華流DVD「貧窮貴公子」&本作り&お皿洗いブーム2008年12月01日

 今日から12月、すっかり寒くなりましたね。吸い込む空気の冷たさに冬の訪れを感じます。周りでは風邪が流行っているようで、我が家でも日曜日は夫が熱を出して寝込んでいました。日曜日は外出を控え、家でのんびり過ごしました。

 最近華流づいているので…日曜日はDVDで「貧窮貴公子(山田太郎ものがたり)」を鑑賞。F4の周渝民(ヴィック・チョウ)が山田太郎役、朱孝天(ケン・チュウ)が父親役で出演していたので、娘も大喜び。二人で見ました。バレンタインではなく七夕(旧暦)にチョコレートをプレゼントするところなど、微妙に台湾風なのが面白いです。F4の歌「流星雨」も一緒に歌っています。まだ歌詞を全部覚えてはいないものの、「温柔的星空,應該讓?感動…」ときれいな発音で歌っているのには感心してしまいます。子どもの音感というのはすごいですね。

 それから、娘のマイブームは本作り。週末も一冊「プリンセスシリーズ ベルのけっこんしき」なる本を作っていました。ベルはディズニー映画「美女と野獣」の主人公ですが、これには結婚式の場面はありません。娘なりに想像して、台詞を考えて文を書き、挿絵を描いているのです。冒頭はこんなふうに始まります。「あるとき、ベルがけっこんをするときがおとずれました…」8頁の本ですけれど、書き終えると、私にも読むように勧め、読んでいる間とても嬉しそうにしていました。

 週末限定かも知れませんが、ちょっとブームだったのが、なんとお皿洗い。新しいスポンジを渡したら、毎食後の食器洗いを「やりたい」と言って積極的にやってきます。歌を口ずさみながら、一緒に洗うのが楽しいらしいです。手が荒れると困るのでビニール手袋をあげたら、これも大喜び。子どもには食器洗いも楽しいのですね。楽しく続けてくれたらいいな~と思っています。

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検定制度が果たした役割と検定教科書――日本の教育法令の歴史102008年12月01日

 日本における教科書の検定制度が固まったのは明治時代である。検定制度は、学年別、つまり児童の発達に応じた近代教科書を全国の小学校に普及させるうえで、大きな役割をはたした。

 この検定教科書、内容から見ると三期に分けられる。①明治19年の小学校令及び「小学校ノ学科及其制度」に準拠した時期→明治10年代の教科書は訂正版で検定。②明治23年の小学校令及び翌年の「小学校教則大綱」に準拠した時期→「教育勅語」の影響が教科書に。③明治33年の小学校令改正、小学校令施行規則に準拠した時期→字音かなづかい、感じの範囲など、教科書の内容に大きく影響

 検定制度改革を転機として、地方出版の教科書が急速に減少、教科書の出版は中央に集中し、検定時代末期には東京の大出版社に集中して、販売競争が激化、教科書事件を引き起こす原因ともなった。

参考:海後宗臣/著 仲新/著 寺崎昌男/著『教科書でみる 近現代日本の教育』(東京書籍、1999)


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日本教科書制度(検定制から国定化)が中国の初期教科書制度に与えた影響――日本の教育法令の歴史112008年12月02日

 検定制度の実施とともに、文部省では伊沢修二を編集局長として、積極的に教科書の編集を始めている。これは民間の教科書に一つの標準を示すことによって、教科書の改善を図ろうとしたものであったという。

 日本の文部省が以上のような意図をもって行った教科書編集は、中国清末の初期の教科書制度に少なからず影響しているようである。清政府も、近代教育導入の初期、1901年12月の時点においては、京師大学堂(北京大学の前身)に編訳書局を設置し、内外の専門家を集めて「学堂章程」の課程計画の規定に基づき、目次を編集、次に目次を学務大臣が審査、その後、「各省の文士が、政府の発行した目次に基づいて教科書を編纂すれば、学務大臣の審査を経て、使用することとする」と檄を飛ばして民間教科書を奨励し、簡単な検定制度の運用を開始している。

 ところが翌年明治35年・1902年に、日本では学校の教科書採用をめぐる教科書会社と教科書採用担当者との間の贈収賄事件が発覚する。「教科書事件」或いは「教科書疑獄事件」と呼ばれる教育史上前例のない大不祥事事件であった。40都道府県で200名以上が摘発され、それは県知事、文部省担当者、府県採択担当者、師範学校校長や小学校長、教科書会社関係者などであり、116名が有罪判決を受けるという大事件であり、教科書疑獄事件に関係した会社が発行する教科書は採択禁止となったのである。そこで日本政府はかねてから話題とされていた国定制度をこの機会に一挙に実施する。明治36年・1903年4月、小学校令改正により「小学校ノ教科用図書ハ文部省ニ於テ著作権ヲ有スルモノタルヘシ」(第三次小学校令第24条)と教科書の国定制度が規定されたのであった。

 上記のような日本の突然の教科書国定化は、新しくできたばかりの中国清政府の教科書制度にも影響を及ぼしたようである。1904年、京師大学堂の編訳書局は廃止されている。更にそれを引き継いで教科書編集を担ったのは、学部(1905年11月に設立)に1906年6月設置された編訳図書局である。京師大学堂の編訳書局廃止から学部設立までの間には空白がある。これは新しい学制 「奏定学堂章程(癸卯学制)」施行によるものかもしれないが、清政府の教科書編纂機関は一時期なかったことになる。

 学部・編訳図書局は、日本の国定教科書のように全国の初等教育を普及し統一することを念頭に、価格を安く抑え、複製も許可していたという。教科書国定化を視野に入れていたと見て良いだろう。もっとも、近代教育を導入して30年になる日本と、近代教育制度を導入したばかりの中国では、情況が全く異なっていた。中国では学部の教科書では間に合わず、民間の教科書を検定して採用するしかなかった。この学部教科書は児童心理に即した内容でないことや、管理、印刷が悪い等々批判が絶えなかったようである。

 (なお、中国初期の清政府による教科書編纂事情については、当ブログの記事、2008年10月4日「中国・清末、清政府が設立した京師大学堂編書処による教科書編纂」及び5日「中国・清末、清政府が設立した学部・編訳図書局による教科書編纂」をご参照ください。)

参考:海後宗臣/著 仲新/著 寺崎昌男/著『教科書でみる 近現代日本の教育』(東京書籍、1999)

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中国・清末、清政府が日本の学制を新学制のモデルにした理由2008年12月03日

 中国の清末、1904年公布の壬寅学制(欽定学堂章程)と明治33年・1900年の日本の学校系統図を並べると、非常に似通っている。清政府が近代教育導入を図るに当たり、主としてモデルにしたのは日本の学制であった。

 元来、学制制定にあたった管学大臣の張百熙や張之洞等は、欧米や日本の教育システムから優れている部分を取り入れようと努力したらしい。留学生や使節派遣により、広く欧米諸国、日本の教育システム等を研究させたのだが、結果として日本の学制を主にモデルにしたのである。

 この理由を『民国教育史』は4つ挙げている。①政体の問題-欧米国家の政体と民主主義は清政府には受け入れがたいものであったが、日本は立憲君主制で和魂洋才を主張しており受け入れやすかった。②外国語教育の観点-欧米諸国では英語等の言葉は母国語として学ぶ体制であったが、日本はすでに英語等の欧米諸国の言葉を外国語として学ぶカリキュラムが作られていた。③文字-中国と日本が漢字を使う「同文」の国であった。④導入の簡便性-欧米からの近代教育導入に成功した日本を通して、多くのものを中国に導入、消化、改造するのが簡単で早く、更に新たに欧米から近代教育を導入するよりも多くの力が節約出来る、という考え方があった。

 清末、王朝政治に綻びが生じるなかで、近代教育導入は諸処に改善を図ろうとする重要な政策の一つであった。中華思想的には日本から教育システムを導入することなど考えられないと思われるので、この決断は決して安易なものではなく、それほどに近代教育導入が焦眉の急と考えられていたともいえるだろう。

参考:李華興主編『民国教育史』(上海教育出版社、1997年)

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ファインマンの素敵なお父さん――『ファインマンさんベストエッセイ』を読む2008年12月04日

R.P.ファインマン『ファインマンさんベストエッセイ』
 最近我が家で話題になったのが、リチャード・P・ファインマン(物理学者)のエッセイ『ファインマンさんベストエッセイ』という本。夫が、ファインマンの父親の教育のユニークさにしきりに感心して、いろいろ話してくれた。とても印象深い内容だったので、夫が仕事にでかけてから、本をめくってみた。

 ファインマンの子どもの頃の話には、よく父親が登場する。父親と林を散歩しながら自然界の様々なおもしろい出来事を話してくれたそうだ。そのとき、何かの名前を知っていることと、何かを本当に知っていることの違いを、父親に教わったという。父親は本質を大切にする考えの持ち主であった。中でも物の見方として印象的だったのは、「ある種のことについては、世間で尊敬すべきとされているものにも頭を下げないという考えかた」を教えられたというものだ。その教え方というのがなかなか刺激的である。

 「ローマ法王の前に大ぜいの人がひざまづいている写真が載っている。するとおやじは[ほれ、この人間たち見てごらん。ここに人間が一人立っていて、その前で他の人間どもが大ぜいお辞儀しているだろう?だがこっちの人間と、この連中と、いったいどこが違ってるんだろうな?]…中略…[この人だってわしらと同じ人間だ。抱えている問題も同じなら、みんなと同じにメシも食いトイレにも行く、ただの人間だよ。それなのにいったいなぜこっちの連中は、ペコペコするのか?人と違うところは地位と制服だけだ。別に何も特別なことをやり遂げたわけでもないし、名誉をかちとったわけでもない。]」

 他にも興味深かったのは、例えばこんなエピソード。百科事典に恐竜が「この動物は身長25フィート、頭の幅は6フィートもある」と書いてあると、父親はそこでいったん読むのをやめて、「ということはどういうことなのか、ひとつ考えてみようや」といい「つまり25フィートってことは、こいつがうちの庭に立っているとすると、この二階の窓に頭をつっこめるぐらい背が高いっていうことだよ…」このように、本に書いてあることを、実際にはどういうことなのか、現実に当てはめてできるだけの解釈をつけてくれたという。父親のおかげでファインマンはものを読めば、必ずそれがほんとうはどういう意味なのか、いったい何を言おうとしているのか解釈することを覚えたのだそうだ。

 ファインマンの語り口や考え方が面白くて、ついつい引き込まれてしまう。エピソードはいずれもとても面白いし、興味深い。けれど、それ以上にファインマンと父親の関係が素晴らしいと思った。ファインマンのユーモアのセンスは母親ゆずり、とどこかで見たことがあるが、父親も素敵な方だと思う。ファインマンの父親の教育には示唆に富む部分が多く啓発されるが、ただ真似をしてもいい結果はでないだろう。 まずはいい家族関係があって、更にその子の個性にあった教育があり、そして最終的にはやはりその子自身のやる気と自分の道を切り開く力だと思う。

読んだ本:R.P.ファインマン、訳:大貫昌子、江沢洋『ファインマンさんベストエッセイ』(岩波書店、2001)

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日本の「手工科」の影響を受けた中国・清末民初の「手工科」教科書2008年12月05日

中華民国『共和國教科書新手工』(『小学教科書発展史』より)
 『小学教科書発展史』に面白いものを見つけた。目を引いたのは、これに折り鶴や蛙、アヤメの折り方が載っていたからだ。一つは『小学手工教科書(教師用書)』(光緒34年5月初版9月再版、商務印書館)、清末の「手工科」の教師用の指導書であり、もう一つは『共和國教科書新手工』(中華民国3年・1914年初版、11年・1922年第6版、商務印書館)、中華民国の「手工科」の教科書である。解説によれば、この二冊の教材内容はほぼ同じであるらしい。『小学手工教科書(教師用書)』には「編輯大意」があり、日本の文部省編の『手工教科書』、棚橋氏の『手工教授書』を基礎に編纂したと書かれている。

 そこで調べてみると、それらしい本が見つかった。棚橋源太郎,岡山秀吉著『手工科教授書』(東京:宝文館・東洋社、明治38・1905年)である。書名は少し違うが、著者も符合するし、内容を確認すると、中国で出版された教科書と同じイラストが使われていることが分かった。「色板」の説明部分を読み比べたところ、内容はほぼ同じながら、補筆してあるところがあったり、削除してあるところがあったりする。従って中国・清末の『小学手工教科書(教師用書)』は、棚橋源太郎,岡山秀吉著『手工科教授書』の簡訳版というところである。一方、文部省編『手工教科書』については巻7・巻8(大日本図書、明治37年・1904年)しか見つからず、残念ながら同じイラストは確認できなかった。

 ところで、同じ出版社である商務印書館から出されているのに、『共和國教科書新手工』には「編輯大意」がない。この教科書が出版されたのは1922年、1915年の日本の対華21条要求、1918年の五四運動、1921年の中国共産党誕生…中国のナショナリズムが一気に高揚した時期である。私の勝手な想像だが、ナショナリズムの気配が強まる中国社会の空気が、日本の教科書の翻訳であることを説明することをためらわせたのではないだろうか。

 なお、鹿野公子氏の論文「明治期における手工科の形成過程」によれば、「手工科」はパリ万博(明治11年・1878年)を境に高まった欧米の実業教育科目の学校導入の流れに影響を受けたものであるらしい。技術教育振興の気運が高まっていた日本で制度上「手工科」という科目が登場したのは、明治19年・1886年の第一次小学校令に基づき定められた「小学校ノ学科及其制度」からであった。「小学校ノ学科及其制度」の第3条に高等小学校の加設科目として挙げられている。手工科は日本でも加設科目になったり、随意科目になったりを繰り返した学科で、昭和16年・1941年には「作業」「工作」という名前に変更され、後に中学校の「技術」科・小学校の「図画工作」へと発展したと言われている。

参考:『小学教科書発展史』(国立編訳館、2005、中国語)
鹿野公子「明治期における手工科の形成過程?上原、岡山、後藤、一戸の手工教育観をもとに」(日本大学教育学会 教育学雑誌32、1998)

近代デジタルライブラリーで棚橋源太郎,岡山秀吉著『手工科教授書』(東京:宝文館・東洋社、明治38)を見ることが出来ます。
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40040575&VOL_NUM=00000&KOMA=1&ITYPE=0 表紙
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40040575&VOL_NUM=00000&KOMA=139&ITYPE=0 折り鶴

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映画『レッド・クリフPart.1』見てきました2008年12月05日

 日頃、映画はDVDで見ている私も、『レッド・クリフ』は大画面で見たくて、友人3人と共に映画館へ行って参りました。時代劇にしては、言葉も分かりやすく、私も知っている俳優さんがたくさん出ていたので、そういう意味でも楽しめました。

 とにかく豪華なキャストでした。映画『レッド・クリフ』の主役梁朝偉(トニー・レオン)、去年の映画『ラスト・コーション』では特務機関のボスというあまりに冷たい人すぎて怖い役でしたから、妻を愛していて大事にしたり子どもの笛を直したりする優しい人柄のこちらの方が断然いいです。周喩は、音曲と知略に優れた美男だったそうです。でも『三国志演義』では心が狭い人で、諸葛亮孔明に対してもあんなに心を開いている感じではなかったと思います。諸葛亮孔明と周喩が早い内から気が合って共に曹操に当たるのは、すごく違うし…金城武の諸葛亮孔明と知略を競うのはこれからなのでしょうね。その部分が抜けたらおもしろくないですものね。

 それから、モンゴル族のバーサンジャブがやった関羽、赤い顔に立派な髭は中国人のイメージするところの「関公」そのものでした。

 女優さんも素敵でした。趙薇(ヴィッキー・チャオ)演じる孫権の妹・孫尚香、なかなかチャーミングで、おてんばで彼女の当たり役『還珠格格』を思い出させる活躍ぶりでした。そういえば孫尚香という名前、これは京劇の名前で、『三国志演義』では孫仁、正史では孫夫人と記載されているそうです。孫夫人は後に政略結婚で30歳も年の離れた劉備に嫁ぎます。

 林志玲(リン・チーリン)の小喬はとにかくきれいでした。この役はなにしろ絶世の美女でなくてはつとまりません。小喬については、よく知らなかったのですが、調べてみたら小喬には大喬という姉がいて、「江東の二喬」と言われた有名な美人姉妹だということが分かりました。天下に名だたる美女、というのも権力者に狙われたり、幸せとはいえないですね。『三国志演義』の赤壁の戦いの見どころの一つは、諸葛亮孔明と周喩の知略戦ですが、特に諸葛亮孔明が、周喩に妻・小喬をその美貌故に曹操が狙っていると上手くそそのかして戦いへと向わせるところの駆け引きです。(小喬は『三国志演義』での名前、正史では「小橋」、周喩の妻、としか記載がないそうです)

 自分の中の『三国志演義』とは違っていて違和感があったけれど、映画『レッド・クリフ』という別の物語として見ればとてもよかったです。ただ、戦いの場面が多く、リアルで残酷なので、大人向けだと思います。『レッド・クリフPart.2』の公開が待ち遠しいです。

見た映画:『レッド・クリフPart.1』

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台湾の教科書制度と国立編訳館2008年12月06日

 先日いただいたコメントに関連して台湾の教科書制度のことを少し書いてみます。

 1947年5月、二.二八事件で陳儀長官が更迭されると、台湾省編訳館は廃止となり、教科書編纂と出版の業務は、再び教育庁に戻されました。教育庁では「編審委員会」が教科書編纂と出版の業務を担いましたが、1952年に国語、社会科について反共産党、反ソ連の教育内容を含めた課程標凖(日本の学習要領にあたる)が施行されたことに伴い、1953年国語、算術、社会、自然の四科目が国立編訳館で編纂されることとなります。他の教科は引き続き教育庁「編審委員会」が編纂していました。思想と言語の引き締めは教育界においてより厳しかったといえるでしょう。

 全科目が国立編訳館へ委譲されたのは1968年、中国では文化大革命が始まった年にあたります。ここに至って国立編訳館が台湾唯一の教科書編纂機関となりました。それから1989年まで20年以上にわたり、台湾では国定教科書が使われることになります。

 台湾意識の向上に伴い、国定教科書についての批判と議論が高まり、まずは1989年に労作、美術、音楽、体育等の一部の教科が民間の出版社に開放され、1996年に至って、ようやく国文、算術、社会、歴史、地理、公民等全ての教科が民間に開放され、検定制に完全に移行しました。

参考:『国民中学課程標凖』、『意識形態與台湾教科書』(中文)

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豊子愷が訳した源氏物語2008年12月07日

 豊子愷といえば、中国の有名な現代美術家で漫画の鼻祖とされる人物であり、名文家でもあります。彼の漫画は竹久夢二の草画に絶大な影響を受けたといい、「文学的な画風」「詩人のような画風」で人気を博し、その作品を谷崎潤一郎が絶賛したことはよく知られています。私自身は彼が挿絵を書いた国語教科書『開明国語課本』や漫画雑誌『漫画生活』でその活動に関心をもちました。

 その豊子愷、じつは1962年から源氏物語の翻訳をしているのですね。友人に誘って貰って日本通訳翻訳学会例会に行き、湯瑾さんという方の発表で初めて知り、興味を持ちました。発表そのものは、「翻訳行為とイデオロギー」というテーマで、中国と台湾の源氏物語の翻訳を比較するという形で行われました。比較されたテキストは、中国の翻訳は豊子愷(1965年完成、1980-83年にかけて全3冊を人民文学出版社より出版、豊子愷は1975年に逝去しているので出版に際しては娘が協力)、台湾の翻訳は林文月(『中外文学』に1972年から5年半をかけて翻訳掲載、1978年に中外文学出版社より全5冊を出版)のものです。発表者はイデオロギーが翻訳に影響している例として、豊子愷のテキストをとりあげ、一方、イデオロギーが希薄なものとして台湾の林文月のテキストを取り上げていました。 台湾文学をかじった者としては、発表者の台湾への認識不足は感じないではいられませんでしたが、台湾文学史理解のため参照されたのが葉石濤『台湾文学史』だったせいかもしれません。

 それはともかく、発表で紹介された引用から察するに、台湾の林文月の訳は非常に美しい訳です。時代背景、当時の社会事情などもしっかりと捉えていて、日本の古典に造詣の深い方であろうと思います。解説も、日本語にそのまま訳しても全く違和感のない内容です。

 でも豊子愷訳は、とても同じ小説を訳したとは思えない、激しい訳です。発表で引用されている豊子愷の源氏物語についての解説、というのを読んでも、源氏物語を借りて王朝政治の弊害や問題を批判しているような文章です。

 豊子愷の翻訳については、イデオロギーが翻訳に影響している、という見方だけでは処理出来ないような気がします。彼は1975年に亡くなっているので、翻訳の出版を見届けることは出来ませんでしたが、もし文革後まで存命であれば、彼は翻訳や解説に大きく手を加えたかも知れません。なにより、彼は日本語に精通(彼は青年時代日本に遊学している。でも日本語はあまりできなかったという話も)した名文家ではありますが、作家というよりも芸術家であり、日中戦争時は武漢で抗日運動に参加しており、作品集「戦時相」などもある人物です。1960年代、大飢饉の最中から文化大革命前のこの時期に、この翻訳を引き受けた理由は、源氏物語を翻訳するという以上の意味を含んでいたと考えることも出来るようにも思えます。

 もっとも、発表を聞いただけで、テキストそのものを見たわけでもなければ、豊子愷についても詳しいわけでもないので、これはただの感想です。豊子愷の源氏物語の翻訳や彼の日本観については、先行研究も別にあるようですし、また機会が有れば見てみたいと思っています。今回は久しぶりに学術的雰囲気に触れられてとても有意義でした。

参考:
林文月について 
http://big5.chinataiwan.org/twrwk/twdq/rw/zj/200708/t20070828_445461.htm 経歴、年表等 (中文)

豊子愷について
 http://www.artchinanet.com/artlife/fengzikai/main.htm# 経歴、年表、作品等(中文)

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体操服から軍服に着替えた理由(体操科の教科書)2008年12月08日

日本の底本『小学普通体操法』と中国の翻訳本『蒙学体操教科書』のイラスト
 以前書いた「いつ着替えたの?――『蒙学体操教科書』(体操科・1903年)」(当ブログ2008年5月12日の記事)では、中国で翻訳された体操科の教科書『蒙学体操教科書』(無錫 丁錦著、上海 文明書局、光緒29年・1903年)と、底本と見られる日本の坪井玄道,田中盛業編『小学普通体操法』(金港堂、1884年・明治17年)第一冊のイラストに、服装の違いがあることを紹介した。

 それは具体的には、日本の『小学普通体操法』にはシャツとズボンという体操服らしいものを着た人物が、翻訳書には軍服を着た軍人らしき人物が描かれていることを指していた。このときは「いつ着替えたのだろう?」という疑問符で終わっていた。ただ、1888年・明治21年に改訂された事実だけを述べて、このとき書き換えられた可能性を提示しただけだった。残念ながら、国会図書館の近代デジタルライブラリーには『小学普通体操法』の1888年・明治21年改訂版の画像がないので、確認ができなかった。でも、『近現代日本教育』をじっくり読み直す中で、これに根拠を与える記述を見つけた。

 『近現代日本教育』によれば、1886年学校令の施行期、「日本を世界の列強とならぶ第一等国の地位にまで高めることを目標とする教育政策」により、師範学校や小学校に兵式体操を取り入れたことに言及している。これは「軍隊式の教育によって国民の[元気]を育てることを重んじ、生徒に対してもとくに順良・信愛・威重の気質を求め」るものであったという。

 『小学普通体操法』は改訂版が1888年・明治21年に出ているが、これは1886年の小学校令に合わせるための改訂であったと考えられるのであり、このとき挿絵の人物が体操服から軍服に着替えたのではないか。それはまさに上記のような教育政策に合わせたものと推察されるのである。

 したがって、1888年・明治21年に出た改訂版こそが恐らく中国で翻訳出版された『蒙学体操教科書』の底本であろうと思われる。一応以前も載せた二つのイラストを載せておく。

 『小学普通体操法』の1888年・明治21年の改訂版、WEBCATで調べたら、日本の大学に2冊あることが分かった。そのうちの一冊は我が母校に(^^)。これを見れば事実確認ができるので、機会を見つけて確認に訪れたいものである。

参考:海後宗臣/著 仲新/著 寺崎昌男/著『教科書でみる 近現代日本の教育』(東京書籍、1999)

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