中国清末、北京に設立された近代的お嬢様学校・予教女学堂2009年03月11日

 下田歌子の構想に基づいて、服部宇之吉と夫人・繁子が設立と初期の運営に深く関わった予教女学堂は、数カ所の教会学校(124頁の註52によれば、同治年間開校の慕貞書院、1875年開校の貝満書院が確認できるそうだ)を除けば、北京地区における最初の近代的女学校であった。

 陳[女正]湲『東アジアの「良妻賢母論」』には、予教女学堂について詳しく述べられている。日本の教育者が中国・清末の教育にどのような形で関わったかを知るのにちょうどいい例だと思うので、設立の経緯を紹介しておこう。

 元来、予教女学堂の設立は、西太后に女子教育の重要性を説くために計画されたものであったらしい。服部が日本好きの恭親王に女子教育の必要を説くと「自分が手を出して失敗すると物笑ひになるが、貴方方外国人が試みて失敗したつても、一向差し障りはないからやりなさい」と言われたという。このような恭親王とのやりとりもあって、服部は外国人という気楽な身分が、先駆的な役割を務めるにむしろ適切であると判断し、学校設立準備に着手したようだ。

 予教女学堂は1905年9月に北京の東単牌二条胡同の校舎で開校した。予教女学堂は、計画段階の報道(順天時報、光緒31年7月20日)では中国人で商人であったという沈釣夫妻と服部夫妻の4名の名前が共同設立者として同格で並べられていたが、実際に開校されたときは、「経営者」として沈釣夫妻が、「助力者」として服部夫妻が記されている。表面的には中国人自らが経営する学校を標榜して創立されたが、これは保守勢力からの反対意見から距離をとるためであったようだ。現実には同校は沈釣夫妻と服部夫妻の共同経営であったと見られる。設立に当たっての資金は沈釣の母王氏の寄付によって全額を賄い、学校の財政や事務的運営は沈釣夫妻が、学則の起草、教師の認容、教育課程や授業内容を決定する学務関連は服部夫妻が担当していた。開学当初、服部繁子は自ら教鞭を執り、教科書も執筆している。

 ところで、予教女学堂は「中等以上の女子に対して、普通教育および高等普通教育を実施し、賢母良婦を養成することを目的に」していた。ここでいう「中等以上の女子」とは、いわば上流家庭出身の女性を指す。在学していた学生も、満州人皇族を含め、ほとんどが北京に官職をもっている上流家庭の出身であった。(125頁註62)服部夫妻の念頭にあったのは、かつて下田が学監を務めた「華族女学校」のようなものであったらしい。
 
参考:陳[女正]湲『東アジアの「良妻賢母論」』(勁草書房、2006)

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