新エジソン式コップ蓄音機――週末の工作 ― 2009年06月01日

しばらく前から気になっていた蓄音機、自作しようと調べたら、ちょうどいいキットがあったので、これを買うことにした。そしてネットで注文した、大人の科学「新エジソン式コップ蓄音機」が届いた。週末、夫と娘が二時間をかけて組み立てた。製作をほぼ担当した夫によれば、意外に難しかったそうだ。娘はネジを締めたり、出来る部分を手伝ったようではあるが、今回ばかりは夫がメインで作らざるを得なかったらしい。11才以上、と書いてあったが…やはり大人向けの工作キットなのだ。できあがりはアンティーク風のホーンがいい味を出している。エジソンの蓄音機といえば蝋管だが、このキットは蝋管の替わりにプラスチックのコップを使っている。
録音方法は、針をコップに落とした後、ホーンに向かって、50秒以内で、大声で歌ったり話したりする。針は、声の微妙な響きを振動として捉え、プラスチックのコップに細~く線を刻んでいく。娘が「メリさんのひつじ」「ポニョ」の替え歌を2番まで歌い終えたところで、大体50秒だった。
再生は、針の上のおもりを二つ外して、刻んだ線に注意深く針をのせてスイッチオン。スタート地点に針をのせるのがなかなか難しい。なんと針がスーッとコップを滑って、真ん中あたりから再生。何度やっても真ん中くらいから、再生になってしまう。場所によって、キレイに再生できるところと、雑音がきついところがあるのも面白い。また、娘の声ははっきり聞こえるが、私と夫の声はあまりよく聞こえない。高い声の方が聞こえやすいらしい。それに、録音と再生を同じ機械でやるのがなんとも不思議である。録音技術の原点を体験出来て親子で楽しかった。
今回使った工作キット:『大人の科学 新・エジソン式コップ蓄音機』(学研)
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録音方法は、針をコップに落とした後、ホーンに向かって、50秒以内で、大声で歌ったり話したりする。針は、声の微妙な響きを振動として捉え、プラスチックのコップに細~く線を刻んでいく。娘が「メリさんのひつじ」「ポニョ」の替え歌を2番まで歌い終えたところで、大体50秒だった。
再生は、針の上のおもりを二つ外して、刻んだ線に注意深く針をのせてスイッチオン。スタート地点に針をのせるのがなかなか難しい。なんと針がスーッとコップを滑って、真ん中あたりから再生。何度やっても真ん中くらいから、再生になってしまう。場所によって、キレイに再生できるところと、雑音がきついところがあるのも面白い。また、娘の声ははっきり聞こえるが、私と夫の声はあまりよく聞こえない。高い声の方が聞こえやすいらしい。それに、録音と再生を同じ機械でやるのがなんとも不思議である。録音技術の原点を体験出来て親子で楽しかった。
今回使った工作キット:『大人の科学 新・エジソン式コップ蓄音機』(学研)
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中国・清末、アメリカ聖公会の中国伝道 ― 2009年06月03日
日本・明治初期に、立教大学や聖路加病院等を設立したアメリカ聖公会は、ほぼ同じ時期に中国でも聖約翰大学(St. John's University)等を設立している。当初、日本伝道と中国伝道は同じ中国伝道教区の監督下に置かれ、聖公会の宣教師も日本と中国を往復していたらしい。当時、聖公会が力を入れていたのが、教育伝道と医療伝道であった。
元来、アメリカ聖公会が目指したのは、中国伝道であった。矢崎 健一『チャニング・ムーア・ウィリアムズ』によれば、アメリカ聖公会の中国伝道は、ニューヨークのゼネラル聖公会神学校の卒業生ライド(A.F.Lyde)の主唱により、同校卒業生ロックウッド(Henry Lockwood 中国語名:駱武)とバージニア聖公会神学校を1832年に卒業したハンセン(Francis R.Hanson 中国語名:韓森)の二名が派遣されたことに始まる。彼等は1835年(道光15年)に広東に行ったが、当時の中国は外国人の宗教活動を禁じていた為、イギリス領のシンガポールへ、更に将来の中国大陸伝道に向けて中国語を身につける為にオランダ領バタビヤ(現在のインドネシア・ジャカルタ)へ渡ったが、両名とも病を得て帰国した。
次に中国を目指したのが、ブーン(William Jones Boone 中国名:文恵廉)である。サウスカロライナ教区出身の医師でありながら外国伝道を志したブーンは、バージニア聖公会神学校を卒業後、夫人と共に1837年にバタビヤへ渡って中国語を習得、中国の開国を予想して1841年にはポルトガル領澳門(マカオ)へ、そしてアヘン戦争の勃発により廈門(アモイ)へ移った。ブーンはここで夫人を失うが、中国伝道の同志を募るべく1843年に帰国し、各地で中国伝道の必要性を説いて回った。アメリカ聖公会はその重要さを認め、ブーンを中国伝道のため主教として派遣することを決め、1844年に聖職按手(聖公会で、新しく執事・司祭・主教を任命する儀式)を受け、初代の中国伝道教区監督=主教に任命された。(当時は廈門主教と呼ばれた)
ブーンは家族と新しく募った同志と共に1844年末にニューヨークを出立、1845年4月に香港に到着、ここから更に上海へ向かった。ブーンは上海を伝道の本拠地として選んだのである。それというのも、ブーンがマカオを出立したときと異なり、すでに五港が開かれていた。上海を選んだのは、揚子江の河口にあって大陸内部への伝道にもより適しており、アメリカとの連絡にも便利であるということであったらしい。以来、多くの宣教師が中国に派遣されることになる。
そのなかに、日本のキリスト教史に名前を刻まれることになった二名の宣教師がいた。1855年に、バージニア聖公会神学校を卒業し、自ら願い出て中国派遣宣教師に任命されたジョン・リギンズ(John Liggins 中国名:林約翰)、立教の創始者で日本聖公会初代主教にもなるチャニング・ムーア・ウィリアムズ(Channing Moore Williams)である。彼等は1855年11月にニューヨークを出立し1856年6月に上海に到着して、ブーン等に迎えられ、希望通り、中国での宣教師としての仕事を始めた。ところが、1859年、日本の開国が近いという知らせがブーンに届いたことが、二人の運命を大きく変えることになる。アメリカ聖公会は協議の上、日本伝道の開始に備え、宣教師を派遣することになり、ブーンに人選が任されたのである。ブーンに選ばれたジョン・リギンズ、チャニング・ムーア・ウィリアムズの両名は、長崎から、最初は英語教師として、キリスト教の布教は禁止されていた日本で、活動を開始する。このとき日本は幕末、開国前夜の渦中にあった。
一方、ブーンは、中国で着実に伝道の足場を固めていった。1865年に「培雅書院」を、1866年に「度恩書院」を設立、初等教育を開始する。この二つの私塾こそ、1879年に設立され、中華人民共和国建国後の1952年に解体されるまで、上海随一、そして全国でも指折りの名門大学となった聖約翰大学(St. John's University)の前身である。
参考:矢崎 健一『チャニング・ムーア・ウィリアムズ』( 聖公会出版、1988)
『海上梵王渡――聖約翰大学(教会大学在中国)』(河北教育出版社、2003)
※上記両書では、アメリカ聖公会の当初の中国伝道についての記述が異なる。矢崎氏の著書が詳しかったので、ここではそちらを採用した。
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元来、アメリカ聖公会が目指したのは、中国伝道であった。矢崎 健一『チャニング・ムーア・ウィリアムズ』によれば、アメリカ聖公会の中国伝道は、ニューヨークのゼネラル聖公会神学校の卒業生ライド(A.F.Lyde)の主唱により、同校卒業生ロックウッド(Henry Lockwood 中国語名:駱武)とバージニア聖公会神学校を1832年に卒業したハンセン(Francis R.Hanson 中国語名:韓森)の二名が派遣されたことに始まる。彼等は1835年(道光15年)に広東に行ったが、当時の中国は外国人の宗教活動を禁じていた為、イギリス領のシンガポールへ、更に将来の中国大陸伝道に向けて中国語を身につける為にオランダ領バタビヤ(現在のインドネシア・ジャカルタ)へ渡ったが、両名とも病を得て帰国した。
次に中国を目指したのが、ブーン(William Jones Boone 中国名:文恵廉)である。サウスカロライナ教区出身の医師でありながら外国伝道を志したブーンは、バージニア聖公会神学校を卒業後、夫人と共に1837年にバタビヤへ渡って中国語を習得、中国の開国を予想して1841年にはポルトガル領澳門(マカオ)へ、そしてアヘン戦争の勃発により廈門(アモイ)へ移った。ブーンはここで夫人を失うが、中国伝道の同志を募るべく1843年に帰国し、各地で中国伝道の必要性を説いて回った。アメリカ聖公会はその重要さを認め、ブーンを中国伝道のため主教として派遣することを決め、1844年に聖職按手(聖公会で、新しく執事・司祭・主教を任命する儀式)を受け、初代の中国伝道教区監督=主教に任命された。(当時は廈門主教と呼ばれた)
ブーンは家族と新しく募った同志と共に1844年末にニューヨークを出立、1845年4月に香港に到着、ここから更に上海へ向かった。ブーンは上海を伝道の本拠地として選んだのである。それというのも、ブーンがマカオを出立したときと異なり、すでに五港が開かれていた。上海を選んだのは、揚子江の河口にあって大陸内部への伝道にもより適しており、アメリカとの連絡にも便利であるということであったらしい。以来、多くの宣教師が中国に派遣されることになる。
そのなかに、日本のキリスト教史に名前を刻まれることになった二名の宣教師がいた。1855年に、バージニア聖公会神学校を卒業し、自ら願い出て中国派遣宣教師に任命されたジョン・リギンズ(John Liggins 中国名:林約翰)、立教の創始者で日本聖公会初代主教にもなるチャニング・ムーア・ウィリアムズ(Channing Moore Williams)である。彼等は1855年11月にニューヨークを出立し1856年6月に上海に到着して、ブーン等に迎えられ、希望通り、中国での宣教師としての仕事を始めた。ところが、1859年、日本の開国が近いという知らせがブーンに届いたことが、二人の運命を大きく変えることになる。アメリカ聖公会は協議の上、日本伝道の開始に備え、宣教師を派遣することになり、ブーンに人選が任されたのである。ブーンに選ばれたジョン・リギンズ、チャニング・ムーア・ウィリアムズの両名は、長崎から、最初は英語教師として、キリスト教の布教は禁止されていた日本で、活動を開始する。このとき日本は幕末、開国前夜の渦中にあった。
一方、ブーンは、中国で着実に伝道の足場を固めていった。1865年に「培雅書院」を、1866年に「度恩書院」を設立、初等教育を開始する。この二つの私塾こそ、1879年に設立され、中華人民共和国建国後の1952年に解体されるまで、上海随一、そして全国でも指折りの名門大学となった聖約翰大学(St. John's University)の前身である。
参考:矢崎 健一『チャニング・ムーア・ウィリアムズ』( 聖公会出版、1988)
『海上梵王渡――聖約翰大学(教会大学在中国)』(河北教育出版社、2003)
※上記両書では、アメリカ聖公会の当初の中国伝道についての記述が異なる。矢崎氏の著書が詳しかったので、ここではそちらを採用した。
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手作りプチ着せ替えに夢中 ― 2009年06月03日

ここ3日ほど、娘の発案で作ったプチ着せ替えが、我が家で流行っている。
初めに作ったのが、小さなペネロペ。ペネロペを描いて色を塗って切り抜き、その大きさに合わせて服をいろいろ描いて色を塗って切り抜く。服のカタログや絵本を見て、好きなのを真似して描くのがなかなか楽しい。このペネロペの身長はたった3センチ、服はワンピース2センチ、スカートやTシャツはなんと1センチ。服側に貼ったり剥がしたりできるノリをチョンチョンとつけて、乾かしたらできあがり。
他にも、プリンセスやプリキュアの既製の着せ替えに合わせた人形を作って、既製品を着せてみたり、自分で服を描いたのを既製品に着せたりもしている。自分で描くから、髪飾りのお花やティアラも自由自在なのがいい。小さいので無くしそうなので、シールノートに貼って大事に遊んでいるのが、なんとも微笑ましい。 アイデアは素晴らしいのだが、製作係として「あれつくって」「これつくって」とすっかり頼られている母としては、早く「自分でつくって」ほしいと心より願っている。
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初めに作ったのが、小さなペネロペ。ペネロペを描いて色を塗って切り抜き、その大きさに合わせて服をいろいろ描いて色を塗って切り抜く。服のカタログや絵本を見て、好きなのを真似して描くのがなかなか楽しい。このペネロペの身長はたった3センチ、服はワンピース2センチ、スカートやTシャツはなんと1センチ。服側に貼ったり剥がしたりできるノリをチョンチョンとつけて、乾かしたらできあがり。
他にも、プリンセスやプリキュアの既製の着せ替えに合わせた人形を作って、既製品を着せてみたり、自分で服を描いたのを既製品に着せたりもしている。自分で描くから、髪飾りのお花やティアラも自由自在なのがいい。小さいので無くしそうなので、シールノートに貼って大事に遊んでいるのが、なんとも微笑ましい。 アイデアは素晴らしいのだが、製作係として「あれつくって」「これつくって」とすっかり頼られている母としては、早く「自分でつくって」ほしいと心より願っている。
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北海道・道東縦断の旅 ― 2009年06月08日

家族で北海道へ行って参りました。実家の母も一緒です。今回は知床、摩周湖・屈斜路湖、釧路湿原というルートで道東を車で縦断しました。道東は以前妹と二人旅をして以来です。とても素晴らしかったので、今回はそれを思い出しながら、摩周湖や釧路湿原を予定に組み込みました。往路は女満別空港、復路は釧路空港を利用して、途中で宿泊も入れながら、出来るだけ無理のない旅程を組みました。
最初は知床、以前から行きたいと思っていたところです。女満別空港から知床半島へ向かう道沿いで早速オシンコシンの滝を間近に見て、その力強さに圧倒されました。知床観光船オーロラにも乗りました。一時間半ほどの航程です。波は穏やかで船酔いすることもなく、時折青空ものぞいていました。寒いことを覚悟していたのですが、思ったよりも暖かかったのはラッキーでした。甲板に出てもあまり寒くなかったので、知床半島の雄大な自然、北の海の景観を双眼鏡でたっぷり味わうことができました。その後、知床五胡を散策、一湖、二湖の木道を、のんびり風景や鳥のさえずりを楽しみながら歩きました。ガイドさんと一緒に回っている方達は、動物の足跡や、植物のことなどを教えて貰っていました。もしも自分で動物や植物のことが分かったら、きっともっともっと楽しめることでしょう。途中で天気が悪くなって、小雨がぱらつきだしたので、知床五湖を後にしました。
次に向かったのは摩周湖、屈斜路湖です。天候が悪化して、摩周湖は霧で見えませんでした。妹と以前行ったときは、とてもキレイに見えたのに、残念。。屈斜路湖の湖畔に宿泊したので、こちらは少し散策できました。晴れていたら、もっともっと美しいのでしょうね。
釧路では弟一家と合流して、ノロッコ号に乗り、また雨の中、湿原を一緒に散策しました。鳥や植物に詳しい弟達に、いろいろ教えて貰いながら、感動を分けて貰いながら歩きました。目をこらし、耳を澄まして、野に咲く小さな花が咲いているのを見付けたり、鳥のさえずりを聞き分けたり、なんとも優雅で、贅沢な時間を過ごすことが出来ました。娘も従姉と一緒に先行して楽しんでいましたし、母も私もしばらくぶりに弟一家と過ごせて楽しかったです。私の計画につきあってくれた母と夫と娘、釧路まではるばる来てくれた弟一家に感謝です。
今回、実際に車で走ってみて、北海道の広さを実感!道東であったせいもあるでしょうが、行き交う車もなく、ずっとずっと一台で走り続けるところもあり、ときどき不安になるくらいでした。もっとも、窓から見る風景が美しく、空気も澄んでいて、全然飽きません。嬉しいことに、野生の鹿も何回も見ることができました。運転はほとんど夫に任せきりでしたが、私もウトロから摩周湖、屈斜路湖までハンドルを握り、「五里霧中」状態の霧の中の運転も体験して少し運転に自信がつきました。お天気は思い通りにはなりませんでしたが、道東を家族で旅行したいという夢が叶って、母とも一緒にいい旅ができて、本当に感激でした。
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最初は知床、以前から行きたいと思っていたところです。女満別空港から知床半島へ向かう道沿いで早速オシンコシンの滝を間近に見て、その力強さに圧倒されました。知床観光船オーロラにも乗りました。一時間半ほどの航程です。波は穏やかで船酔いすることもなく、時折青空ものぞいていました。寒いことを覚悟していたのですが、思ったよりも暖かかったのはラッキーでした。甲板に出てもあまり寒くなかったので、知床半島の雄大な自然、北の海の景観を双眼鏡でたっぷり味わうことができました。その後、知床五胡を散策、一湖、二湖の木道を、のんびり風景や鳥のさえずりを楽しみながら歩きました。ガイドさんと一緒に回っている方達は、動物の足跡や、植物のことなどを教えて貰っていました。もしも自分で動物や植物のことが分かったら、きっともっともっと楽しめることでしょう。途中で天気が悪くなって、小雨がぱらつきだしたので、知床五湖を後にしました。
次に向かったのは摩周湖、屈斜路湖です。天候が悪化して、摩周湖は霧で見えませんでした。妹と以前行ったときは、とてもキレイに見えたのに、残念。。屈斜路湖の湖畔に宿泊したので、こちらは少し散策できました。晴れていたら、もっともっと美しいのでしょうね。
釧路では弟一家と合流して、ノロッコ号に乗り、また雨の中、湿原を一緒に散策しました。鳥や植物に詳しい弟達に、いろいろ教えて貰いながら、感動を分けて貰いながら歩きました。目をこらし、耳を澄まして、野に咲く小さな花が咲いているのを見付けたり、鳥のさえずりを聞き分けたり、なんとも優雅で、贅沢な時間を過ごすことが出来ました。娘も従姉と一緒に先行して楽しんでいましたし、母も私もしばらくぶりに弟一家と過ごせて楽しかったです。私の計画につきあってくれた母と夫と娘、釧路まではるばる来てくれた弟一家に感謝です。
今回、実際に車で走ってみて、北海道の広さを実感!道東であったせいもあるでしょうが、行き交う車もなく、ずっとずっと一台で走り続けるところもあり、ときどき不安になるくらいでした。もっとも、窓から見る風景が美しく、空気も澄んでいて、全然飽きません。嬉しいことに、野生の鹿も何回も見ることができました。運転はほとんど夫に任せきりでしたが、私もウトロから摩周湖、屈斜路湖までハンドルを握り、「五里霧中」状態の霧の中の運転も体験して少し運転に自信がつきました。お天気は思い通りにはなりませんでしたが、道東を家族で旅行したいという夢が叶って、母とも一緒にいい旅ができて、本当に感激でした。
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ヒグマの看板-知床五湖 ― 2009年06月08日

今回、知床に行くにあたり、ガイドブックで装備を確認したら、「クマ鈴」なるものがあった。クマに出会わない為には、常に音を出し、クマに人間がいることを知らせるのがいいらしい。クマ鈴はそのための装備である。でも、観光客が沢山訪れる知床五湖でも必要なのだろうか?クマ研出身の弟に聞いたところ、「貸そうか?」と言って貰ったが、送って貰うのも申し訳ないので、自分で調達することにした。そう言うと、現地でお土産にクマ鈴を買うか、あるいはラジオ等音を出す物をもっていく方がいいと教えてくれた。いろいろ考えるのも悩ましいので、モンベルでソフトシェルを買ったときに、クマ鈴を購入して持っていった。
実際に知床五湖に行ってら、おみやげ屋さんを兼ねたレストハウスで、クマ鈴を無料で貸し出していた。保証金は1500円だったと思う。パンフレットやマップ他にも、知床がヒグマの生息地であること、「万一ヒグマに遭ってしまったら」どう対処するかの説明なども具体的に描いてあった。ここには本当にヒグマがいるのだ、と実感が湧いてきた。知床五湖の木道の入口にもヒグマがいることを喚起する看板があった。ツアーの方達が来ると人が多くなるが、お昼時には引き上げてしまい、人少なになった。今回は人が多めの1湖と2湖しか行かなかったが、ツアーの人たちが滅多に行かない3湖、4湖、5湖に行くなら、やはりクマ鈴は持っていった方がよさそうだ。
いつか、じっくり知床を楽しむ旅をしたくなった。知床をもっとよく分かった上で、運が良ければ、エゾシカにも会えるという、フレペの滝遊歩道に挑戦してみたいものである。
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実際に知床五湖に行ってら、おみやげ屋さんを兼ねたレストハウスで、クマ鈴を無料で貸し出していた。保証金は1500円だったと思う。パンフレットやマップ他にも、知床がヒグマの生息地であること、「万一ヒグマに遭ってしまったら」どう対処するかの説明なども具体的に描いてあった。ここには本当にヒグマがいるのだ、と実感が湧いてきた。知床五湖の木道の入口にもヒグマがいることを喚起する看板があった。ツアーの方達が来ると人が多くなるが、お昼時には引き上げてしまい、人少なになった。今回は人が多めの1湖と2湖しか行かなかったが、ツアーの人たちが滅多に行かない3湖、4湖、5湖に行くなら、やはりクマ鈴は持っていった方がよさそうだ。
いつか、じっくり知床を楽しむ旅をしたくなった。知床をもっとよく分かった上で、運が良ければ、エゾシカにも会えるという、フレペの滝遊歩道に挑戦してみたいものである。
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中国・清末、中国人初のアメリカ留学生の自叙伝『西学東漸記』 ― 2009年06月09日

旅行中に容閎『西学東漸記』を読んだ。近代最も早い中国人のアメリカ留学生は、1847年にモリソン記念学校の校長ブラウンが帰国する際、アメリカ・マサチューセッツ州に連れ帰った3名、黄勝、黄寛、容閎であり、この本はその中の一人・容閎の自叙伝である。
子ども時代から、ギャツラフ夫人の学校に入学した経緯、モリソン学校での生活、香港での学校生活、渡米、アメリカでの学生生活と彼を支えた人々との関係、帰国後の通訳、貿易商等としての活動、太平天国との関わり、曽国藩や丁日昌との関わり、アメリカへ児童留学生を送り込む計画と実行経緯と挫折、戊戌の政変によるアメリカ逃亡、孫文との関わり…概略は知っていたが、本人の言辞にはなんといっても説得力がある。尤も、誤認している部分や、偏った見方も散見されるが、これも当時の容閎の考えや置かれている立場等を考える参考になる。
実はこのように余裕を持ってこの本を見ることが出来るのは、しっかりした注釈のおかげである。百瀬弘氏の訳は平易で読みやすい上、なんといっても注釈が素晴らしい。英文、中文の資料を駆使して、容閎自身が誤認している点を正し、時代背景等にも言及している。
これを読んでやっと、19世紀のアメリカからの帰国者の中国近代化や政治、或いは革命運動への関わり方、思考といったもの、また一度アメリカを知った中国人の生国に対する見方や思いが分かってきた。東洋文庫におさめられている本は本当に素晴らしい内容のものが多く、いつも助けられている。本当にいい研究は古びることはないのだと思う。
読んだ本:容閎・著/百瀬弘・訳注/坂野正高・解説『西学東漸記』(東洋文庫、平凡社、1969年)
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子ども時代から、ギャツラフ夫人の学校に入学した経緯、モリソン学校での生活、香港での学校生活、渡米、アメリカでの学生生活と彼を支えた人々との関係、帰国後の通訳、貿易商等としての活動、太平天国との関わり、曽国藩や丁日昌との関わり、アメリカへ児童留学生を送り込む計画と実行経緯と挫折、戊戌の政変によるアメリカ逃亡、孫文との関わり…概略は知っていたが、本人の言辞にはなんといっても説得力がある。尤も、誤認している部分や、偏った見方も散見されるが、これも当時の容閎の考えや置かれている立場等を考える参考になる。
実はこのように余裕を持ってこの本を見ることが出来るのは、しっかりした注釈のおかげである。百瀬弘氏の訳は平易で読みやすい上、なんといっても注釈が素晴らしい。英文、中文の資料を駆使して、容閎自身が誤認している点を正し、時代背景等にも言及している。
これを読んでやっと、19世紀のアメリカからの帰国者の中国近代化や政治、或いは革命運動への関わり方、思考といったもの、また一度アメリカを知った中国人の生国に対する見方や思いが分かってきた。東洋文庫におさめられている本は本当に素晴らしい内容のものが多く、いつも助けられている。本当にいい研究は古びることはないのだと思う。
読んだ本:容閎・著/百瀬弘・訳注/坂野正高・解説『西学東漸記』(東洋文庫、平凡社、1969年)
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たからものはかぞくのみんな ― 2009年06月11日
娘の二年生の国語の教科書には、自分の宝ものを紹介する「教えて あげる、たからもの」という単元がある。例文では女の子が思い出の石を宝物として紹介している。これを参考に、自分の宝物の特徴を整理し、紹介する文章を書き、更にそれを発表する、という内容の授業であるらしい。
娘の紹介文を読んだ。娘の宝物は「かぞくのみんな」だそうだ。誕生を見まもってくれたこと、成長を褒めてくれること等の記述から見れば、この「かぞくのみんな」というのは、どうやら、彼女の成長を見まもってくれている父母、祖父母やごく身近な親戚を指すらしい。理由は「わたしをだいじにしてくれたこと」だそうだ。感動して、ちょっとウルウルしてしまった。
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娘の紹介文を読んだ。娘の宝物は「かぞくのみんな」だそうだ。誕生を見まもってくれたこと、成長を褒めてくれること等の記述から見れば、この「かぞくのみんな」というのは、どうやら、彼女の成長を見まもってくれている父母、祖父母やごく身近な親戚を指すらしい。理由は「わたしをだいじにしてくれたこと」だそうだ。感動して、ちょっとウルウルしてしまった。
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中国・清末、初めての官費アメリカ留学生団結成の経緯 ― 2009年06月12日
容閎『西学東漸記』から、中国における最初の官費によるアメリカ留学生派遣の経緯をまとめておこうと思う。
容閎がアメリカ留学生派遣を志したのは、イエール大学時代であった。以来提唱の機会を待ち続けた。最初に訪れた機会は、1868年、丁日昌の紹介で満州人の大臣・文祥にこの教育計画を含む4条(留学生派遣以外にも、中国人の汽船会社の設立、国内鉱業資源の開発、ローマ教会による信者に対する一切の司法権の行使の禁止を盛り込んだ建白書を提出したときだった。曽国藩の支持も得て、丁日昌の協力を得たにも関わらず、この時は文祥が母親逝去による服喪に入ってしまい、実現を見なかったという。次に訪れた機会は1870年「天津教案」(次項を参照)解決の場であった。この事件の解決のために曽国藩や丁日昌等が勅命をもって委員(と表現されている)に任命され、容閎は丁日昌から現地で通訳として一働きするようにとの電報を受け取った。容閎は委員諸公の参集を機会に、丁日昌が委員会で教育計画を提案するよう働きかけ、丁日昌がこれに応えて全面的に協力したおかげで、委員全員の連名で建白書の上奏にこぎ着けたのである。そして1870年の冬、連署の上奏文に対する裁可の勅命が届き、留学計画は現実のものとなる。
学生派遣の詳細は、容閎が曽国藩の招きに応じて南京に赴いたときに決定された。教育上の管理は二人の監督者、陳蘭彬と容閎が担当することになった。陳蘭彬の職責はアメリカ滞在中留学生の中国文の知識を維持させることにあり、容閎の職責は留学生の外国で受ける教育を監視し、かれらに適当な住居を世話してやることにあった。中国文の授業をするために、二人の中国人教授が同行、留学団付きの通訳一人の随行も決められた。他にも、留学前に通学する予備校を設立すること、選抜留学生を120名とすること、留学年限を15年とすること等も決められた。留学費用については、政府当局が留学期間中の経費の全額支給を保証し、政府出資金は一人の中国人教授に引率されて渡米する各期の学生団にそれぞれ配当され、また各期の学生団には適当な支度金が支給されるという仕組みになっていた。
志願者の資格は、年齢を12歳以上16歳以下とすること、信望のある両親、徳望のある保護者の保証を要すること、身体検査と一定の基準による中国文の読み書きの試験(英国人の大学に在学している場合は英語の試験)に合格しなくてはならないこと、留学候補者に採用されたものはすべて毎日予備校に通学し、中国文の学習を継続するかたわら英語の勉強を始めるか、あるいは前からの英語の学習を継続すること、合衆国へ出発する前に少なくとも一年間はこの予備校で教育を受けるべきことが必要とされた。
実際のところ、この留学生募集は困難であったようである。第一期の学生を充足させる為、容閎は香港まで行って(注釈によれば1972年初め頃)、イギリス国立学校を訪ね、英文と中文とをある程度兼習した少数の出来の良い生徒を選びだしたエピソードを容閎は同書で紹介している。最初の内、予備校入学志願者はほとんどなかったらしい。注釈によれば、当初は規則の第12条に「上海、寧波、福建広東などの処」から選抜とあったが、修正されて満州八旗の子弟も募集対象となった事情が影響したのか、120名の出身の内訳は、容閎の郷里・香山県の39名を含む広東省本籍者は83名、次に多いのが江蘇省の22名、その他は上海の9名、浙江省8名、安徽省4名、福建省2名、山東省1名であった。華北出身者は厳密には山東省の一人ということになるが、実際は天津で募集に応じた者が26名おり、これは当時北洋大臣であった李鴻章の働きかけに応じて志願した者であったらしい。
以上の経緯から、容閎の「学制教育計画」は、容閎のねばり強い計画提唱に加え、それを支えた曽国藩、丁日昌、李鴻章の賛同、協力があって実現したことが分かる。それにしても、140年も前の留学派遣について、これだけ詳細に分かるのは実に有り難いことである。(修正:2009年6月14日)
読んだ本:容閎・著/百瀬弘・訳注/坂野正高・解説『西学東漸記』(東洋文庫、平凡社、1969年)
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容閎がアメリカ留学生派遣を志したのは、イエール大学時代であった。以来提唱の機会を待ち続けた。最初に訪れた機会は、1868年、丁日昌の紹介で満州人の大臣・文祥にこの教育計画を含む4条(留学生派遣以外にも、中国人の汽船会社の設立、国内鉱業資源の開発、ローマ教会による信者に対する一切の司法権の行使の禁止を盛り込んだ建白書を提出したときだった。曽国藩の支持も得て、丁日昌の協力を得たにも関わらず、この時は文祥が母親逝去による服喪に入ってしまい、実現を見なかったという。次に訪れた機会は1870年「天津教案」(次項を参照)解決の場であった。この事件の解決のために曽国藩や丁日昌等が勅命をもって委員(と表現されている)に任命され、容閎は丁日昌から現地で通訳として一働きするようにとの電報を受け取った。容閎は委員諸公の参集を機会に、丁日昌が委員会で教育計画を提案するよう働きかけ、丁日昌がこれに応えて全面的に協力したおかげで、委員全員の連名で建白書の上奏にこぎ着けたのである。そして1870年の冬、連署の上奏文に対する裁可の勅命が届き、留学計画は現実のものとなる。
学生派遣の詳細は、容閎が曽国藩の招きに応じて南京に赴いたときに決定された。教育上の管理は二人の監督者、陳蘭彬と容閎が担当することになった。陳蘭彬の職責はアメリカ滞在中留学生の中国文の知識を維持させることにあり、容閎の職責は留学生の外国で受ける教育を監視し、かれらに適当な住居を世話してやることにあった。中国文の授業をするために、二人の中国人教授が同行、留学団付きの通訳一人の随行も決められた。他にも、留学前に通学する予備校を設立すること、選抜留学生を120名とすること、留学年限を15年とすること等も決められた。留学費用については、政府当局が留学期間中の経費の全額支給を保証し、政府出資金は一人の中国人教授に引率されて渡米する各期の学生団にそれぞれ配当され、また各期の学生団には適当な支度金が支給されるという仕組みになっていた。
志願者の資格は、年齢を12歳以上16歳以下とすること、信望のある両親、徳望のある保護者の保証を要すること、身体検査と一定の基準による中国文の読み書きの試験(英国人の大学に在学している場合は英語の試験)に合格しなくてはならないこと、留学候補者に採用されたものはすべて毎日予備校に通学し、中国文の学習を継続するかたわら英語の勉強を始めるか、あるいは前からの英語の学習を継続すること、合衆国へ出発する前に少なくとも一年間はこの予備校で教育を受けるべきことが必要とされた。
実際のところ、この留学生募集は困難であったようである。第一期の学生を充足させる為、容閎は香港まで行って(注釈によれば1972年初め頃)、イギリス国立学校を訪ね、英文と中文とをある程度兼習した少数の出来の良い生徒を選びだしたエピソードを容閎は同書で紹介している。最初の内、予備校入学志願者はほとんどなかったらしい。注釈によれば、当初は規則の第12条に「上海、寧波、福建広東などの処」から選抜とあったが、修正されて満州八旗の子弟も募集対象となった事情が影響したのか、120名の出身の内訳は、容閎の郷里・香山県の39名を含む広東省本籍者は83名、次に多いのが江蘇省の22名、その他は上海の9名、浙江省8名、安徽省4名、福建省2名、山東省1名であった。華北出身者は厳密には山東省の一人ということになるが、実際は天津で募集に応じた者が26名おり、これは当時北洋大臣であった李鴻章の働きかけに応じて志願した者であったらしい。
以上の経緯から、容閎の「学制教育計画」は、容閎のねばり強い計画提唱に加え、それを支えた曽国藩、丁日昌、李鴻章の賛同、協力があって実現したことが分かる。それにしても、140年も前の留学派遣について、これだけ詳細に分かるのは実に有り難いことである。(修正:2009年6月14日)
読んだ本:容閎・著/百瀬弘・訳注/坂野正高・解説『西学東漸記』(東洋文庫、平凡社、1969年)
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パソコンのトラブル ― 2009年06月14日
パソコンのトラブルが続いていたので、思い切って新しいノートパソコン購入、この週末、がんばってセットアップした。Windows Vistaになって、セキュリティの認証等いろいろと戸惑う部分もあった。無線LANにしたので、ネットワークの設定などもしたが、これもいままで夫に任せたままだったので、自分でわかるいい機会になった。やっと、データを移行し、ソフト類のインストールして、セットアップ完了。ところがほっとしたのも束の間、重大なトラブルが発生した!
ポータブルHD関連のソフトをインストール・フォーマットをした後、パソコン本体にシステムエラーが出てしまったのである。ポータブルHDのソフトをインストールしたのが原因なのか、ほかの原因があるのかわからない。起動すると青い画面が出て、再起動になり、さらにセーブモード選択画面になる。セーブモードを選んで立ち上げても青い画面が出て再起動してしまう。新しいパソコンのセットアップでこんな重大なシステムエラーを出してしまうとは、私のセットアップに問題があったのか、それとも初期不良なのか?頭を抱えてしまった。
でも、大丈夫。これまでなら、何とか自分で解決しなければならなかったが、今度のパソコンはNECにしたので、サポートセンターに連絡して相談することができたのである。相談しても、原因は特定できなかったが、結果的にエラーは解消された。教えてもらったのは、「前回正常起動時の構成」に戻す方法である。「詳細ブートオプション」を表示させ、「コンピューターの修復」をする。その後、改めて「前回正常起動時の構成」に戻す操作をした。週末ながら電話もつながるし、対応も親切で、状況を説明し、指示通り操作するだけで、エラーがでなくなった。サポートがいいのは、やはりありがたい。修理に出さずに済んで、今はほっとしている。でも、同様のエラーが出る可能性を考えると、しばらくはディスクトップのパソコンからデータを消すことはできないし、まめにバックアップをとる必要がありそうだ。
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ポータブルHD関連のソフトをインストール・フォーマットをした後、パソコン本体にシステムエラーが出てしまったのである。ポータブルHDのソフトをインストールしたのが原因なのか、ほかの原因があるのかわからない。起動すると青い画面が出て、再起動になり、さらにセーブモード選択画面になる。セーブモードを選んで立ち上げても青い画面が出て再起動してしまう。新しいパソコンのセットアップでこんな重大なシステムエラーを出してしまうとは、私のセットアップに問題があったのか、それとも初期不良なのか?頭を抱えてしまった。
でも、大丈夫。これまでなら、何とか自分で解決しなければならなかったが、今度のパソコンはNECにしたので、サポートセンターに連絡して相談することができたのである。相談しても、原因は特定できなかったが、結果的にエラーは解消された。教えてもらったのは、「前回正常起動時の構成」に戻す方法である。「詳細ブートオプション」を表示させ、「コンピューターの修復」をする。その後、改めて「前回正常起動時の構成」に戻す操作をした。週末ながら電話もつながるし、対応も親切で、状況を説明し、指示通り操作するだけで、エラーがでなくなった。サポートがいいのは、やはりありがたい。修理に出さずに済んで、今はほっとしている。でも、同様のエラーが出る可能性を考えると、しばらくはディスクトップのパソコンからデータを消すことはできないし、まめにバックアップをとる必要がありそうだ。
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安富和男『へんな虫はすごい虫』を読む ― 2009年06月16日

釧路湿原の温根内ビジターセンターに行ったとき、気になる本を見つけた。『へんな虫はすごい虫』、サブタイトルは「もう“虫けら”とは呼ばせない!」という本だ。表紙の写真が人の顔のような模様の虫で、裏表紙の虫が大きな目玉のような擬態をする虫で、それだけでもインパクトがあるのだが、内容はもっとすごい。
100年も生きるシロアリの女王の話や、キノコを育てて食料にしているアリ、マイナス260度の超低温に長時間いれても氷が解けると生還し120年間の乾燥に耐え真空にも強く放射線にも人体の千倍の耐性があるというクマムシに至っては、本当にすごくて、同じ地球上に生きている生物として敬意を示したくなった。
この本のおかげで、虫の習性や能力、生涯に初めて関心を持った。こんなに面白いなら、研究したくなる気持ちもわかる。虫の生態を知ることで、生命の多様な可能性に気づかせてもらえるとは、いい本と出会えたことに感謝している。
読んだ本:安富和男『へんな虫はすごい虫』(ブルーバックス、講談社、1995)
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この本のおかげで、虫の習性や能力、生涯に初めて関心を持った。こんなに面白いなら、研究したくなる気持ちもわかる。虫の生態を知ることで、生命の多様な可能性に気づかせてもらえるとは、いい本と出会えたことに感謝している。
読んだ本:安富和男『へんな虫はすごい虫』(ブルーバックス、講談社、1995)
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