マリー・キュリーとイレーヌ・ジュリオ=キュリーが生きた時代――『キュリー夫人伝』『イレーヌ・ジュリオ=キュリー』を読む32009年04月08日

 今回『イレーヌ・ジュリオ=キュリー』を読むなかで、初めて実感できたのが、マリー・キュリー、娘のイレーヌ・ジュリオ=キュリーは、学術界で女性が活躍できることをいわば証明し、女性の社会的地位を確立する為に戦った象徴的存在だったことである。

 もっとも、マリー・キュリーは政治に関わることもなかったし、女性解放論者でもなかった。それでも、女性で初めてのノーベル賞受賞者(しかも二回目は単独受賞)の彼女の名声は高く、輝ける存在として大きな影響力を持った。

 一方、イレーヌは直接養育に携わった父方の祖父の薫陶を受けて、政治に強い関心を持っており、人民解放戦線の閣僚にもなったことがある(二ヶ月のみ)し、積極的な女性解放論者でもあった。

 彼女たちが生きた時代のフランスは、非常に保守的で、女性が社会で活躍するには多くの障害があった。それを最も顕著に示しているのが、フランスにノーベル賞をもたらしたマリー・キュリーとイレーヌ・ジュリオ=キュリーという当時最も有名で現代科学に大きな貢献をした二人の女性科学者が、フランスの科学アカデミーの会員に選ばれることはなかったという事実である。

 それでも、イレーヌ・ジュリオ=キュリーは死に際して、国葬とされた。フランスはついに、この女性の科学界及びフランスへの貢献を認めざるを得なかったのである。彼女たちを含む無数の女性の苦悩と絶え間ない努力の上に、今の女性の活躍の場が開かれていったことを痛切に感じた。

参考:エーヴ・キュリー著『キュリー夫人伝』(白水社、1958)
ノエル・ノリオ著/伊藤力司・伊藤道子訳『イレーヌ・ジュリオ=キュリー』(共同通信社、1994)

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