中国・清末民初、アメリカ学制への移行を後押ししたアメリカ2009年05月23日

 アメリカが政府レベルで門戸開放主義を提唱して、中国進出に乗り出すのは二〇世紀に入ってからである。アメリカは日本やヨーロッパ諸国とは違い、教育事業を全面に押し出した。そしてその際、二つの方策を採ったようだ。

 一つ目は日本留学を批判、或いは日本人教習不要論を唱え、中国人の目をアメリカに、そしてアメリカ人の目を中国にむけさせることである。阿部洋氏はその例としてアーサー・スミスの著書『今日の中国とアメリカ』(China and America Today,1907)における日本留学非難の一文、及びニューヨーク・デイリー・トリビューン紙の1907年6月2日付の論説「中国人は日本人教習を望まず」(‘Chinese Don’t want Japanese Teachers’)を引いている。

 二つ目は1908年の決議により、義和団事件賠償金の一部を返還、それを教育基金として中国人のアメリカの官費留学生派遣事業を発足させ、更にその留学予備教育のために学校を設立したことである。設立された学校には、中国の超名門大学・清華大学の前身となった清華学堂、後に北京大学に吸収される燕京大学などがあった。義和団事件の賠償金を中国の教育に還元するという決議、これは当時中国人に大いなる感謝と感動をもって迎えられた。なお、アメリカへの留学生は、学位取得状況が高く、約38%が修士号、約10%が博士号を取得、帰国後、教員(大学教員が圧倒的多数)、技術者、実業家等になり、社会的に活躍した人が多かった。

 1922年に学制がアメリカモデルに転換した背景には、五四運動による中国人の自発的な日本離れだけではなく、アメリカの積極的な運動が効を奏したことがあった。アメリカは中国人の反日感情を煽りつつ、国内の世論を味方につけて、より中国人に好まれる方策を採って、日本が清国時代に獲得した中国教育界における優位な立場に取って代わったのである。特に人心掌握術において、アメリカの方が日本よりも数段上手であったように思える。

参考:阿部洋『中国の近代教育と明治日本』(龍渓書舎、1990年初版、2002年第二版)

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