小説『闇の子供たち』を読んで考えたこと2008年08月25日

闇の子供たち
 梁石日の小説『闇の子供たち』、映画化される前から気になる存在だった。書評や紹介記事を読んだりして、とても重い内容であることがわかっていただけに、本当に情けないことだが、最初は本を買うのがためらわれた。映画化を聞いて、やはり読まなくてはという思いがつのり図書館で予約して何十番目かで待っていて、その後勇気を出して買ったものの、今度は読むのがためらわれ…やっと力を振り絞って(大げさかもしれないが)頁をめくった次第である。読む意志はあり、強い関心を持っているのに、いざ読もうとすると気が重い本との出会いは本当に久しぶりのことだ。

 現実が途方もなく深刻なだけに、小説の描写があまりにも生々しく、登場する子ども達には全く救いがない。人身売買、児童買春、臓器売買…そしてそれを阻止しようとする人々の戦い、全てのエピソードがこの問題の深刻さと重大性を物語っており、衝撃的だ。小説でなければ描けない部分、それをこの小説は描こうとしている。

 この本でも指摘されているように、闇の子供の需要と供給が拡大している根本的な部分には経済的な貧困がある。しかも国際的なレベルで。タイで起こっていても、タイだけでは問題は解決出来ない。闇の子供は、カンボジアにも、中国にも、インドにも、ブラジルにも、他の国にもいる。たぶん、ずっと昔からいる。豊かな者と貧しい者、豊かな国と貧しい国、その貧富の差が作り出したピラミッド、そのピラミッドの最底辺の子供が、上部に属する豊かな者の犠牲になるという構図はどのようにしたら断ち切れるのだろうか。

 もしかしたら、経済的な貧困以上に解決が難しいのは、モラルの貧困の方かもしれない。経済的な貧困は金銭で救えるが、モラルの低さは金銭でも救えない。必要な教育を受けていない人々に教育をする、ということは可能だが、豊かな暮らしをして十分な教育を受けているはずの人々が闇の子供を買っている。豊かな日本にも虐待があり、援助交際がある。問題は簡単ではないと思うのだ。また、闇の子供を買うのは、金銭欲、性欲にまみれた人間ばかりではない。時には我が子の命を救いたい一心で、闇の子供の命が犠牲になるという現実に目を背けて大金を出す親もいる。でも、豊かな国・豊かな家に生まれた人間・子供と、貧しい国・貧しい家に生まれた人間・子供の命の重さが違って良いはずがない。

 以前紹介したセヴァン・カリス・スズキの「リオの伝説のスピーチ」の一節にこんな言葉があった。「これらのめぐまれない子どもたちが、私と同じぐらいの年だということが、私の頭をはなれません。どこに生れついたかによって、こんなにも人生がちがってしまう。私がリオの貧民窟に住む子どものひとりだったかもしれないんです。ソマリアの飢えた子どもだったかも、中東の戦争で犠牲になるか、インドでこじきをしてたかもしれないんです。もし戦争のために使われているお金をぜんぶ、貧しさと環境問題を解決するために使えばこの地球はすばらしい星になるでしょう。私はまだ子どもだけどこのことを知っています。」セヴァン・カリス・スズキがいうように、私たちが豊かな国に豊かな時代に生まれたのはほんの偶然である。日本でも昔は家が貧しい為に売られる女性や子供が沢山いた。私たちだって、もしかしたら、貧しい国に生まれていたかもしれないし、値札のついた命が自分の命だったのかもしれないのだ。

 『闇の子供たち』の最後が、せめてもの救いであり希望だった。この本は、闇の子供たちの問題がタイの国内問題でも、他のどこかの国の問題というのでもなく、今を生きる人間全体の問題なのだと認識させてくれた。

読んだ本:梁石日の小説『闇の子供たち』(幻冬舎文庫)