中国・中華民国初期、画期的な教育制度の登場――南京臨時政府時期の教育制度2008年10月16日

 1911年10月10日、武昌起義に始まる辛亥革命により、1912年1月1日・元旦、孫文(孫中山)は南京において中華民国臨時大総統の宣誓を行い、中華民国の成立を宣言した。この時点では清朝政府も存続していたが、同年2月12日に清朝の皇帝、宣統帝である愛新覚羅溥儀が退位して、中華民国は中国を代表する政府となる。

 孫文に新しい国の教育を任されたのは蔡元培であった。同年1月5日、臨時大総統孫文により蔡元培を南京臨時政府の教育総長に任命(3日の中国南部の17省代表会議で選ばれていたのを正式に任命)、1月9日には南京臨時政府教育部が設立された。その後、同年1月19日には「普通教育暫行弁法」「普通教育暫行課程標凖」が頒布され、中華民国最初の学制が敷かれることになる。

 新しい学制では、学堂は「学校」に名称が改められ、監督や堂長は一律に「校長」となり、陽暦の3月4日に一律に開学することになった。二期制が採られ、一学期は夏休みまで、二学期は夏休み終了後から二月末までと決められた。更に初等小学校においては、男女共学も認められた。この「普通教育暫行弁法」施行により、清朝政府の学制が廃止された。

 一方、教科書については、「全ての各種教科書は共和国民宗旨にそうものでなくてはならない。清・学部頒布の教科書は一律使用禁止とする。」「全ての民間に通用している教科書は、満清朝廷、旧時の官制や軍制等を讃える内容や、避諱(歴代皇帝の諱を避ける風習)や抬頭(敬意を表現する書式。詳しくは下記※参照)については各書局において自主的に修改し、見本を本部に提出して、本省民政司と教育総会の検査を受けること」等、定められた。

 また、同時に頒布された「普通教育暫行課程標凖」によれば、初等小学校は、必修科目が修身、国文、算術、遊戯、体操、状況次第で図画、手工、唱歌から一科目から数科目加えることが出来、更に女子は裁縫が必修とされた。高等小学校は、修身、国文、算術、中華歴史、地理、博物、理化、図画、手工、体操(兼遊戯)で、状況次第で唱歌、外国語、農工商の一科目から数科目を加えることが出来、ここでも女子は裁縫が必修だった。

 この中華民国最初の教育改革は、清朝時代の教育制度の廃止、及び伝統的な読経中心の教育内容を根本的に変えることが目指され、また初等小学校における男女共学を認めた、画期的な内容であった。 (修正2008年10月17日)

※「抬頭」=改行の上、皇太后・祖宗なら三文字、皇帝や皇帝に関わる言葉などは二文字、皇帝の付属物である京師、国家などは一文字持ち上げて書くこと。公文書はもちろん、科挙の答案などでも、厳格に守られた。

参考:呉洪成『中国小学教育史』(山西教育出版社、2006)

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