ポニョは人魚姫!?――映画『崖の上のポニョ』を見る2008年08月07日

 映画『崖の上のポニョ』を見に行った。宗介とポニョの冒険に入り込みながら、終始トトロを見たときのようなワクワク気分で見ることが出来た。嵐の海を暴れ回る大きな魚たちにドキドキし、水没した町を泳ぎ回る古代デボン紀&想像の古代魚に見とれ、虚構の世界らしい可笑しみを感じながら。そのなかで、ただ一つだけ…頭の隅に、公式HPでみた宮崎駿氏のこんな解説がひっかかっていた。「アンデルセンの[人魚姫]を今日の日本に舞台を移し、キリスト教色を払拭して、幼い子ども達の愛と冒険を描く」。どこが人魚姫なのだろう、どこが違うのだろう。

 海の世界を飛び出して人間の世界に行き、男性に受け入れられれば人間になれる、という基本的な設定は人魚姫と共通している。魚の子・ポニョは宗介に助けて貰い、「好き」になり、人間になりたいと思い、ためらわず実行する。父親・藤本の魔法の水を使って人間になり、宗介に会いに行くのだ。そのために海を大混乱に陥れ、陸上では大洪水を引き起こし町は水没する。ポニョの母グランマンマーレは父のフジモトに、ポニョを人間にしてやればいいという。ポニョそのものを人間の男の子が受け入れ愛するならば、魔法は消えて人間になれるが、受け入れてもらえなければ泡になってしまうという古い魔法で。しかも、泡になって天に昇るという要素はなく、泡になったら消えるだけ。その分、むしろポニョに課された試練の方が人魚姫よりも過酷かも知れない…しかし、この過酷な試練は、ポニョ本人の知らないところで課される。だから全編を通して、ポニョは、ただ、ポニョらしくしているだけ。

 5歳の子供が主人公だから、人魚姫のような恋愛という要素はない。また、ポニョ本人は自分に試練が課されていることさえ知らないから、宗介に気に入られようとか、取り入ろうとかは全くない。だから、宗介に求められたのは、普遍的な愛である。魚のポニョ、半魚人のポニョ、人間のポニョ、つまりポニョの外見にかかわらず、ポニョそのものを受け入れるという試練。でもこれは、ジャムの瓶にはまった魚のポニョと出会ったときから、まっすぐな心でポニョを受け入れ、守り抜いた少年にはなんでもないことだった。

 宗介のそのままを受け入れる心、そこに宮崎駿氏の現代社会へのメッセージが込められているような気がする。

参考: 映画『崖の上のポニョ』公式HP  http://www.ghibli.jp/ponyo/