中国・日中戦争期、戦時児童保育会の児童の生活と教育 ― 2009年08月08日
戦時児童保育会の活動全体で、初期の救助活動が落ち着いた後、重要な位置を占めたのは生活と教育である。生活に必要な用品、衣類や靴、学用品等は全て規定に基づいて支給され、食事も年齢ごとに必要なカロリーを計算して与えられていた。
一日のスケジュールは大体以下のようなものだったらしい。
6:00―7:00 起床、洗面
7:00―7:30 旗掲揚、体操
7:30―8:30 朝食
8:30―12:00 一般小学課程活動(各学年の担任教師が責任をもつ)
12:00―2:00 昼食と休憩時間・自由活動
2:00―4:00 一般小学課程活動(各学年の担任教師が責任をもつ)
4:00―6:00 各種個別および団体活動
6:00―6:30 夕食
6:30―7:30 沐浴、自修
7:30―8:00 就寝準備
生活全体の中で、特に大きな割合を占めているのが「一般小学課程活動」である。保育院では入院時に学力・智力試験を行い、成績と年齢に基づいて、学力別にクラス分けをしていたようである。科目には公民、国語、常識(社会、自然)、筆算、珠算、美術、音楽、体育、労作訓練、職業訓練、などがあった。授業は一時限30分から40分と決まっていた。
成績がいい児童については進学を促し援助していた。1938年から1946年までに26名(男23、女3)が大学へ、78名(男68、女10)が専科学校へ、246名(男176、女70)が師範学校へ進学を果たしている。一方、勉強をしたことがない児童や成績が良くない児童は、手に職を得て早く自立できるよう「職業班」を設置し職業訓練(園芸・畜産、木工、簡易機械工芸、簿記・会計等)を行っていた。他にも、問題児が20名以上いるときは「特殊班」をつくって、別のカリキュラムで教育をおこなっていた。
生活用品にしても、教育上の配慮にしても、当時収容した児童の現状に合った、きめ細やかな対応が取られているように思われる。 ただ、各院の院長とスタッフにより、生活水準や教育内容には相当差があったようである。院長が良心的なところは、規定に基づいた生活と教育が行われ、アットホームな雰囲気も生まれていたようだ。財政困難で規定の水準を守るのが難しいときも、スタッフが児童と艱難を共にすることで、信頼関係が深まったという。しかし、中には児童を搾取するひどい院もあったらしい。全てが規定通り、理想通りではなかった。それでも、本部は調査員を送ったり、表彰制度を導入して、質の向上に努めていたことは書き添えておこう。
参考:林佳樺『「戦時児童保育会」之研究』(台湾・国立中央大学歴史研究所・修士論文、2005)
↓応援クリックお願いします(^^)
一日のスケジュールは大体以下のようなものだったらしい。
6:00―7:00 起床、洗面
7:00―7:30 旗掲揚、体操
7:30―8:30 朝食
8:30―12:00 一般小学課程活動(各学年の担任教師が責任をもつ)
12:00―2:00 昼食と休憩時間・自由活動
2:00―4:00 一般小学課程活動(各学年の担任教師が責任をもつ)
4:00―6:00 各種個別および団体活動
6:00―6:30 夕食
6:30―7:30 沐浴、自修
7:30―8:00 就寝準備
生活全体の中で、特に大きな割合を占めているのが「一般小学課程活動」である。保育院では入院時に学力・智力試験を行い、成績と年齢に基づいて、学力別にクラス分けをしていたようである。科目には公民、国語、常識(社会、自然)、筆算、珠算、美術、音楽、体育、労作訓練、職業訓練、などがあった。授業は一時限30分から40分と決まっていた。
成績がいい児童については進学を促し援助していた。1938年から1946年までに26名(男23、女3)が大学へ、78名(男68、女10)が専科学校へ、246名(男176、女70)が師範学校へ進学を果たしている。一方、勉強をしたことがない児童や成績が良くない児童は、手に職を得て早く自立できるよう「職業班」を設置し職業訓練(園芸・畜産、木工、簡易機械工芸、簿記・会計等)を行っていた。他にも、問題児が20名以上いるときは「特殊班」をつくって、別のカリキュラムで教育をおこなっていた。
生活用品にしても、教育上の配慮にしても、当時収容した児童の現状に合った、きめ細やかな対応が取られているように思われる。 ただ、各院の院長とスタッフにより、生活水準や教育内容には相当差があったようである。院長が良心的なところは、規定に基づいた生活と教育が行われ、アットホームな雰囲気も生まれていたようだ。財政困難で規定の水準を守るのが難しいときも、スタッフが児童と艱難を共にすることで、信頼関係が深まったという。しかし、中には児童を搾取するひどい院もあったらしい。全てが規定通り、理想通りではなかった。それでも、本部は調査員を送ったり、表彰制度を導入して、質の向上に努めていたことは書き添えておこう。
参考:林佳樺『「戦時児童保育会」之研究』(台湾・国立中央大学歴史研究所・修士論文、2005)
↓応援クリックお願いします(^^)
コメント
_ BIN★ ― 2009年08月11日 00時44分12秒
_ ゆうみ→BIN★さん ― 2009年08月11日 21時21分06秒
いつも有意義なコメントをありがとうございます。
BINさんが気づかれた点、この論文は心的外傷をおった児童についても、項目を設けて分析しています。近いうちに、同会の保育院における児童の心理ケアについてまとめて書くつもりです。
BINさんが気づかれた点、この論文は心的外傷をおった児童についても、項目を設けて分析しています。近いうちに、同会の保育院における児童の心理ケアについてまとめて書くつもりです。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://youmei.asablo.jp/blog/2009/08/09/4488060/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
すばらしいことですね。
それは、この取り組みの成果として
きっと誇りとされたことでしょう。
私は少し気になるのですが、
不幸な目にあった子ども達は、
心の傷をもっているはずです。
心の傷の問題は、阪神大震災などで
社会的によく知られるようになって、
そのメカニズムも、困難さも、
(不可解な行動をとるなど)
理解されるようになりました。
しかし、1940年代はどうなんでしょうか。
上の記述の「問題児」は、
そういう子どもたちのことなのでしょうか。
”成績のいい、お行儀のいい子たち”
のわきにおかれていますが、
本来、対象として治癒し、
教育をうけられるようにするのは、
こういう心的外傷を負った子ども
なのではないかと思えたのです。
その実態の記述はありますか?