中国の天文史と西欧の接点2009年08月05日

 今年は世界天文年、ガリレオ・ガリレイが望遠鏡で月を観察してから、400年である。中国の天文学の歴史を調べていて、興味深いことを見つけた。ガリレオと知り合いで、ケプラーとも親交があったジョアン・テレンス(Jean Terrenz、中国名:鄧玉函)という医学者が、イエズス会の宣教師として中国へ渡り、西洋天文学のエンサイクロペディアである『崇禎暦書』の編纂に携わっていたのである。

 中国にいる間も、ドイツ他の天文学者と文通を続けており、それもあって、明末に編纂されたこの暦書はドイツの暦算学の大きな影響を受けているという。ヨーロッパの天文学が飛躍的に発展したこの時期に、ガリレオを直接知る人物が、極東の中国北京で新しい暦書を編纂していたのだ。天文学に造詣が深く、武器などにも明るく、中国語をマスターする意欲もある…といった人物は、ヨーロッパ広しといえども、非常に限られていたはずだ。それほどの人材を次々に中国に送り込んだイエズス会の本気が感じられる。

 1600年代といえば、日本は江戸時代に入ったばかり、当の中国も明から清へ…国が大混乱している時期である。その混乱の中に多くの宣教師が中国で過ごしながら、宣教の機会を待っていたというのもすごいことのような気がする。

↓応援クリックお願いします(^^)

 にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

コメント

_ BIN★ ― 2009年08月06日 02時14分47秒

イエズス会は、国民国家が勃興するまでは、独自の世界戦略・・・布教のですが・・・をもって、活動していましたね。私が書くのは変かも知れませんが、有名なザビエルは、東南アジアから、日本に関心をもち入国、わが国に拠点を築こうとしました。それが成功するためにも、中国への普及が必要と判断し、中国への入国を試みますが失敗して、思いを果たせず広東省の上州島で亡くなりました。中国に先立ち日本であることが私には、興味深く、記憶に残ったのです。
 中国で成功したのは、ヴァリニャノ。このときに採った布教政策が、文化交流を促進しました。つまり、布教にあたっては、その国の文化に配慮し、その国の言語と風習に即した布教方法を採ること、西欧の文化をその国の言語で紹介すること。こうして中国に地歩を築こうとしたのは、大切なことですね。南米のスペイン人とは大違い!
 天文学は大砲技術と同様に、明朝に歓迎されたことでしょうね。
 考えてみれば、ありえる方法だったにしても、それを思いつくことと実行できることの間には、巨大な差があります。イエズス会はそれが文字通りできたわけで、 おっしゃるとおり、すごいことですね。
 やはり、成り立ちなんでしょうね。
 もともと教会は、宗教団体であったと同時に、近代になって、宗教から脱却した大学ができるまで、ほとんど唯一の学問機構だったはず。とくにイエズス会は、研究を・・・古典研究だけにとどまらず・・・推奨し、すぐれた学者を輩出していたと思います。
 そういう団体だったからこそできる布教政策だったのです。
 野蛮な十字軍的方法では、17世紀の文化大国中国では絶対成功しませんよね。
 すこしはずれるかも知れませんが、アメリカが世界の地域研究を発達させたのも、その布教・・・いやいや世界戦略と不可分の事情でしたね。日本を占領するまえに、例のベネディクトの『菊と刀』のように、各分野の学者を総動員して、社会風習から心理分析までしています。
 それはまさに本気だったのでしょうね。
 16から17世紀のイエズス会も、ローマ教会と一体に世界政策を推し進める意気込みと能力をもった集団だったことを、あらためて感じました。

_ ゆうみ→BIN☆さん ― 2009年08月09日 20時17分15秒

詳しい情報をありがとうございました。イエズス会の布教のための世界戦略についてはとても関心があります。
イエズス会の東洋管区の巡察師・アレッサンドロ・ヴァリニャーノが採った適応政策は現実的な方法で、マテオ・リッチの中国北京入りを成功させたのに…結局儀礼問題でイエズス会が壊滅的な打撃を受けて中国から手を引かざるを得なくなりますね。このあたりがわかるいい本があったら、ぜひ教えてください。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://youmei.asablo.jp/blog/2009/08/05/4480674/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。