中国・清末、“強迫教育”への民衆の反応2009年01月21日

 前回、清末の「強迫教育政策」は当初教育財源が明確にされていなかったこと等の制度上の遺漏があり、また社会的にも学校教育に対する信頼度が低かったことから、普及には大きな課題を残したと書いた。しかし、これだけでは、当時の実態を伝えていないので、補足しておきたい。

 清末、清朝政府は諸外国への賠償を抱えており、教育の財源を十分に確保しないまま、義務教育施行を急いだ。いわば見切り発車であった。各県に設置された勧学所は学堂の設置と生徒募集を行ったが、なかなかはかどらなかった。

 なにより、義務教育は“強迫教育”という名称に違わず、庶民にとって強制されたものであった。伝統的な教育を行う私塾から、欧米の学問=洋学を学ぶ洋学堂への急転換は、ごく一部の「開明的」知識階層を除けば、その有用性が疑問視された。中国を侵略する外国列強への憎悪、それに対する清朝の弱腰に対する不信感も根底にある。更に学堂経費を賄う為にさまざまな新税「廟捐」をかけたから、庶民にとっての経済的負担が大きかった。しかも寺廟を没収して学堂の校舎にあてたため、伝統的祭祀・娯楽の場を失うことにもなった。また当然のことながら洋学堂への就学義務化は、伝統的な私塾に大きな打撃を与えた。このいずれもが「仇学」を煽り、その結果、各地で農民による学堂うちこわし「“毀学”暴動」が起きたのである。 私塾が打ち壊しの標的にならないよう「書院」と改称し、難を避けようとしたほど、それらは頻繁であったようだ。

 日本でも、明治時代に始めて学制が公布されたとき、学校制度の有用性への疑問や高額な学費に対する不満から農民一揆が起こり、学校が打ち壊しや焼き討ちの標的になったことがある。

 急激な変革が社会の反発を招くことも避けられないことであった。日本の場合は民衆の反発は徐々に消息化し、以後は義務教育は国家政策と結びついて発展していくのであるが、中国の場合は国内の混乱、戦乱が続いたことで、義務教育が機能するようになるのは、ずっと後のことになる。

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