中国・清末、官立の近代的教育機関の設立1――京師同文館 ― 2009年01月27日
最近、京師同文館と京師大学堂について、いろいろ読んでいる。清末の近代教育の代表的な学校の一つとしてまとめておこうと資料を読み始めたら、多くの先行研究があり、興味深い内容がたくさんあって、はまってしまった。軽いまとめだけ、覚え書きとして残しておきたい。
清末、洋務運動の展開において設立された最初の近代的教育機関は二カ所、一つが北京の京師同文館、もう一つが上海の広方言館である。ここでは京師同文館について述べておく。
京師同文館は、恭親王奕キンの建議によりの1862年に設立された、外交事務の人材育成を目的とした外国語学校である。アヘン戦争後、欧米との外交交渉を行う必要に迫られたとき、中国には、正式の翻訳通訳業務を担える国内の人材がいなかった。外国側の通訳に頼るか、信頼性の低い本国の民間人通訳に頼るしかない状況の打開のためには、質の高い翻訳通訳の人材の育成を行う教育機関の設立が急務であったのだ。
京師同文館は、開学したばかりの一年間は、専攻は英語のみで学生は10名しかいなかった。当初、同文館では推薦か随時申込制で試験を行い、優秀な学生であればいつでも入学させ、適宜留学に派遣していたという。二年目からフランス語、ドイツ語、ロシア語が追加され、募集人数も増えていく。この頃の入学資格は「15歳前後の満・蒙・漢八旗出身者で、各旗は毎年2-3人を推薦できる」というものだったが、ドイツ語、日本語、他にも天文学、数学、化学、医学、工学、西洋史、国際法の専攻が追加されていくと、徐々に科挙合格者や官僚にも募集範囲が広げられた。外国語、自然科学の専攻が徐々に追加されていったのは、当時の外交事情等の変化によるものであるらしい。外交面で交流が増え、通訳や翻訳が必要となると上奏され、専攻が増やされていく、ということであったようだ。同文館に所属する 外国人教師の国籍は、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、日本であり、一番少ないのが日本人・1名だった。
ちなみに、京師同文館にはじめて日本語翻訳処が設けられたのは、光緒14年(1888年・明治21年)のことである。(このころ日本語は「東文」「東語」と呼ばれていた。)最初の東文翻訳官は唐家楨であった。彼は近代中国初の通訳の一人であり、光緒23年・1897年に設けられた日本語科「東文館」の初代東文教習(学部長のようなもの)でもある。同文館の「東文館」には唐家楨の他に、日本人・杉幾太郎が教師を務めていた。杉幾太郎は岡山出身、日清戦争後に時事新報社の新聞『時事紙』北京通信員として北京に駐在、その間に東文(日本語)教師として招かれたという。
調べる中で、いろいろ読んでみたい論文や本も出てきたが、なにしろ今の生活では読みたい論文と本を好きなだけ取り寄せるわけにもいかないのが、とても辛いところだ。大学にいたころの恵まれた研究環境に、もう一度戻りたいな~と思ったりする今日この頃である。 (2010年2月23日、劉建雲氏のご指摘により参考の文献記載法を修正。お名前を載せず失礼しました。)
参考:
李若柏「中国における日本語教育の重要な課題――ハイレベルの日本語通訳人材の育成について」『広島大学留学生教育』、2006年
「中国人の日本語学習史」(劉建雲氏の講演会の要旨) 『岡山と中国』vol.172 2005年4月、岡山市日本中国友好協会
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清末、洋務運動の展開において設立された最初の近代的教育機関は二カ所、一つが北京の京師同文館、もう一つが上海の広方言館である。ここでは京師同文館について述べておく。
京師同文館は、恭親王奕キンの建議によりの1862年に設立された、外交事務の人材育成を目的とした外国語学校である。アヘン戦争後、欧米との外交交渉を行う必要に迫られたとき、中国には、正式の翻訳通訳業務を担える国内の人材がいなかった。外国側の通訳に頼るか、信頼性の低い本国の民間人通訳に頼るしかない状況の打開のためには、質の高い翻訳通訳の人材の育成を行う教育機関の設立が急務であったのだ。
京師同文館は、開学したばかりの一年間は、専攻は英語のみで学生は10名しかいなかった。当初、同文館では推薦か随時申込制で試験を行い、優秀な学生であればいつでも入学させ、適宜留学に派遣していたという。二年目からフランス語、ドイツ語、ロシア語が追加され、募集人数も増えていく。この頃の入学資格は「15歳前後の満・蒙・漢八旗出身者で、各旗は毎年2-3人を推薦できる」というものだったが、ドイツ語、日本語、他にも天文学、数学、化学、医学、工学、西洋史、国際法の専攻が追加されていくと、徐々に科挙合格者や官僚にも募集範囲が広げられた。外国語、自然科学の専攻が徐々に追加されていったのは、当時の外交事情等の変化によるものであるらしい。外交面で交流が増え、通訳や翻訳が必要となると上奏され、専攻が増やされていく、ということであったようだ。同文館に所属する 外国人教師の国籍は、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、日本であり、一番少ないのが日本人・1名だった。
ちなみに、京師同文館にはじめて日本語翻訳処が設けられたのは、光緒14年(1888年・明治21年)のことである。(このころ日本語は「東文」「東語」と呼ばれていた。)最初の東文翻訳官は唐家楨であった。彼は近代中国初の通訳の一人であり、光緒23年・1897年に設けられた日本語科「東文館」の初代東文教習(学部長のようなもの)でもある。同文館の「東文館」には唐家楨の他に、日本人・杉幾太郎が教師を務めていた。杉幾太郎は岡山出身、日清戦争後に時事新報社の新聞『時事紙』北京通信員として北京に駐在、その間に東文(日本語)教師として招かれたという。
調べる中で、いろいろ読んでみたい論文や本も出てきたが、なにしろ今の生活では読みたい論文と本を好きなだけ取り寄せるわけにもいかないのが、とても辛いところだ。大学にいたころの恵まれた研究環境に、もう一度戻りたいな~と思ったりする今日この頃である。 (2010年2月23日、劉建雲氏のご指摘により参考の文献記載法を修正。お名前を載せず失礼しました。)
参考:
李若柏「中国における日本語教育の重要な課題――ハイレベルの日本語通訳人材の育成について」『広島大学留学生教育』、2006年
「中国人の日本語学習史」(劉建雲氏の講演会の要旨) 『岡山と中国』vol.172 2005年4月、岡山市日本中国友好協会
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