三つのノーベル賞級を生みだした研究環境――南部陽一郎「素粒子物理の青春時代を回顧する」を読む2009年01月23日

 南部陽一郎氏が日本物理学会誌に書いたエッセー「素粒子物理の青春時代を回顧する」を読んだ。夫に、「もっと知りたいノーベル賞 小林さん・益川さんにとことんQ」で見た南部陽一郎さんのエピソードを話したら教えてくれたのである。これは、物理学会誌に載った物理学者向けのエッセーであるから、専門的で分からない部分もあるが、それでも南部氏の研究人生を垣間見ることができ、考えさせられるところが多かった。

 南部氏は1943年に東京大学の物理学科を卒業した「戦中派」だそうだ。大学2年生のときに太平洋戦争が始まり、3年目は短縮されて陸軍に召集され、宝塚のそばのレーダー研究所に配属されたという。戦後はすぐに東大物理教室の嘱託に赴任、学生や帰還者達のグループに参加した。そして、1947年、ラムシフトとパイオンの大発見のニュースをきっかけにアメリカの学者達との量子電磁力学の完成に向かって激しい競争に巻き込まれた朝永グループに参加する。

 その後、朝永氏の推薦で、東大と阪大から集まった4名(早川幸男・山口嘉夫・西島和彦・中野董夫)と共に、新設の大阪市立大学理工学部に理論グループを作る。年長の教授に気を配ることなく、理論の学生も1-2人で講義の必要もなかったという。完全に5名の若い研究者達だけで共同研究を行い、確実に成果を出していった。その成果の一つとして紹介されているのが「ストレンジ粒子の対発生理論」である。南部氏は「私は今でも大阪市大の3年間を振りかえると感傷に耐えない」「われわれのような新参者でも世界の学者たちに先んずる仕事ができることを発見したのは大きな驚きだった」と述べる。3年の自由な研究生活が、南部氏の才能を開花させ、独創的研究に目を開かせたようだ。

 しかし、大阪市大のグループはその成功のおかげで長続きせずバラバラになってしまった。南部氏自身も朝永氏の推薦によって、木下東一郎氏とともにプリンストンの高等研究所(IAS)にいくことになったのである。

 IASの当時の所長はオッペンハイマーであったし、アインシュタイン、パウリ、パイス、ダイソン他、著名な物理学者が集まっていた。この夢のような環境は、同時に猛烈な競争を意識させ、南部氏を却って萎縮させてしまったようだ。「予期に反して、プリンストンでの2年は天国と地獄の混じったようなものとなってしまった」2年の滞在期間中、計画していた研究テーマ「核力の飽和性とspin-orbit forceの起源の追求」は一向に上手くいかなかった。このときの心境を南部氏は石川啄木の「友がみな、われよりえらくみゆる日よ…」と同じであったと述懐している。

 2年のプリンストンで成果をあげられなかった南部氏は、しばらくアメリカの一流大学に滞在して何か立派な業績をあげたいと考えた。1954年、ゴールドバーガーの誘いを受け、シカゴ大学の核物理研究所(INS=原子核科学研究所)に着任するのである。

 このシカゴ大学核物理研究所の雰囲気は南部氏にとっては天国のようであったという。南部氏は再び自由な研究環境に恵まれ、適度に研究意欲を刺激してくれる同僚を得た。「万能物理学者Fermiの伝統によって、毎週INS全体のセミナールが開かれた。Quaker Meeting とも呼ばれた理由は、プログラムを決めず、誰でも思いつくままに立ち上がって、自分が考えてまだ完成していないことでも自由に発表したり議論したりすることを奨励されていたからである。原子核、素粒子、宇宙線、太陽系物理、天体物理、宇宙化学など研究所のすべての分野がトピックスとなった。これは私にはたいへんな刺激であった。」と当時をふりかえっている。南部氏は、分散理論の数学的構造に魅せられて、過去2年の悪夢を忘れることができ、次々に共同研究及び独自の研究で成果を出していったのである。かくして、三つのノーベル賞級と言われる研究はシカゴで生まれた。

 以上のエピソードを見ると、南部氏の研究生活において、大阪市立大学とシカゴ大学での自由でストレスの少ない適度な知的刺激のある研究環境が、いい研究に繋がったことは明らかである。独創的な研究を行う研究者にとっては、自由でストレスの少ない、適度に知的刺激のある研究環境が理想だと思う。無論、個人によって、差異はあるだろうが、現在の大学の研究者は教育や大学・学会の雑務に追われて十分な研究の時間をとれないでいるような気がする。日本の研究者の研究環境がより理想的になれば、もっともっと素晴らしい研究が日本で行われるようになるに違いない。

参考:南部陽一郎「素粒子物理の青春時代を回顧する」(日本物理学会誌、Vol.57,No 1,2002)

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