中国・中華民国初期、中華書局誕生秘話12008年10月19日

 教育部最初の学制を起草した蒋維喬、陸費逵は、商務印書館の社員であった。ところが、陸費逵は友人等と密かに新しい教科書を準備して、1912年元旦、即ち中華民国が成立した日に中華書局を創設する。このあたりの事情について詳しいのが、樽本昭雄『初期商務印書館研究』である。後々商務印書館と中華書局がことあるごとに衝突したのは、中華書局成立時の事情に起因するという。以下、樽本氏の本に沿って、中国・中華民国時代の教科書編集で重要な役割を果たした二つの出版社の衝突の原因となった「事情」を見ていくことにする。

 まずは商務印書館から独立する前の経歴から陸費逵の人物像を確認しよう。陸費逵(1886-1941)、陸費は複姓、字は伯鴻、浙江桐郷の人。若い頃『時務報』を閲覧し新思想の影響をうけた。南昌で人と正蒙学堂を経営、英語と日本語を学び、武昌で新学界書店を創設し革命関係書籍を売るなどしている。そればかりか革命団体日知会に参加し、革命活動を行った。1905年、漢口『楚報』の主筆になるが、張之洞によって封鎖されると上海に逃れる。昌明公司上海支店(書店)社長と編集を兼ね、上海書業商会の準備活動に参加したあと、1906年、文明書局職員、文明小学校校長および書業商会補習所教務長をも兼任した。

 商務印書館の高夢旦は書業商会でよく顔を合わせる陸費逵の才能と経験に目をつけ、張元済と相談のうえ、陸費逵を高給で商務印書館に招いた。高夢旦23歳の時である。1908年秋、陸費逵は、国文部編集者として商務印書館に入社し、翌1909年発には出版部部長兼『教育雑誌』主編及び師範講義部主任となった。

 樽本氏は陸費逵が文明書局から商務印書館時代にかけて編集を担当した教科書が、地理学、倫理学、算術、商業と範囲が広いことに注目し、陸費逵が教科書の編集の才能に恵まれていたと推測している。その一方で、陸費逵はその経歴から分かるように、革命思想を抱き、編集の才能があり、自立心が強い人物であり、常識的に考えて、日本の金港堂との合弁会社である商務印書館に大人しく勤務できるはずもないだろうとも述べている。

 中華書局創立前後の事情については、長くなるので、次回にします(^^)
 
参考:樽本昭雄『初期商務印書館研究 増補版』(清末小説研究会、2004)

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