中国・中華民国初期、中華書局誕生秘話32008年10月21日

 引き続き、中華書局誕生の経緯について、樽本昭雄『初期商務印書館研究 増補版』を見ていきたい。

 陸費逵は、1910年に教科書を秘密に編纂し発行を図ったが事前に発覚して計画は潰された。商務印書館は高夢旦に交渉役を任せ、高額で教科書の原稿を買い取ることで話をつけ、更に陸費逵の給料を上げることで慰留した。とにもかくにも陸費逵は商務印書館に残った。普通ならこれで終わるところだ。それにもかかわらず、陸費逵は1911年秋に再び秘密で教科書を編集し、1912年元日に中華書局を立ち上げるという行動に出るのである。楢本氏は、この二つの秘密行動の間にもう一つの出来事があったことを示唆している。

 それが陸費逵をはじめとする商務印書館内の教科書改革を必要と考えるグループが、商務印書館の首脳部に革命以後の教科書を用意するよう進言をしたが拒否された、という出来事である。楢本氏が依拠しているのは、これも蒋維喬の証言である。「この時、革命の勢いが日増しに強くなり、商務(印書館)の同僚のなかで将来の見通しを持った人たちは、革命後に適用する教科書1セットを準備するべきだと菊生(張元済)に勧めた」(『中国現代出版史料』下冊・1959年。樽本氏の訳。)

 ここで整理してみると…つまり、商務印書館の事業基盤である教科書は、このとき、激しく変化する政治状況に対応出来ないものになりつつあったのである。だからこそ、はじめ陸費逵は独自に教科書を作り、それが挫折すると、他の「将来の見通しを持った」同僚とともに、革命後に対応した教科書の作成を会社の首脳陣・張元済に進言したのだ。(このとき社長の夏瑞芳はゴム投機で失敗して14万元の損失を出したことで精神的にまいっていたため、張元済が舵取り役を担っていた。)しかし、せっかくの進言も、保守的な張元済には受け入れられなかった。陸費逵等は商務印書館に将来性をみいだせなくなり、失望した。そしてついに、独立を決意し、革命後に通用する教科書を密かに用意することにしたのである。この出来事からは、商務印書館の首脳陣の保守性が、「将来の見通しを持った」陸費逵等を秘密行動に走らせた、という面があったことを感じさせる。

 ところで、この後、1911年に清朝打倒の革命の潮流を目の当たりにした商務印書館の首脳陣は、来学期の教科書を従来のまま印刷することを躊躇い、革命教科書の作成を検討したことがあったという。このとき、商務当局に相談されて、革命教科書の必要性を否定したのが陸費逵であった。このことは後を引いて、商務側は後々まで陸費逵に大きな不信感を抱き続けることになる。

 一方、せっかくの進言が受け入れられなかった陸費逵等の側から見れば、すでに商務印書館の首脳陣に失望していた。一度拒否されているにもかかわらず、いまさら相談を持ちかけられても真面目に対応する気になれなかったのだろう、と樽本氏は推測している。まして、すでに別の書局創設の準備を進めていた時期であれば、余計なライバルを作りたくないと考えて自然である。

 少なくとも、樽本氏が、二つの秘密行動の間にあったもう一つの出来事を見いだしたことによって、二つの秘密行動の理由と、後の商務印書館と中華書局の衝突の数々の原因の一つが解明されたようである。

 中華書局設立までの経緯はここまで。次回は中華書局成立直後の経緯について見てみます。

参考:樽本昭雄『初期商務印書館研究 増補版』(清末小説研究会、2004)

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