」、新見南吉の「手袋を買いに」…特に冒頭に載っていた「やまなし」の「クラムボン」という不思議な名前に、次に載っていた「ペンギンたんけんたい」の「エンヤラドッコイ」のかけ声に惹かれたらしい。他の作品も含め、さすがに斉藤孝さんが選んだ部分、どれも絶妙だ。「これからどうなるのだろう」と思わせる力がある。母子で楽しませて貰っている。
読んだ本:『斉藤孝のイッキによめる!音読名作選 小学一年生』(講談社、2008)
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中国・清末、清政府が設立した京師大学堂編書処による教科書編纂――中国小学教科書編纂事情(1) ― 2008年10月04日
清末は、新しい教育体制への移行期である。この時期の教科書編纂事情は大体以下のようであった。
清末、「新式学堂」の設立を奨励した新政府は新式学堂向けの教科書が足りないことに気づき、慌てて教科書編纂の専門機関である編訳局を設立し、組織的に教科書編纂に当たらせることとした。
そこで、1901年12月、京師大学堂(北京大学の前身)に編訳書局が附設された(内部で編書処と訳局に分かれていた)。京師大学堂編書処は「普通学課本」の編纂を行うものとされた。翌年の1902年になると、蒙学小学と尋常小学向け、及び高等小学と中学向けの二種類の教科書編纂に着手する。編纂が求められた教科は「修身」「倫理」「字課」「作文」「経学」「詞章」「中外史学」「中外輿地」「算学」「名学」「理財」「博物」「物理」「化学」「地質」「礦産」等で、自然科学を主とする35科目であった。京師大学堂編書処と訳書局はいわば臨時の教科書編纂所であって、当面の教科書不足を補うため、外国で通用している本を翻訳し、そこから教科書に載せる内容を編集するのが主な仕事であったようだ。
京師大学堂編書処は、教科書編纂について、相当の大事業であり作業期間が必要と見込んだ。また、これだけの仕事を一局で担えるものではない、として、妙案をひねり出した。
それはこのようなものであった。まず内外の専門家を招集して、「学堂章程」の課程計画の規定に基づき、目次を編集した。次に目次を学務大臣が審査、その後、「各省の文士が、政府の発行した目次に基づいて教科書を編纂すれば、学務大臣の審査を経て、使用することとする」と檄を飛ばした。つまり、地方、民間での教科書編纂を奨励したのである。いわば急場しのぎの教科書検定制であった。
この京師大学堂編書処と訳局は、1904年、その仕事を終え、かわって後は新たに設立された学部編訳図書局が教科書編纂の任を負うこととなる。 (2008年10月5日修正)
参考:呉洪成『中国小学教育史』(山西教育出版社、2006、中国語)
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清末、「新式学堂」の設立を奨励した新政府は新式学堂向けの教科書が足りないことに気づき、慌てて教科書編纂の専門機関である編訳局を設立し、組織的に教科書編纂に当たらせることとした。
そこで、1901年12月、京師大学堂(北京大学の前身)に編訳書局が附設された(内部で編書処と訳局に分かれていた)。京師大学堂編書処は「普通学課本」の編纂を行うものとされた。翌年の1902年になると、蒙学小学と尋常小学向け、及び高等小学と中学向けの二種類の教科書編纂に着手する。編纂が求められた教科は「修身」「倫理」「字課」「作文」「経学」「詞章」「中外史学」「中外輿地」「算学」「名学」「理財」「博物」「物理」「化学」「地質」「礦産」等で、自然科学を主とする35科目であった。京師大学堂編書処と訳書局はいわば臨時の教科書編纂所であって、当面の教科書不足を補うため、外国で通用している本を翻訳し、そこから教科書に載せる内容を編集するのが主な仕事であったようだ。
京師大学堂編書処は、教科書編纂について、相当の大事業であり作業期間が必要と見込んだ。また、これだけの仕事を一局で担えるものではない、として、妙案をひねり出した。
それはこのようなものであった。まず内外の専門家を招集して、「学堂章程」の課程計画の規定に基づき、目次を編集した。次に目次を学務大臣が審査、その後、「各省の文士が、政府の発行した目次に基づいて教科書を編纂すれば、学務大臣の審査を経て、使用することとする」と檄を飛ばした。つまり、地方、民間での教科書編纂を奨励したのである。いわば急場しのぎの教科書検定制であった。
この京師大学堂編書処と訳局は、1904年、その仕事を終え、かわって後は新たに設立された学部編訳図書局が教科書編纂の任を負うこととなる。 (2008年10月5日修正)
参考:呉洪成『中国小学教育史』(山西教育出版社、2006、中国語)
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