中国・清末に始まる“強迫教育”=義務教育の法制化2009年01月19日

 中国では1986年に義務教育法が施行されて以来、国をあげて義務教育の普及に力を入れている。そのためか1985年以前には中国に義務教育はなかったかのような印象を受けるが、実は、中国の法制上の義務教育の歴史は1902年まで遡ることが出来る。なお、近代中国では、義務教育は“強迫教育”という名称で呼ばれる。

 1902年に公布された中国最初の学制・欽定学堂章程(壬寅学制)は、日本の学制を全面的に模倣したものであった。これにはすでに義務教育普及の意図が折り込まれていた。しかし、このときは明確な規定ではなかったし、同章程は公布されたものの、施行を見ずに廃止されたため、何らの変化ももたらすことはなかった。

 さて、『欽定学堂章程』(壬寅学制)中の義務教育普及の考え方を、正式に規定したのは、1904年に中国で初めて施行された『奏定学堂章程』(癸卯学制)である。『奏定学堂章程』(癸卯学制)では、「初等小学章程」に「初等小学は、全国人民を教成する所にして、もとより随地広設すべく、邑に不学の戸なく家に無学の童なからしめて始めて国民教育の実義に背くことなし」と国民教育の方針が述べられている。これは日本で最初の学制「学制」(1872年)公布前日に公布された「太政官布告214号」の文言「自今以後一般の人民 華士族卒農工商及婦女子、必ず邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめんことを期す」によく似ている。また、“強迫教育”については「初等小学堂には、全国人民が均しく入学すべきであり、名付けて強迫教育という。疾患を患ったり、事故があったりする者を除き、就学しない者は、その父母もしくは親戚保護者を罰する」と厳しく決められている。

 この「強迫教育政策」実施のため、1906年には各県に勧学所が設けられ、学齢児童の就学勧誘に力をいれた。更に清朝・学部は1907年に「強迫教育章程」(全十条)を発布した。そこでは、各地に勧学所・小学堂を開設すること、満七歳で就学すること、学齢児童が就学しない場合に父母を懲罰すること、府(州)長官が小学堂設置の弁理・監督責任を十分に果たさない場合に処分対象とすること等が規定されている。

 清朝政府は、こうして教育面で近代学校教育を行う為の法体制を整えた。しかし、実情としては、財政的な裏付けがとぼしく、社会的にも学校教育に対する信頼度が低かったこともあって、義務教育普及はなかなか実現しなかった。 義務教育重視は、中華民国に引き継がれることとなる。

参考:王智新『現代中国の教育』(明石書店、2004)
佐藤尚子・大林正昭『日中比較教育史』(春風社、2002)

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