「倭乱」と「胡乱」の扱いの違い――石渡延男「韓国 民族主義史観に依拠した歴史」『世界の歴史教科書 11ヵ国の比較研究』より2008年08月20日

世界の歴史教科書(明石書店)
 石渡延男「韓国 民族主義史観に依拠した歴史」『世界の歴史教科書 11ヵ国の比較研究』によれば、韓国の『国史』の教科書では、日本・豊臣秀吉の朝鮮出兵「倭乱」と清朝・太宗ホンタイジの李氏朝鮮侵入及び属国化「胡乱」の取り扱いに大きな違いがあるらしい。「倭乱」は力を入れて詳細に書かれ、「胡乱」は簡単にまとめられているだけだそうだ。

 ほぼ同時代の戦争、そして双方とも大きな打撃を受けたにもかかわらず、記述に偏りがあるというのは、とても興味深い。実は、以前同書を読んだときは、中国・清朝の歴史に暗くて、「胡乱」がどのようなものであったか実感が持てなかったのだが、今回読み直して、筆者の指摘に強い共感を持った。

 韓国では豊臣秀吉の朝鮮出兵を、一回目の1592年の「文禄の役」を「壬辰倭乱」、二回目の1598年の「慶長の役」を「丁酉再乱」とよんでいる。その戦禍の凄まじさやその後の歴史に与えた影響の大きさ故に、韓国の教科書が重要視するのは十分理解出来る。

 問題なのは、「胡乱」の記述の方である。清朝・ホンタイジによる「胡乱」は二回起こっている。一回目の「丁卯胡乱(ていぼううろん、ていぼうこらん)」は清を国号とする前の後金の大汗・ホンタイジが、李氏朝鮮・仁祖の反後金親明的な政策に対し反感を持っていたところに、仁祖に対するクーデターが起こったことをきっかけに、1627年、ホンタイジ(太宗)はアミン(阿敏)、ジルガラン(済爾哈朗)、アジゲ(阿済格)、ヨト(岳託)、ショト(碩託)らの率いる3万の軍勢を、姜弘立ら朝鮮人の同行の下に朝鮮半島に送ったもの。このときは、アミンが和議前の数日間、平壌を略奪している。二回目の「丙子胡乱(ていしこらん)」はホンタイジが皇帝に即位し国号を「清」に改めたことを、李氏朝鮮が認めず、あくまで明朝皇帝を推戴する姿勢を見せたことから、1636年にホンタイジ自ら10万の兵を率いて朝鮮に侵入、開戦後40日余りで、仁祖を屈服させた。和議がもたれ、11項目の条件を呑まされる結果となったのである。仁祖は三田渡でホンタイジに対し三跪九叩頭の礼 による清皇帝を公認する誓いをさせられ、王子を含む多くの人質がとられ、多くの賠償金を朝貢品として年々納めることになり、さらに屈辱的な「大清皇帝功徳碑」という碑までたてさせられた。

 「胡乱」の朝鮮史におけるインパクトは「倭乱」に勝るとも劣らない、と思う。だから「倭乱」と「胡乱」の記述に温度差があるのは、確かに不自然である。日韓の歴史研究者が10年の歳月をかけて書き上げた『日韓交流の歴史』(明石書店)、日中韓の歴史研究者、教育関係者が作った『未来をひらく歴史』などで、「倭乱」「胡乱」がどう扱われているか、確認してみようと思っている。

読んだ本:石渡延男「韓国 民族主義史観に依拠した歴史」『世界の歴史教科書 11ヵ国の比較研究』(明石書店、2002)
参考:「大清皇帝功徳碑」の写真と説明は以下のサイトに。 
「大清皇帝功徳碑」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B8%85%E7%9A%87%E5%B8%9D%E5%8A%9F%E5%BE%B3%E7%A2%91
「青邱古蹟集真」http://www.geocities.jp/krruins/sjd1.html
「韓国古代山城探検!」 http://shigeseoul.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_865d.html

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