中国・清末、京師大学堂仕学館の総教習を務めた岩谷孫蔵2009年02月08日

 少し間があいたが…1902年に服部宇之吉と共に京師大学堂に招かれた京都帝国大学教授で法学博士の岩谷孫蔵についても、詳しく知りたくなり、いろいろ探していた。まず『東洋学の系譜』には載っていなかった。阿部洋『中国の近代教育と明治文化』に詳しいようだが、まだ見ていない。幸いなことに、岩谷孫蔵について言及がある論文・顧祝軒「中国における民事法の継受と[動的システム論]」を見つけたので、この論文の岩谷孫蔵に関する部分の記述を覚え書きとしてまとめておくことにする。

 岩谷孫蔵は1867年生まれ、佐賀出身である。東京外国語大学独語科卒業後、1885年より法学研修の為ドイツに留学、イエナ大学、ハレ大学に学んで学位を取得、帰国後は明治法律学校、東京専門学校、第三高等中学教授などを経て、1899年、京都帝国大学法科教授に就任、独逸法講座を担当していた。

 1902年、日本は清国側の招聘の要望に応じて人選を行い、法学博士としては岩谷孫蔵が選ばれ、京師大学堂に新設された速成仕学館(現在なら法学部にあたる)の総教習(学部長のようなもの)に就任したのである。担当した学科は「法律学」「経済学」「日本語」であったようだ。

 岩谷孫蔵は仕学館創設期の企画、章程の制定、課程の設置などに参加、教学の管理及び、教室、宿舎の建設、教材や参考書の編纂、図書、設備の購入や、時には新入生の選抜試験にも参加したという。

 1906年、仕学館は京師法政学堂に改組され、岩谷は引き続き総教習の職に就いた。京師法政学堂は、日本の帝国大学の制度にならって分科大学を開設したものである。実は1906年前後、清政府は将来の立憲政治に備えて、法政の専門知識をもつ官吏を養成する必要があるとして、全国各地方(省)に法政学堂の開設を命じており、1909年11月には全中国の日本人教習の人数は実に500~600名に達していたという。その中でも法政経済関係の教育に従事するものが約50人前後あったそうだ。岩谷の勤める京師法政学堂にも、複数の日本人教習が招聘された。中でも東大教授の岡田朝太郎は総教頭として招聘され、1910年から1915年まで法制科教習を務めている。

 京師大学堂速成仕学館から京師法政学堂における岩谷孫蔵の働きは高く評価された。1908年、清朝廷は京師大学堂総監督の要請に応え、服部宇之吉と共に外国人教習としては破格の二等第二宝星を授与している。なお、師範館に招聘された服部以下の日本人教習は1909年に帰国した者が多いようだが、岩谷孫蔵他、京師法政学堂の教習はそのまま残った。

 1912年1月1日に中華民国が成立、同年5月に京師大学堂は国立北京大学校となり、厳復が大学校長になる。 岩谷孫蔵は中華民国成立後も引き続き中国に留まった。一時は中華民国総統府の法律顧問となり、その後も法典編纂調査員として仕事を続け、中国初期の会社法である「公司法草案」を民国5年に余?昌(1882-)とともに起草するなど、中華民国初期の法整備に力を尽くし、1917年にはその功労を讃えて二等嘉禾章を授与されている。

 結局、岩谷孫蔵は、1902年に北京に赴いて1917年に帰国するまで16年間もの間中国に滞在した。そして1917年に病を患い帰国、翌年の1918年に肺結核で逝去した。

 岩谷孫蔵の経歴についての覚え書きは以上である。ところで、この時期、日本人以外にも外国人教習が多く京師大学堂で教鞭をとっていた。そのあたり、新たに分かったことがあれば、補足していくつもりである。
 
参考:顧祝軒「中国における民事法の継受と[動的システム論]」(2)http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/2520/1/A03890546-00-078010035.pdf
北京大学法学院 http://www.law.pku.edu.cn/article_one.asp?MID=20038206425342&MenuId=20038206416577&menuname=学院概况

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