中国・清末、官立の近代的教育機関の設立2――京師大学堂 ― 2009年01月29日
次に京師大学堂について。1898年6月11日、光緒帝は「定国是詔」で正式に変法を宣言する。その中に京師大学堂についても述べられており、7月3日に光緒帝が梁啓超起草の『奏擬京師大学堂章程』を批准、設立されたのが京師大学堂である。(授業は同年秋から)即ち、京師大学堂は、戊戌の変法(中文:戊戌維新運動)のなかで誕生したのである。設立に当たっては、北京駐在の日本公使に外国人教師の給料のことなどを尋ね、それに答えた上奏文などが残っているそうだ。
京師大学堂は、国立初の総合大学であり、当時の最高学府であり、最高教育行政機関として各省の学堂を統括するものであり、更に前述(本ブログ2008年10月4日の記事参照)のように教科書の編訳所(編書局)の役割も担っていた。
1898年に設立された京師大学堂は、1900年8月3日に一時閉鎖されることになる。排外的な秘密結社による反乱・義和団の乱を西太后が支持して、欧米列国に宣戦布告したことから、1900年6月20日より、国家間戦争となったためである。連合軍により北京攻略が始まるのは8月14日(翌日には陥落)であるから、その直前に閉鎖の命令が下ったことになる。更に連合軍の北京占領後はおよそ一年にわたる占領統治下におかれることになり、この間は閉鎖されたままだった。京師大学堂が再開されるのは1901年12月17日のことである。更に1862年に設立された官立の外語学校・京師同文館を1902年に吸収(京師同文館は義和団の乱で閉鎖)した。
大学堂は再開に際し、新たに速成科(師範館・仕学館)と予科を設けた。このとき清朝政府は日本に正式に教師の派遣を要請している。これを受けて、速成師範館(現在の教育学部のようなもの。現在の北京師範大学の前身)の教習(教師)として、北京入りしたのが、東京帝国大学助教授だった服部宇之吉であった。(京師大学堂が設立されたときは留学生として派遣されたが、義和団の乱に遭い、二ヶ月の篭城を体験後帰国、ドイツへ留学していた)その後、服部を通じて多くの日本人が京師大学堂で様々な科目(法律、経済、財政、教育学、文学、数学、物理、化学、動植物学、生理学、心理学、鉱物学、歴史学、論理学、美術等)の教師として招かれ、また服部の依頼に応じて多くの留学生を日本文部省は受け入れた。このあたりの事情や、京師大学堂時代の服部宇之吉については非常に興味深いので別に詳しく述べたいと思う。なお、京師大学堂は、辛亥革命後、1912年に「北京大学」と改称することになる。
最後に所在地に触れておこう。京師大学堂は、現在の景山公園の東側・景山45号にあった。明代は「馬神廟」、そして清代は乾隆帝の四女・和嘉公主、いわば皇女の嫁ぎ先で和嘉公主府として知られる邸宅「四公主府」があった場所である。辛亥革命後の北京大学にそのまま引き継がれた。中華人民共和国建国後の1951年に北京大学は現在の所在地・燕園に移転、その跡地が人民教育出版社となった。今も当地には僅かながら、清代の遺構「公主大殿」(京師大学堂時代は講堂として使われていた)、北京大学時代の「数学系小楼」が残っている。 (修正日:2009年1月30日)
参考:「北京大学創成期に日本人教授」(羽根高廣氏HP) http://www.geocities.jp/hanegao/kiji_24.htm
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京師大学堂は、国立初の総合大学であり、当時の最高学府であり、最高教育行政機関として各省の学堂を統括するものであり、更に前述(本ブログ2008年10月4日の記事参照)のように教科書の編訳所(編書局)の役割も担っていた。
1898年に設立された京師大学堂は、1900年8月3日に一時閉鎖されることになる。排外的な秘密結社による反乱・義和団の乱を西太后が支持して、欧米列国に宣戦布告したことから、1900年6月20日より、国家間戦争となったためである。連合軍により北京攻略が始まるのは8月14日(翌日には陥落)であるから、その直前に閉鎖の命令が下ったことになる。更に連合軍の北京占領後はおよそ一年にわたる占領統治下におかれることになり、この間は閉鎖されたままだった。京師大学堂が再開されるのは1901年12月17日のことである。更に1862年に設立された官立の外語学校・京師同文館を1902年に吸収(京師同文館は義和団の乱で閉鎖)した。
大学堂は再開に際し、新たに速成科(師範館・仕学館)と予科を設けた。このとき清朝政府は日本に正式に教師の派遣を要請している。これを受けて、速成師範館(現在の教育学部のようなもの。現在の北京師範大学の前身)の教習(教師)として、北京入りしたのが、東京帝国大学助教授だった服部宇之吉であった。(京師大学堂が設立されたときは留学生として派遣されたが、義和団の乱に遭い、二ヶ月の篭城を体験後帰国、ドイツへ留学していた)その後、服部を通じて多くの日本人が京師大学堂で様々な科目(法律、経済、財政、教育学、文学、数学、物理、化学、動植物学、生理学、心理学、鉱物学、歴史学、論理学、美術等)の教師として招かれ、また服部の依頼に応じて多くの留学生を日本文部省は受け入れた。このあたりの事情や、京師大学堂時代の服部宇之吉については非常に興味深いので別に詳しく述べたいと思う。なお、京師大学堂は、辛亥革命後、1912年に「北京大学」と改称することになる。
最後に所在地に触れておこう。京師大学堂は、現在の景山公園の東側・景山45号にあった。明代は「馬神廟」、そして清代は乾隆帝の四女・和嘉公主、いわば皇女の嫁ぎ先で和嘉公主府として知られる邸宅「四公主府」があった場所である。辛亥革命後の北京大学にそのまま引き継がれた。中華人民共和国建国後の1951年に北京大学は現在の所在地・燕園に移転、その跡地が人民教育出版社となった。今も当地には僅かながら、清代の遺構「公主大殿」(京師大学堂時代は講堂として使われていた)、北京大学時代の「数学系小楼」が残っている。 (修正日:2009年1月30日)
参考:「北京大学創成期に日本人教授」(羽根高廣氏HP) http://www.geocities.jp/hanegao/kiji_24.htm
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