中国・清末、清政府が設立した学部・編訳図書局による教科書編纂――中国小学教科書編纂事情(2) ― 2008年10月05日
 清政府による本格的な教科書編纂は、学部・編訳図書局に始まると言って良いだろう。学部の設立は1905年10月12日に宝煕(官職は山西学政)が、学部設立を提案した奏文が批准されたことによるものらしい。学部が設立されると、すぐに編訳図書局設立の準備を開始、1906年6月に編訳図書局が設置され、袁嘉谷(官職は学部行走)を首長とする編集人員が組織された。人材も広く集められたようである。日本留学から帰国した王国維(後に精華大学教授、亀甲獣骨文字の研究で名高い)もこのとき学部図書館編訳・名詞館協修に任命されている。 
学部・編訳図書局の章程によれば、最も編集が急がれたのが初等小学向け、次が高等小学向けの教科書であった。また教科書編集に当たっては「忠君、尊孔、尚公、尚武、尚実」を守るべきであるとされた。他にも、一種類の教科書につき、教師向けの教授書も編集するよう定められた。学部・編訳図書局は、日本の国定教科書のように全国の初等教育の普及し統一することを念頭に、価格を安く抑え、複製も許可していたという。
学部・編訳図書局の教科書は当時概して評判が良くなかった。児童心理に即した内容でないことや、管理や印刷が悪い等々で南方の新聞の攻撃を受けたこともあったそうだ。
なお、学部は教科書の編纂を行う他に、教科書の検定(中国語では審定)の役割も担う役所であった。1904年公布の「奏定学堂章程」に依り、全ての教科の教科書、指導書、壁に掛ける地図等の教材まで検定を受けることになっていた。しかも、初等小学は5年、高等小学は4年の通用期間の後は、再検定を受ける決まりであった。合格の為には、内容の他、紙質がしっかりしていること、字形が分かりやすいこと、値段が安いこと等の要件も満たしていなければならなかった。
清末の学制と学部・編訳図書局の教科書の実物については、過去の記事(学制=2月15日、4月1日 教科書の実物=7月3日、9月10日)で紹介している。そちらを併せて見ていただけると当時の雰囲気が分かると思う。
参考:呉洪成『中国小学教育史』(山西教育出版社、2006)
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学部・編訳図書局の章程によれば、最も編集が急がれたのが初等小学向け、次が高等小学向けの教科書であった。また教科書編集に当たっては「忠君、尊孔、尚公、尚武、尚実」を守るべきであるとされた。他にも、一種類の教科書につき、教師向けの教授書も編集するよう定められた。学部・編訳図書局は、日本の国定教科書のように全国の初等教育の普及し統一することを念頭に、価格を安く抑え、複製も許可していたという。
学部・編訳図書局の教科書は当時概して評判が良くなかった。児童心理に即した内容でないことや、管理や印刷が悪い等々で南方の新聞の攻撃を受けたこともあったそうだ。
なお、学部は教科書の編纂を行う他に、教科書の検定(中国語では審定)の役割も担う役所であった。1904年公布の「奏定学堂章程」に依り、全ての教科の教科書、指導書、壁に掛ける地図等の教材まで検定を受けることになっていた。しかも、初等小学は5年、高等小学は4年の通用期間の後は、再検定を受ける決まりであった。合格の為には、内容の他、紙質がしっかりしていること、字形が分かりやすいこと、値段が安いこと等の要件も満たしていなければならなかった。
清末の学制と学部・編訳図書局の教科書の実物については、過去の記事(学制=2月15日、4月1日 教科書の実物=7月3日、9月10日)で紹介している。そちらを併せて見ていただけると当時の雰囲気が分かると思う。
参考:呉洪成『中国小学教育史』(山西教育出版社、2006)
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