翻訳として見る三蔵法師玄奘訳「般若心経」 ― 2009年01月10日
 中村元氏・紀野一義氏訳註『般若心経・金剛般若経』(岩波文庫)を読んで初めて知ったのだが、「般若心経」について、三蔵法師玄奘の訳にはサンスクリット原典(以下、原典と呼ぶ)と異なる部分があるという。 
原典の日本語訳と玄奘の漢訳を比べると、確かに、玄奘の漢訳には不訳や加訳があることがわかる。例えば「度一切苦厄」(一切の苦厄を度したまえり)というのは原典にはない。玄奘による加訳であるらしい。また、原典にある「物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象でありえるのである」という部分は玄奘の漢訳にはない。
  
この不訳の部分、中村氏の解説によれば、原典では、「物質的現象(色)と実体がないこと(空)との関係が三段に分けて説明されている」部分であるという。日本語訳は以下のようになっている。
「この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。
実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。
(このようにして)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。」
これを玄奘は以下のように訳している。
「色不異空空不異色
色即是空空即是色」
つまり、最初の一段がなく、後の二段のみを訳しているのである。だからといって、玄奘が用いた原本が元から二段だったということもなさそうである。中村氏の註によれば、敦煌で発見された『唐梵翻対字音般若波羅蜜多心経』は玄奘が用いたサンスクリット原本と同じであることが記されており、こちらには三段に分けて記されているという。このとおりなら、玄奘は原文に三段に分けてあったものを、故意に二段に省略したということになる。省略の理由は分からない。また、先に述べた加訳の理由も分からない。それでも、玄奘訳がもっとも普及しているということを踏まえると、玄奘が翻訳に際して、新たな価値観を加え、何かを削り取ったことが、東アジアにおける仏教の布教に有利に作用した可能性もある。玄奘という人物について、もっと知りたくなってきた。
読んでいる本:中村元氏・紀野一義氏訳註『般若心経・金剛般若経』(岩波文庫、1960)
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原典の日本語訳と玄奘の漢訳を比べると、確かに、玄奘の漢訳には不訳や加訳があることがわかる。例えば「度一切苦厄」(一切の苦厄を度したまえり)というのは原典にはない。玄奘による加訳であるらしい。また、原典にある「物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象でありえるのである」という部分は玄奘の漢訳にはない。
この不訳の部分、中村氏の解説によれば、原典では、「物質的現象(色)と実体がないこと(空)との関係が三段に分けて説明されている」部分であるという。日本語訳は以下のようになっている。
「この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。
実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。
(このようにして)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。」
これを玄奘は以下のように訳している。
「色不異空空不異色
色即是空空即是色」
つまり、最初の一段がなく、後の二段のみを訳しているのである。だからといって、玄奘が用いた原本が元から二段だったということもなさそうである。中村氏の註によれば、敦煌で発見された『唐梵翻対字音般若波羅蜜多心経』は玄奘が用いたサンスクリット原本と同じであることが記されており、こちらには三段に分けて記されているという。このとおりなら、玄奘は原文に三段に分けてあったものを、故意に二段に省略したということになる。省略の理由は分からない。また、先に述べた加訳の理由も分からない。それでも、玄奘訳がもっとも普及しているということを踏まえると、玄奘が翻訳に際して、新たな価値観を加え、何かを削り取ったことが、東アジアにおける仏教の布教に有利に作用した可能性もある。玄奘という人物について、もっと知りたくなってきた。
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