子供が読んで理解出来る篤姫の本『みんなの篤姫』2008年09月01日

寺尾美保『みんなの篤姫』
 大河ドラマ「篤姫」が大好きな娘、テレビを見ながら「じょうらくってなーに?」「ようしってなーに?」「おはものってなーに」という具合にいつも質問してくる。言葉の意味くらいなら、その場で簡単に答えられるが、江戸時代末期の時代背景、役職と役割、当時の風俗習慣、家族関係、女性の社会的立場などが絡んでくると、これを簡単な言葉で説明するのは至難の業である。そのようなわけで、子供向けの篤姫の本を探していたところ、旅行先で寺尾美保『みんなの篤姫』(尚古集成館、2008)を見つけた。

 ほとんどルビ付きで、歴史的な事柄の解説ばかりでなく、歴史を調査する方法、歴史の研究とはどういうものかといったことを、分かりやすく丁寧に、子供にも分かるように説明してくれている。説明は簡単な言葉を使ってはいても、大人も十分勉強になるし、啓発される内容となっているのが素晴らしい。
 
 小学一年生の娘、いままではNHKのガイドブックを眺めていたが、この本は自分で読んで篤姫のことが分かるのが楽しいらしい。娘にとってもいい本と巡り会えて本当によかった。

読んだ本:寺尾美保『みんなの篤姫』(尚古集成館、2008)

かるかん・軽羹の源流を探る~鹿児島名物の歴史2008年09月02日

 今回の鹿児島旅行では軽羹のもちもちした食感と上品な甘さ、おいしさに初めて目覚めた。ツアーに組まれていた昭和製菓の工場で試食した軽羹、娘も気に入って、美味しくいただいている。私の父が九州の出身だったせいか、子供の頃から何度も食しているはずだが、正直なところ美味しいと思ったことはなかった。思えば、流通が今ほど良くなかったので、本来美味しいお菓子も、私の家に運ばれるまでに日がたってパサパサになってしまっていたのだろう。

 調べてみると、軽羹は江戸時代の高級なお菓子だったそうである。江戸中期・元禄時代の薩摩藩・島津家20代綱貴50歳の祝膳の記録に軽羹が記載されているそうだ。実は、以前は島津斉彬が江戸から招いた菓子職人が作ったもの、とされてきた。その経緯は、かるかん元祖・明石家のHPによれば、「薩摩藩主島津斉彬公は安政元年、江戸で製菓を業としていた播州明石の人、八島六兵衛翁を国元の鹿児島に連れてきた。江戸の風月堂主人の推挙により、その菓子づくりの技術と工夫に熱心なところを評価してのことであったという。六兵衛翁は性剛直至誠、鹿児島では「明石屋」と号して、藩公の知遇を得た。翁はここで薩摩の山芋の良質なことに着目し、これに薩摩の良米を配して研究を続け、「軽羹」を創製した。」という。

 更に明石家HPでは、「軽羹」の名前の由来について、「羹」という字と、薩摩藩の献立が琉球の影響を強く受けていることから、中国系であろう、と推測している。字の解釈で考えれば、「羹」は「羮(あつもの)、とろみのあるスープ」の意味である。但し、中国北京の元代以来の伝統的な菓子「栗子羹」のように押し固めたもの、ゼリー状のものを指すこともある。この「栗子羹」は元々女真族や朝鮮半島の貴族の間で食べられていたお菓子であるらしい。

 ところで、「軽羹」によく似ている菓子が中国と朝鮮半島にある。中国では「米糕」とよばれる中の「蒸糕」、朝鮮半島では「トッ」とよばれるなかの「チントッ」「シルトッ」がそれで、米の粉(米・うるち米・もち米)を使う蒸し菓子である。色とりどりだったり、ナッツやドライフルーツが入っていたり、きなこやごまがまぶしてあったりするので、一見全く別のものに見えるが、基本的な製法は同じである。シンプルなものについては、軽羹に非常によく似ている。特に朝鮮半島の「トッ」の歴史は古く、新羅時代(西暦676-935年)の壁画に描かれているそうだ。

参考:
明石屋HP(日本語) 
「軽羹百話」 http://www.akashiya.co.jp/karukan100/index.html
「明石屋の軽羹」 http://www.akashiya.co.jp/karukan/index.html
北京小喫-栗子涼糕(中国語) http://news.fantong.com/specialtext/2006-12-26/784.html
韓国の伝統餅「トッ」を探る(日本語) http://www.konest.com/data/korean_life_detail.html?no=1953%E9%AC%A9%E6%90%BE%EF%BD%BD%EF%BD%B5%EF%BF%BD%EF%BD%BF%EF%BD%BD%EF%BF%BD%EF%BD%BD%EF%BD%BD%EF%BF%BD%EF%BD%BD%EF%BD%B2

篤姫ゆかりの地・今和泉と指宿をゆく2008年09月04日

篤姫の父・島津忠剛のお墓
 今回「篤姫ツアー」に参加して、ガイドさんと添乗員さんの案内のもと、篤姫ゆかりの地を中心に回った。初めに指宿方面へ向かった。目的地は指宿篤姫館である。見学時間が30分だったので、あまりに短いように思ったが、主に篤姫の物語の説明や篤姫野部屋のセット、撮影に使った衣装や小道具を展示しており、他に、宮崎あおいさんが指宿にきたときの映像を流していた。小規模な展示ながら、篤姫のお部屋のセットで写真を撮ったり、あおいさんの映像をみたりして、楽しんだ。他に、砂蒸し風呂も娘と二人で体験してみた。「篤姫も砂蒸し風呂を楽しんでいたと思います」とガイドさんの台詞。なにしろ、篤姫ツアーですから(^^)砂蒸し風呂は江戸時代にはすでに行われていたと言う。別邸からも近いので篤姫もここを訪れていたと思うと、歴史の息吹も感じられて何だか楽しくなった。

 そして翌日、今和泉島津家の別邸があった今和泉を地元のボランティアガイドさんの案内で歩いた。今和泉駅を経由して案内されたのは、まず…今和泉島津家の墓地。ここには篤姫の父親で今和泉家第五代当主・島津忠剛や第六代当主・長兄の忠冬が眠っている。篤姫の祖父にあたる斉宣(斉彬の祖父、篤姫の父・忠剛は7男。つまり篤姫と斉彬は従兄妹である)は薩摩藩の島津家第26代・第9代薩摩藩主だから、ここには眠っていない。母親のお幸の方とドラマでは篤姫と仲良しの三兄・忠敬は明治になってから亡くなった為、墓は鹿児島市内にあるそうだ。

 この墓地で小さなハプニング。墓地には可愛い生まれたばかりの子猫がたくさんやってきて、警戒心無く足もとをウロウロするので、娘がこわがって泣き出してしまった。それで、墓地では娘がなきじゃくりながら背中にしがみついていたので…説明も聞けないし、娘も可哀想だし、困ってしまった。

 お墓の後は豊玉媛神社まで歩いていった。篤姫も恐らく幼い頃に参拝しただろう、とのことだったが、記録に残っているわけではない。今回は時間が無いために回ってもらえなかったのだが、今和泉島津家の別邸は1754年(宝暦4年)につくられ、現在では今和泉小学校になっており、手水鉢や井戸が僅かにのこっている。

 そういえば、ドラマでは仲の良い家族の姿が描かれて、お幸の方が於一に「於一は風の役割を考えたことがありますか?」「風があるから雲が動く、雲が集まって雨になる、雨が降るから木が育つ、木があるから火が燃える、木が燃えて風がおこる、この世のものにはみな役割があるのです」と諭す場面が印象的で、あれは今和泉の場面だったと思う。でも実は今和泉の別邸には父・忠剛の側室がいたので、お幸の方は来ることはなかったと言われている、とガイドさんは話していた。

 今回、今和泉島津家、島津宗家ゆかりの地や資料館をめぐり、関係書を読んでみて、篤姫の幼少時代の記録といえるようなものは全くないことがわかった。生家・今和泉島津家の遺構さえもほとんど残っていない。考えてみれば、薩摩藩では御一門4家の名門出身ではあっても当時は家来の娘に過ぎなかったのだから、当たり前なのかも知れない。それをドラマに仕上げてしまうのだから、小説家の想像力は本当にすごい。

 篤姫のおかげで、自然の美しい今和泉と指宿に行くことが出来て、いい思い出になった。

篤姫ゆかりの地2・鹿児島市をゆく2008年09月05日

篤姫の衣装を着て
 篤姫ツアー、最後の日は雨だった。午前中は、島津家の別邸であり、廃藩置県後は本邸ともなった仙巌園を、傘を差して散策した。ここでは「篤姫」の様々な場面が収録されたらしい。仙巌園の正門にはドラマ「篤姫」収録の写真が展示されていた。また、男装した於一が茶屋でお茶を飲んでいるところに、三兄・忠敬がやってくる場面、尚五郎と話ながら歩く場面、他…ドラマで見た場所を歩いた。島津斉彬の養女となった篤姫、島津斉彬ご自慢の集成館を説明してもらいながら回ったりしたのだろうか。

 今回、娘が一番楽しみにしていたのは、立礼茶席「竹徑亭」の御抹茶である。篤姫の生家・今和泉島津家第11代の未亡人である島津和子さんがたててくださる御抹茶と和菓子をいただくと聞いてのことであった。たぶん篤姫の家族に会えると思ったのだろう。島津和子さんはこちらでお茶の指導をしているそうだ。このとき戴いたのは、うちわの形のお菓子と風鈴を焼き付けた干菓子のような風流なお菓子だった。

 仙巌園は桜島を山、錦江湾を池に見立てた借景庭園である。錫門、江南竹林、日本で初めてガス灯をともした鶴灯籠、琉球の国王が献上したと伝えられる望嶽楼、曲水の庭、そして御殿…一つ一つにいわれもあり、出来ることならゆっくり回りたかったが、雨でもあり、集合時間もせまっていたので、軽く一周してそのまま島津家の資料を展示している尚古集成館へ赴いた。

 尚古集成館には興味深い展示がたくさんあった。「集成館」とは「幕末、時の薩摩藩主であった島津斉彬は、アジアに進出して植民地化を進める西欧諸国の動きにいち早く対応するために、製鉄、造船、紡績等の産業をおこし、写真、電信、ガス灯の実験、ガラス、陶器の製造など、日本の近代化をリードする工業生産拠点」のことである。1923年(大正12年)より、集成館事業及び、それを進めた島津家の歴史の博物館になっている。以前紹介した『みんなの篤姫』の著者・寺尾美保さんはここの学芸員である。

 こんな宝の山のようなところにきたのだから、展示も説明もじっくり見たかったのだが…娘はまだ一年生、暗い資料館があまり好きではないので…篤姫館ではずいぶん熱心だったから好きなものなら別だと思うが…急かされて、手を引っ張られて、あまりゆっくり見ることが出来なかった(_ _;)。せめてそれを補えるようにと『島津斉彬の挑戦-集成館事業-』という本を一冊購入、娘には篤姫と同じお守りをお土産にした。

 さて、次に向かったのは於一の生家である今和泉島津家の本邸跡、そして篤姫誕生の地。鶴丸城。といっても車窓見学である。篤姫の生家の敷地は四千六百坪あったといい、場所は現在の鹿児島市大龍小学校の西隣、僅かに残っている石垣を見ることが出来た。

 西郷隆盛を祭る南州神社、西南戦争の戦死者が眠る南州墓地、西郷隆盛の親筆を見ることが出来る南州顕彰館を見学。こちらで説明をしてくれたボランティアの方?は西南戦争には鹿児島人以外の武士が多く参加していたことを熱心に話してくれていた。南州顕彰館には小さな篤姫コーナーも設けられていた。

 最後に訪れたのが、鹿児島市の「篤姫館」である。桜島を望むドルフィンポート内に開設されている。大河ドラマの篤姫の衣装を着て写真が撮れるとあって、人が沢山並んでいた。娘も私も記念に写真を撮った。娘はなかなか決まっていたが、私の方はイマイチ…。

 篤姫にゆかりの地をめぐるツアーはこれで終わり。篤姫を堪能した二泊三日の旅を終えて帰途についた。鹿児島にはぜひもう一度来て、ゆっくり見学したい。その前に関連書を読んで今回疑問に思ったことなど勉強しておこうと思う。

篤姫ゆかりの地3――西郷隆盛と征韓論・明治六年政変・西南戦争2008年09月07日

西郷隆盛のお墓
 鹿児島で圧倒的な存在感を誇る人物といえば、西郷隆盛である。鹿児島県霧島市・西郷公園の10.5メートルもある大仏みたいな西郷隆盛像にせよ、西郷隆盛を神様として祭った南州神社にせよ、鹿児島における西郷隆盛は神様・仏様並みの扱いだ。今回の「篤姫」ツアーには西郷隆盛が葬られている南州神社・南州墓地・南州顕彰館も組み込まれていた。「南州」とは西郷隆盛の号である。

 私自身は、西郷さんについては、長い間、歴史の授業・教科書で習った内容に加え、司馬遼太郎の『翔ぶが如く』のイメージが強かった。だから、明治六年、西郷隆盛や江藤新平が下野したのは、征韓論で政府が分裂したことによるもので、西郷さんが野に下り、士族に祭り上げられて西南戦争に至ったと単純に信じていたのだが…異論がいろいろと有るらしいことを、添乗員さんに教えて貰った。西郷隆盛が唱えていたのが征韓論ではなく遣韓論であったことなど…である。

 そこで帰宅してから毛利敏彦『明治六年政変』を読んでみた。毛利氏は明治六年政変について、岩倉使節団の政治的失敗と期間延長という誤算による、留守政府との乖離がなかったら起きなかったであろう、としている。一方、征韓論の方も、李氏朝鮮が明治政府との国交再開を非礼なやり方で断ってきたことから、武力による開国・征韓論を主張する者が出る中で、西郷はむしろ板垣等の過激な意見を諫め、平和的に李氏朝鮮と国交再開及び開国交渉にのぞむべく、自ら使者として朝鮮へ赴こうとしていたといい、公式の場で朝鮮出兵を主張したことはないという。ただ、板垣宛書簡において、板垣の主戦論を抑える為の方便として述べた「暴殺」を望むかのような表現が一人歩きして、征韓論の主唱者とされてしまったというのである。「朝鮮への使節派遣を強力に唱えた西郷の真意は、むしろ交渉によって、朝鮮国との修交を期すことであった」と毛利氏は述べ、そして明治六年の政変については、長州閥と大久保によるクーデターであって、征韓の阻止を目的とするものではなく、「西郷を巻き添えにしてでも反対派を政府から追い出すことを決意して」決行されたものである、という見解を示している。

 他にも、今回旅先で購入した西郷の逸話を集めた西田実『大西郷の逸話』、この本は勝海舟等西郷を個人的に知る人物の回想、手紙等の文献史料、更に広く民間の逸話などを集め、西郷さんの人間像を浮き彫りにしようとしているものだが…数々のエピソードを列挙して、西郷が征韓論の主唱者ではないことを述べている。

 併せて小川原正道『西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦』を読むと、西南戦争では西郷は盟主とされながらも結果として表に出てきていないことなど、意外な事実が分かってきた。

 明治六年政変は、1873年、いまから135年前に起きた出来事である。近代史の範疇であって、多くの人が関わり、近代日本最後の内乱・西南戦争の一因となった明治六年政変について、また政変の発端となった征韓論について、歴史の常識とされている内容に疑問を投げかける余地があったことが意外だったが、またそれが非常に説得力のある内容であったことに驚いた。但し、毛利氏の説は歴史学界で一定の支持を集めたようだが、定説になるには至っていない。

 考えてみれば、西郷隆盛は島津斉彬に見出され、その思想の影響を受けた人物である。島津斉彬は、列強の脅威に対抗しうる日中韓同盟を視野に入れた壮大な日本近代化構想を持っており、慶喜を将軍にして公武親和による中央集権体制への移行をはかり、開国、富国強兵をすすめようとしていた。篤姫の将軍家輿入れもその計画の一環であったはずだ。その西郷が征韓論ではなく、遣韓論を主張したとしたら、それはとても自然であるような気がする。日本の近代史を理解する為に、もう少し関連書を読んでみようと思っている。

読んだ本:毛利敏彦『明治六年政変』(中公新書、1979)
西田実『大西郷の逸話』(南方新社、2005)
小川原正道『西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦』(中公新書、2007)

日韓歴史共通教材『日韓交流の歴史』を読む2008年09月09日

日韓歴史共通教材『日韓交流の歴史』
 昨年完成して出版された日韓歴史共通教材『日韓交流の歴史』にやっと目を通した。この本は、日本の歴史教育研究会と韓国の歴史教科書研究会が「正しい歴史叙述」を目指し、日本の東京学芸大学と韓国のソウル市立大学教授が編集を担当、両国の大学教員、博物館学芸員、高校教師、大学院生等が執筆にあたり、10年の歳月をかけて完成した高校生むけの歴史教材である。教科書問題への問題意識から出版された書籍の多くが近現代のみをとりあげている中で、この本は古代から現代までを対象にしているのが新鮮だった。日韓の歴史認識がかけ離れている故に、執筆に際しては相当議論し、苦心したであろうことも十分推察できる内容である。

 特にすごいと思ったのは、百済復興戦争に日本が参戦した経緯、モンゴルの高麗侵略から日本侵略、豊臣秀吉の朝鮮侵略、征韓論のことなども、通説ではなく、新しい研究成果を取り入れていることだ。他にも、両国で歴史的評価が異なる事柄・人物についても、客観的な事実を記述しようとする努力が感じられた。但し、公平性を重んじるからであろうが、歴史評価が分かれる問題等については記述内容が少々物足りないように思った。

 例えば、安重根の扱いである。「一方、義兵として活動した安重根は、1909年満州のハルビンで初代総監であった伊藤博文を射殺した。安重根は裁判過程で日本の侵略を糾弾し韓国の独立を主張して、自身は戦争捕虜であり国際法によって裁判を行うよう主張した。日本は安重根を暗殺者として死刑に処したが、日本人の中には安重根の毅然たる態度に感服する人もいた。」(203頁)安重根が伊藤博文を射殺した事件は、沢山の「?」があり、歴史評価は分かれている。私が知る限りでも、韓国支配の象徴的存在だった伊藤博文を射殺した義士という説、日韓併合に反対していた伊藤博文を射殺したことで併合を早めたという説、二つの異なる見方・歴史評価がある。このような問題の提起と説明は教師に委ねられるのかも知れないが…高校生向けの教材として書かれたものである以上、限界はあるのだろうが、事実の説明だけでは何か物足りない。ここから発展するものがあってもよさそうだ。

 正直いろいろ気になる点はあるものの、基準となるものを作り出す、というかたたき台を作り出したという意味で、大変価値がある仕事だと思う。何と言っても、お互いをよく知りもしないまま批判し合うという状況から、大きく一歩踏み出したのだ。こういう仕事が正当に評価され、またこれをきっかけに議論が喚起され、相互理解が進み、今後の日韓関係に良い影響を与えていってほしいものである。

読んだ本:日韓歴史共通教材『日韓交流の歴史』(明石書店、2007)

中国・清末、高等小学堂の入学式――1910年出版の『高等小学国文教科書』2008年09月10日

 資料集に面白い教科書を見つけた。宣統2年・1910年12月に出版された学部・編訳図書局編纂、京華印書局印刷の『高等小学国文教科書』(全八冊)である。収録されているのはごく一部のみだが、特徴ある課文を選んでいてとても興味深い。第一冊第一課は「開学記」、当時の入学式の様子を日記風に描写した課文である。大意は以下の通り。

 「1月の吉日、高等小学堂で入学式が行われた。交差した龍旗が、なんとも華やかで立派である。同級生はみな衣冠を正している。鐘の音がなると、堂長が教員や事務員と共に講堂に入り、前に立つと、学生もクラス別に入場して整列し、恭しく万歳牌と至聖位に向かい、三跪九叩首(跪いて三拝することを三度繰り返す)の礼を行った。礼が終わると、学生は堂長と教員に向かって一跪三叩の礼をそれぞれ行った。一切の儀式は初等小学堂と同じであるが、校舎は広くなり、授業の密度も濃くなり、規則も厳しくなる。同級生も増え、大いに雅やかである。向学心が自然に涌いてくる。」

 1月(原文は正月)に入学式、というのは奇異に感じるかもしれない。当時は学校は春季始業を採用しており、第一学期、第二学期の二期制で、第一学期が1月から、第二学期が7月からであった。(後に秋季始業になったらしい。)中国では当初学校は「学堂」と呼んでいたので、「堂長」は校長にあたる役職。ちなみに「龍旗」は龍が描かれた清国旗・黄龍旗のことである。確か三角の旗だったような…でも北洋艦隊の旗は四角だったような…と記憶が曖昧だったので、調べたところ1890-1912年は四角旗、1862-1890年は同じ意匠で三角旗だったことが判明した。

 なお、「万歳牌」「至聖位」は見たことがないが、三跪九叩首(跪いて三拝することを三度繰り返す)の礼は皇帝に対して行われる儀礼で、万歳牌は当時の皇帝・宣統帝、至聖位は皇帝の先祖に対する敬意を現すために、参拝を義務づけられたものだと思う。たぶん…。皇帝の前ではなく、身代わりのようなものに、三跪九叩首、更に校長と教員に向かっても一跪三叩の礼をそれぞれ行うというのだから大げさな感じがするが…戦前の日本でも学校儀式の中に、天皇の「御真影」「複写御真影」に「拝戴」する儀礼があったので同じようなものなのだろう。もしかしたら、日本の学校儀式から取り入れられたのかもしれない。それにしても衣冠をただして…とあるがどんな服装だったのだろう。イラストがあったら、もっとよくわかったのだが、イラストはないようで…ちょっと残念である。

参考:『小学教科書発展史』(国立編訳館、2005)
「中国にまつわるさまさまな国旗」(ブログ:閑話も休題) http://blogs.yahoo.co.jp/amatsukaze1/53834520.html

月に思うこと――月の模様と月餅と2008年09月11日

友人にいただいた貴重な特大の月餅
 ふと夜空を見たら、美しい月が見えた。半月よりも少し丸みを帯びて…そういえば、9月14日(日)が今年の中秋節。この月が3日もすれば満月になるのだ。

 先日、またもやプラネタリウムに母子で出かけた。月の満ち欠けの実験もよかったのだが、私はやはり文化的なもの…月の模様の話がとても面白かった。日本では月の模様を「うさぎの餅つき」というけれど、他の国では「カニ」や「読書をするおばあさん」「女の人の横顔」「吼えているライオン」「ワニ」「トカゲ」「キャベツ畑の泥棒」「カボチャを食べる男」「大きな木とその木の下で休む男の人」など実に色々に見ているらしい。いわれてみれば、そんなふうにみえるのもあるけれど…どうみてもそうは見えないのもあるなあ、と思う。

 中秋節には、中国では家族で集まって、年長者が人数分に月餅を切り、一人一切れずつ食べる。丸い月を家族団らんの象徴と考えているので、月餅を食べて、円満な生活を願うのだが…友人からもらった直径8センチもある特大の月餅、蓮餡で卵の黄身が3つも入っている豪華版で、中秋を待てずに思わず一口味見をしてしまった。

インターネット特別展「公文書に見る岩倉使節団」を見て2008年09月12日

 アジア歴史資料センターのHPでインターネット特別展「公文書にみる岩倉使節団」を見つけ、早速見てみた。時代背景の解説、使節団が辿ったルートを紹介した地図、使節団の主要メンバー、年表、そして何と言っても貴重な史料の数々を写真やマイクロで、岩倉使節団を知ることが出来る、見応え・読み応えのある特別展である。

 先頃読んだ『明治六年政変』では「岩倉使節団」について、大久保や木戸にとっては政治上失敗であったという見解であって、意外な感じがしたものだが、その視点も持っていたおかげで、この特別展を十二分に楽しめた。

 HPの説明によれば、アジア歴史資料センターは、国立公文書館、外務省外交史料館、防衛省防衛研究所図書館が保管するアジア歴史資料のうち、デジタル化が行われたものから順次公開しているという。しかも、「いつでも」「だれでも」「どこでも」「無料で」史料閲覧と印刷、画像ダウンロードができる、というとってもありがたいサービスである。

 なお「公文書に見る岩倉使節団」の他にも「条約と御署名原本に見る近代日本史」「公文書にみる日米交渉」「公文書にみる日露戦争」「『写真週報』にみる昭和の世相」等の特別展を行っている。ここで紹介されているのは、博物館の特別展では、ガラス張りの箱に入っていて、触ることも叶わない貴重な史料である。それをWeb上で一頁一頁めくって内容を確認できるのが素晴らしい。どれも見応えのある内容のようだ。専門外のことについて一次史料をみるのは、なかなか叶わないことであるが、こういう形で本物を見ることが出来るのは、なんと幸せなことだろう。

アジア歴史資料センターHP http://www.jacar.go.jp/
インターネット特別展「公文書にみる岩倉使節団」 http://www.jacar.go.jp/iwakura/index2.html

中国・中華民国時代、作家と漫画家がつくった教科書『開明国語課本』2008年09月16日

中華民国『開明国語課本』第11-12課
 小学初級学生用『開明国語課本』(上海 開明書店、民国21年・1932年初版)は、中華民国時代に40余版を重ねたロングセラーで、中国現代文学の著名作家・葉紹鈞(=葉聖陶)と、現代中国の代表的な美術家で「漫画の鼻祖」と称される漫画家・豊子愷、いわば大作家と大漫画家の協力によって誕生した教科書である。文章は全て葉紹鈞の創作、或いは再創作であり、字(一部活字も)と挿絵は豊子愷の手によるものである。

 この教科書の特徴は、なんといっても、読んで、見て、面白いところにある。とくに初学の子供向けの文字が少ない部分は、言葉がリズミカルで、絵が存分に生かされていて楽しい。日本語に訳してしまうと、中国語のリズムを届けられないのが残念だが…伝わるだろうか…例えばこんな感じである。

第8課 先生は言いました。「子ども達(原文:小朋友)は座りなさい、みんなで本を読みます」子ども達はみんな座って本を読みます。
第9課 牛は多く、羊は少ない。牛は大きく、羊は小さい。
第10課 三頭の牛が草を食べている。一頭の羊も草を食べている。一頭の羊は草を食べずに、花を見ている。
第11課 みんなで牛を描こう。まず牛の頭を描いて、それから牛の身体を描いて、それから牛の脚を描く。
第12課 みんなで牛の字を書こう、一、二、三、四。みんなで羊の字を書こう、一、二、三、四、五、六。

 第8~12課はそれぞれ独立しつつも、関連していて、授業の様子を絶妙に描いている。第9課に牛が三頭、第10課に羊が二頭描かれるが、一頭は草を食べずに花を見ているのもユーモラスだ。そして第11課で牛の絵の描き方を教え、第12課で一,二,三,四、と牛と羊の字を書かせる、このセンスが面白い。こんな感じで、子ども達の学校生活、日常生活に関連する様々な場面も文章と絵によって生き生きと表現され、いまの私たちから見ても、中国の当時の教室の様子、人々の服装や生活、情景が分かり、親しみやすい。ちなみに、豊子愷は毛筆による文学的な漫画で知られるが、これは日本遊学中に画家・竹久夢二の草画にヒントを見出し生み出されたものだという。

参考:上海図書館蔵拂塵‧老課本『小学初級学生用 開明国語課本』上冊(上海科学技術文献出版社)。影印本。版は不明。原本は8冊だが、この本は上下冊にまとめられている。下冊に、葉紹鈞(=葉聖陶)の子息・葉至善氏と豊子愷の息女・豊一吟氏が随感を寄せている。