京師大学堂教習以前の服部宇之吉 ― 2009年02月03日
東京帝大文科教授と文学博士を授与してまで日本政府が送り出し、清朝政府に「異常出力之才」(傑出した働きをした)とまで讃えられた服部宇之吉の京師大学堂以前について、少し詳しく見てみよう。
服部宇之吉(1867-1939)は福島県出身である。生後一ヶ月にして生後を失い、叔父夫婦に引き取られた。戊辰戦争で実父を失い、逃亡中に負傷した傷が元で左目を失明するなど、幼少時は苦労を重ねたようだ。1872年・明治5年頃に養父が東京で職を得て、家族で東京に移ってからは、麻布小学校に通学、卒業後は私塾に通って漢学、数学、英学を修め、1881年・明治14年に東京開成中学校の前身・共立学校に入学、1883年・明治16年に大学予備門(在学中に第一高等中学校になる)に入学、1887年・明治20年に帝国大学文科大学哲学科に入学した。
1890年・明治23年に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業、当時は文学士も法学士と同様に高等文官の資格があったので、役人になるか教員になるか迷っていたときに、東京帝国大学の文科大学長外山正一が文部省専門学務局長・浜尾新に推薦、文部省に入省する。この頃に、文科大学の島田重礼教授に見込まれて、三女・繁子と結婚、媒酌は浜尾新であった。翌年には、役人は合わないと浜尾、外山に申し出て教員に転じ、京都の第三高等学校と東京の高等師範学校で教授となる。しかし、1897年・明治30年に文部大臣となった浜尾新の依頼を受けて秘書官をつとめることになった。その後に文部大臣になったのが、外山正一だったので継続して秘書官を務め、外山の辞任と共に、秘書官を辞したのであった。これは本人が望んだというよりは、上司であり、結婚の媒酌人でもあった浜尾の依頼だけに仕方がなかったのだという。
その後、東京高等師範学校教授と東京帝国大学文科大学助教授を兼任、翌年から東京帝国大学文科大学助教授専任となり、1899年に4年間の清国とドイツ留学を命じられた。このとき、清国に派遣されたのは、東京帝国大学の服部宇之吉と京都帝国大学の狩野直喜である。両名は、義和団の乱に遭い、約二ヶ月の北京篭城を体験することになる。清国からの宣戦布告に伴い、1900年6月19日に24時間以内の退去を通告され、20日から公使館区域への攻撃が始まる。攻撃開始から援軍が到着する8月14日までの約2ヶ月間、の篭城であった。外国人は公使館員とその家族、護衛兵、留学生等を合わせ925名、中国人のキリスト教徒が3000名ほど逃げ込んでいた。護衛兵と義勇軍合わせても481名しかいないという状態、しかも連合国の寄り合い状態で恐怖の2ヵ月を乗り切れたのは、実質的に総指揮をとった日本の柴五郎中佐(数カ国語を解したという)の存在、そして中国人キリスト教徒の存在が大きかったと言うが、なによりも敗戦後の連合国の報復を恐れる清国側の不徹底な抗戦姿勢にあったらしい。
九死に一生を得て無事帰国した服部は、12月にはドイツに向かった。ドイツ留学一年半足らずのときに、文部大臣からの電報で急遽帰国、再び北京へ、京師大学堂へ、今度は教習として赴くことになった。このときの心境は如何ばかりであったろう。
参考:江上波夫『東洋学の系譜』(大修館書店、1992)
柴五郎中佐・服部宇之吉『北京篭城日記』(東洋文庫)
「服部宇之吉」(Wikipedia) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%AE%87%E4%B9%8B%E5%90%89
「義和団の乱」(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1
↓応援クリックお願いします(^^)
服部宇之吉(1867-1939)は福島県出身である。生後一ヶ月にして生後を失い、叔父夫婦に引き取られた。戊辰戦争で実父を失い、逃亡中に負傷した傷が元で左目を失明するなど、幼少時は苦労を重ねたようだ。1872年・明治5年頃に養父が東京で職を得て、家族で東京に移ってからは、麻布小学校に通学、卒業後は私塾に通って漢学、数学、英学を修め、1881年・明治14年に東京開成中学校の前身・共立学校に入学、1883年・明治16年に大学予備門(在学中に第一高等中学校になる)に入学、1887年・明治20年に帝国大学文科大学哲学科に入学した。
1890年・明治23年に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業、当時は文学士も法学士と同様に高等文官の資格があったので、役人になるか教員になるか迷っていたときに、東京帝国大学の文科大学長外山正一が文部省専門学務局長・浜尾新に推薦、文部省に入省する。この頃に、文科大学の島田重礼教授に見込まれて、三女・繁子と結婚、媒酌は浜尾新であった。翌年には、役人は合わないと浜尾、外山に申し出て教員に転じ、京都の第三高等学校と東京の高等師範学校で教授となる。しかし、1897年・明治30年に文部大臣となった浜尾新の依頼を受けて秘書官をつとめることになった。その後に文部大臣になったのが、外山正一だったので継続して秘書官を務め、外山の辞任と共に、秘書官を辞したのであった。これは本人が望んだというよりは、上司であり、結婚の媒酌人でもあった浜尾の依頼だけに仕方がなかったのだという。
その後、東京高等師範学校教授と東京帝国大学文科大学助教授を兼任、翌年から東京帝国大学文科大学助教授専任となり、1899年に4年間の清国とドイツ留学を命じられた。このとき、清国に派遣されたのは、東京帝国大学の服部宇之吉と京都帝国大学の狩野直喜である。両名は、義和団の乱に遭い、約二ヶ月の北京篭城を体験することになる。清国からの宣戦布告に伴い、1900年6月19日に24時間以内の退去を通告され、20日から公使館区域への攻撃が始まる。攻撃開始から援軍が到着する8月14日までの約2ヶ月間、の篭城であった。外国人は公使館員とその家族、護衛兵、留学生等を合わせ925名、中国人のキリスト教徒が3000名ほど逃げ込んでいた。護衛兵と義勇軍合わせても481名しかいないという状態、しかも連合国の寄り合い状態で恐怖の2ヵ月を乗り切れたのは、実質的に総指揮をとった日本の柴五郎中佐(数カ国語を解したという)の存在、そして中国人キリスト教徒の存在が大きかったと言うが、なによりも敗戦後の連合国の報復を恐れる清国側の不徹底な抗戦姿勢にあったらしい。
九死に一生を得て無事帰国した服部は、12月にはドイツに向かった。ドイツ留学一年半足らずのときに、文部大臣からの電報で急遽帰国、再び北京へ、京師大学堂へ、今度は教習として赴くことになった。このときの心境は如何ばかりであったろう。
参考:江上波夫『東洋学の系譜』(大修館書店、1992)
柴五郎中佐・服部宇之吉『北京篭城日記』(東洋文庫)
「服部宇之吉」(Wikipedia) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%AE%87%E4%B9%8B%E5%90%89
「義和団の乱」(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1
↓応援クリックお願いします(^^)

最近のコメント