音読劇「はるのゆきだるま」――週末の参観2009年03月01日

うさぎのお面(音読劇:はるのゆきだるま)
 週末は小学校の参観でした。その日の授業は、音読劇「はるのゆきだるま」でした。しばらく前から、わけもわからず国語の教科書の「はるのゆきだるま」のナレーター役をさせられていた私。それは参観で発表する音読劇「はるのゆきだるま」の為だったのです。

 子ども達は教室の前方に一列に並びます。頭にはそれぞれの役の手作りのお面を着けています。娘の役はうさぎ。実は、この物語の中でうさぎはとても大切な役です。「春を届ける」と雪だるまに最初に約束するのも、約束を思い出すのも、約束を守れなかったことに涙するのも、そして最後にゆきだるまがあった辺りに咲いた白い花に気が付くのも、全部うさぎなのです。娘は、手作りの可愛いピンクのうさぎのお面を頭につけて、暗唱したうさぎの台詞を、気持ちを込めて言えていたようです。

 音読劇の後は、一年でがんばったことを書いた作文を、一人一人、教室の前に出て発表しました。娘ががんばったのは「勉強」だと聞いて、夫がしきりに感心(?)していました。娘以外のクラスメートも「勉強」「マラソン大会」が半々くらいでした。

 本人いわく「きょうはちょっときんちょうした」そうです。入学したばかりのころと比べ、大きく成長したことを実感できた参観でした。

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万博記念公園の梅2009年03月01日

万博記念公園の梅
 休日、母娘で万博記念公園の梅まつりへ行った。今が見頃とあって、大変な人出だった。風雅な雅楽の調べの中、梅を楽しんだ。桜ほど種類はないのかもしれないが、それでも、白、薄紅色、紅、深紅…梅の爽やかな香りが梅林を包んでいた。娘は花のつぼみや花びらを集めて楽しそうだった。ただ…日本庭園の呈茶の時間に間に合わなかったのが少し残念だった。

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「味楽る!ミミカ」の「いわしのかばやきどん」をつくる――代休の過ごし方2009年03月02日

鰯の手開きに挑戦:鰯の蒲焼き丼
 今日は参観の代休日。「いわしをてびらきしたい~。いわしのかばやきをつくりたい~。まめごはんをつくりたい~」と娘に節分の頃から言われ続けて、一ヶ月が過ぎた。今日、ようやく重い腰をあげて(!)鰯を買った。

 経緯は…節分前、偶然見たNHK教育の子供向けお料理アニメ「味楽る!ミミカ」で節分向けのお料理「いわしのかばやきどん」をやっていたのが発端である。娘はこれを見て、どうしても作りたくなったらしい。でも、鰯を娘が本当に手開き出来るかも疑問だったし、率直に言って、実際にやってみたら気持ち悪い、と言ってきっと私がやることになるのでは、との危惧もあった。テレビで見たからやりたくなっただけで、すぐ忘れるだろう、と思っていた。ところが、いつまでたっても、「いわし買ってきた?いわし~」と呪文のようにたびたび言われるので、とうとう根負けして、鰯を購入したのである。

 やっと作るつもりになって、「味楽る!ミミカ」の「いわしのかばやきどん」のレシピをネットで探したが見つからない。しかし、娘は「いわしのかばやきどんの作り方は覚えているから任せておいて」と自信満々である。詳しく聞いてみると、どうもテレビで見たのを非常に鮮明に覚えているらしい。手開きの方法も、調理の手順も、細かく説明してくれる。たれの分量までは覚えていなかったが。そこで、基本のレシピだけ探して参考にすることにし、後は娘の言うままに作った。結局タレの配合と焼くところは私が一人でやったが、それ以外はほとんど覚えていて、積極的にやっていた。鰯の蒲焼きに合わせるご飯も番組でやっていた通り、節分の豆を入れて炊いた豆ご飯にした。

 さて…できあがりは、鰯がふっくらと柔らかく香ばしく焼けていて、豆ご飯にも合ってとても美味しかった。娘も大満足。それにしても、子供向けお料理アニメ「味楽る!ミミカ」、娘に鰯の手開きをさせるとは、あなどれない番組である。
 
参考:味楽る!ミミカ http://www.nhk.or.jp/kids/program/mimika.html

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まど・みちお詩集『宇宙のうた』と詹冰さんの思い出2009年03月03日

 まど・みちおさんは懐かしい「ぞうさん」や「ふしぎなポケット」を書いた著名な詩人である。1909年11月生まれだから、現在99才、今年11月には100才になる、現役の詩人である。この、まど・みちおさんが台湾育ちで、日本統治時代の台湾で詩人としての第一歩を刻んだことを最近知った。台湾総統府道路湾岸課に勤務していた1934年に、雑誌『コドモノクニ』の童謡募集に2編が特選(北原白秋の選)に選ばれたのをきっかけに、本格的に童謡や詩の投稿を行うようになった。

 私が、まど・みちおさんの詩集『宇宙のうた』を手に取ったのも、台湾がらみである。数年前の3月、台湾の著名な詩人のお一人である詹冰さんのご自宅に論文のためにインタビューへ訪れたとき、持参したのがこの本だった。詹冰さんにまど・みちおの詩集『宇宙のうた』を買ってきて欲しいと頼まれたのである。それがこの詩集と出会うきっかけだった。まど・みちおさんの詩集『宇宙のうた』には好きな詩が幾つもあるが、中でも「太陽と地球」は小さな物語のようで初め読んだときから印象的だった。こんな詩である。
 
「太陽と地球」 まど・みちお

まだ 若かったころのころ
太陽は 気がつきました
わが子 地球について
ひとるだけ どうしても
知ることができないことが あるのを…

それは 地球の夜です
地球の夜に
どうぞ安らかな眠りがありますように
どうぞ幸せな夢があふれますように

祈りをこめて 太陽は
地球の そばに
月を つかわしました
地球の夜を 見まもらせるために
美しくやさしい 光をあたえて

今ではもう
若いとも いえませんが
太陽は 忘れたことがありません
地球の 寝顔が
どんなに 安らかであるかを
夜どおし 月に 聞くことを…

 思えば、まど・みちおさんが日本統治下の台湾で青春時代を過ごし、詩人としてのスタートを切ったと知っていたら、詹冰さんとの関わりなども聞けたのに残念である。もっとも、当時の私の目的は、台湾戦後初期の文学グループ・銀鈴会の元同人の一人としての詹冰さんへのインタビューだったし、それなりに精一杯だった。また、詹冰さんも手術後退院したばかりで、体調も優れない様子で早めに切り上げたので、ゆっくり雑談を交わす余裕などなかったかもしれないのだが。

 いまでも覚えているのは、体調が万全でないにも関わらず、わざわざ日本から来たから、といろいろと質問に答えてくださり、自ら著書にサインをしてお贈り下さったり、お気遣いいただいたことだ。無理をさせてしまったのではないかと気になっていたが、しばらくして逝去されたことを、後で知った。春になると、詹冰さんを思い出す。最後に詹冰さんが詩人として第一歩を踏み出した記念の詩「五月」を載せておく。

「五月」 詹氷

五月。
透明な血管の中を、
緑色の血球が泳いでいる。
五月はそんな生物(いきもの)だ。

五月は裸体(はだか)で歩む。
丘に、産毛で呼吸する。
野に、光で歌ふ。
そして、五月は眠らずに歩み続ける。

(一九四三年五月一日、於 東京)

 詹冰さんは日本文壇で認められた初めての台湾人詩人である。「五月」は詹冰さんが日本の明治薬専に留学しているときに『若草』に投稿し、堀口大学の選で掲載された最初の作品。評は「詹冰の[五月]は、素直で感覚が直截だ。そして言はんと欲するところを存分現はし得ている」というものだった。

読んだ本:まど・みちお詩集⑥『宇宙のうた』(かど創房、1975年初版・1997年9版)

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ハーブサシェ作り-香り袋2009年03月04日

ラベンダーのシャシェ(香り袋)
 サシェ=Sachetは、ハーブやドライハーブ、香木のチップなどで作る香り袋、匂い袋のことである。今日娘が読んでいた『二代目魔女のハーブティ――魔法の庭ものがたり(2)』に載っていたラベンダーのサシェを二人で作ってみた。

 作り方はとってもシンプル。適当な大きさの端切れを用意し、ハーブ(今回はラベンダー。もちろん他のハーブでも)をひとさじ布の真ん中にのせ、包み込んで輪ゴムで止め、リボンで飾るだけで、できあがり。子供でも簡単に出来て、娘もとってもご機嫌(^^)。

 あんびるやすこさんの「魔法の庭ものがたり」シリーズは、人間の女の子が魔女の家を相続してハーブの薬屋さんをはじめるお話である。可愛いイラストに加え、ハーブの知識や可愛い小物の作り方が紹介されるおしゃれな本だ。

 ラベンダーは精神安定効果があるとされるハーブ、家族全員分を作って、枕に入れてみた。今日はいい夢がみられるかも。

参考:あんびるやすこ『二代目魔女のハーブティ――魔法の庭ものがたり(2)』(ポプラ物語館、2007)

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『蟹工船』ブームに思う2009年03月07日

 『蟹工船』ブームが、現代の労働事情を象徴する現象として取り上げられ、度々報じられている。小林多喜二の『蟹工船』が雑誌『戦旗』に発表されたのは1929年。80年後のいまプロレタリア文学である『蟹工船』が若い世代に共感をもって読まれているのは、とても興味深い現象である。

 この『蟹工船』ブーム、きっかけとなったのは、毎日新聞に掲載された作家の高橋源一郎さんと雨宮処凛さんの格差社会をめぐる対談(1月9日付朝刊)であったらしい。でも、そのブームを支えたのは、白樺文学館であろう。白樺文学館は、2006年には中国における小林多喜二研究の振興・奨励するため河北大学と共催で論文コンテストを行い、日本では『マンガ蟹工船』を発行、2007年には小樽商科大学と共催で「『蟹工船』エッセーコンテスト」を行い、更にその結果をもとに『私たちはいかに蟹工船を読んだか―小林多喜二「蟹工船」エッセーコンテスト入賞作品集』を発行するなど、積極的な普及活動を続けている。時代を読み、次から次へと新しい手を打つ、白樺文学館の戦略(?)が当たったようにも見える。

 ところで、「『蟹工船』エッセーコンテスト」には、中国人2名も入賞している。実は、日本では長らく忘れられていた『蟹工船』、中国ではよく知られている日本の小説のひとつだ。小林多喜二『蟹工船』を中国で積極的に評価した人物に中国の著名な作家・夏衍がいる。『蟹工船』が出版されてまもなく、1930年1月に左翼連盟の機関紙『拓荒者』創刊号に「『蟹工船』について」(このとき夏衍は若泌という筆名を使った)という評論を書いて「蟹工船」を絶賛した。「蟹工船」は、1956年の初等中学の国語教科書『文学』にも収録されている。抗日色が強い初期の中国の教科書では特例的だったと思う。

 いまの「蟹工船」ブームはとかく現在の社会状況に重ねて情緒的に語られるが、かつての貧困と今の貧困ではレベルが違うような気もする。今後も冷静にこの現象を見まもっていきたい。

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土星の環が消える日2009年03月08日

 娘と友人の家族と一緒にプラネタリウムへ行った。今日の投影は世界天文年の話と皆既日食、そしてなんといっても土星の環の話が印象に残った。

 2009年は世界天文年にあたる。ガリレオ・ガリレイが初めて望遠鏡で夜空を観測したのは1609年、ちょうど400年前のことである。世界天文年の今年、とっても興味深いさまざまなイベントが、日本はもちろん、世界中で行われている。世界天文年のホームページを見たら、参加してみたいイベントがたくさんあった。特に興味を惹いたのが、小型望遠鏡で天体観察をしてガリレオの驚きを体験するという「君もガリレオ」プロジェクト、アジア地域に古くから伝わる星の伝説を収集するという「アジアの星」神話・伝説プロジェクト。

 ところで、今年は、歴史的な記念年であることに加え、珍しい天文ショーを楽しめる年にも当たっているらしい。まず、日本で46年ぶりに皆既日食がある。7月22日11時に注目だ。「7月ニャンニャンワンワンと覚えてください。」と学芸員さんがユーモアたっぷりに教えてくれて、娘もしっかり口ずさんで覚えていた。

 更に、初めて聞いて驚いたのが…8月11日と9月4日には土星の環が地球から見えなくなるという現象が起こるという。土星の環が大変薄い為、真横(水平)から見るとまるで輪が消えてしまったようになるのである。14-15年ごとに起こる珍しい現象だそうだ。眠っている天体望遠鏡を引っ張り出して、環が消えた土星を、美しい星空のもと、じっくり観察してみたいものだ。

 ここで土星の環について簡単に補足しておきたい。プラネタリウムの投影時の説明では、「土星の環の厚さは20センチ」と聞いたような気がしたのだが、後でWikipediaで確認したところ、違っていた。「20メートル」の聞き間違いだったようだ。環に関する部分を引用すると「土星の環は内側から順にD環、C環、B環、A環、F環、G環、E環があり、F環、G環はよじれた構造をしている。」「環の厚さはその大きさに比べて非常に薄く、特に内側ほど薄い。各環の中央部の厚さは不明であるが、端部ではC環が約5m、B環が5~20m、A環が10~30mである。」とある。

 ちなみに土星の環は1610年にガリレオ・ガリレイによって初めて観測された。そのときは、望遠鏡の性能が悪かった為に、環であることを確認できなかった。土星の環の謎は1655年にクリスティアーン・ホイヘンスがガリレオよりも数段優れた望遠鏡で観測して初めて分かったのである。その後、1675年にジョヴァンニ・カッシーニが土星の環は間をあけた複数の環で構成されていることを発見することになる。(修正日:2009年3月9日)

参考:「世界天文年2009」ホームページ http://www.astronomy2009.jp/

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服部宇之吉が中国の女子教育振興に関わった背景2009年03月10日

 清国末期の中国教育界に、日本の教育者が多大な影響を与えたものの一つとして、女子教育がある。日本が中国教育界に最も影響力があったとされる1902年からの約10年間は、中国の女子教育が制度的に整備されていく時期に重なる。

 ちょうどこの時期に、中国の京師大学堂に教習として派遣されていた服部宇之吉と同行した夫人・繁子は、中国に女子教育に関心を寄せ、女子教育振興のため積極的に活動を行っていた。このあたりの事情に詳しい本を探していたところ『東アジアの「良妻賢母論」』を見つけた。

 これを読んでびっくり。服部宇之吉や夫人・繁子が中国の女子教育振興の活動を行ったのは下田歌子の構想を踏まえたものであったというのである。下田歌子と師弟関係にあった繁子のみならず、服部宇之吉自身も、下田の意向に添って、西太后に女子教育の必要性を説く役割を積極的に果たした。そして西太后を説得する為に、教会学校を除けば実質的に北京地域初の近代的女子学校となる予教女学堂を設立したというのだ。

 下田歌子が中国進出を目指した理由は、著者・陳[女正]湲さんによれば、「日本の女子教育を通して[良妻賢母主義]という理念を堅持してきた下田歌子は、イギリスで日清戦争のニュースに接しては、[兄弟の国たる日清]の開戦に危機感を感じるなど、かねてから東アジアが連帯する必要性を認識していた。」ところにあるらしい。だから「服部夫妻の中国赴任が決定した際には、教育実務者と高位官僚夫人として中国に滞在することになる二人が、中国進出に多くの契機を提供してくれることと期待していた。」のである。

 果たして服部夫妻は西太后説得に成功した。「清国の女子教育は一切を下田の指導にゆだねること、自分の宮殿を女学校として提供し、またその資金もすべて負担するから、ぜひ渡清して力を貸して貰いたい」との色よい返事まで得られた。しかし結果的には服部が画策した下田歌子の西太后への謁見は実現しなかった。1908年に西太后が急逝して水泡に帰したのであった。
 
参考:陳[女正]湲『東アジアの「良妻賢母論」』(勁草書房、2006)

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中国清末、北京に設立された近代的お嬢様学校・予教女学堂2009年03月11日

 下田歌子の構想に基づいて、服部宇之吉と夫人・繁子が設立と初期の運営に深く関わった予教女学堂は、数カ所の教会学校(124頁の註52によれば、同治年間開校の慕貞書院、1875年開校の貝満書院が確認できるそうだ)を除けば、北京地区における最初の近代的女学校であった。

 陳[女正]湲『東アジアの「良妻賢母論」』には、予教女学堂について詳しく述べられている。日本の教育者が中国・清末の教育にどのような形で関わったかを知るのにちょうどいい例だと思うので、設立の経緯を紹介しておこう。

 元来、予教女学堂の設立は、西太后に女子教育の重要性を説くために計画されたものであったらしい。服部が日本好きの恭親王に女子教育の必要を説くと「自分が手を出して失敗すると物笑ひになるが、貴方方外国人が試みて失敗したつても、一向差し障りはないからやりなさい」と言われたという。このような恭親王とのやりとりもあって、服部は外国人という気楽な身分が、先駆的な役割を務めるにむしろ適切であると判断し、学校設立準備に着手したようだ。

 予教女学堂は1905年9月に北京の東単牌二条胡同の校舎で開校した。予教女学堂は、計画段階の報道(順天時報、光緒31年7月20日)では中国人で商人であったという沈釣夫妻と服部夫妻の4名の名前が共同設立者として同格で並べられていたが、実際に開校されたときは、「経営者」として沈釣夫妻が、「助力者」として服部夫妻が記されている。表面的には中国人自らが経営する学校を標榜して創立されたが、これは保守勢力からの反対意見から距離をとるためであったようだ。現実には同校は沈釣夫妻と服部夫妻の共同経営であったと見られる。設立に当たっての資金は沈釣の母王氏の寄付によって全額を賄い、学校の財政や事務的運営は沈釣夫妻が、学則の起草、教師の認容、教育課程や授業内容を決定する学務関連は服部夫妻が担当していた。開学当初、服部繁子は自ら教鞭を執り、教科書も執筆している。

 ところで、予教女学堂は「中等以上の女子に対して、普通教育および高等普通教育を実施し、賢母良婦を養成することを目的に」していた。ここでいう「中等以上の女子」とは、いわば上流家庭出身の女性を指す。在学していた学生も、満州人皇族を含め、ほとんどが北京に官職をもっている上流家庭の出身であった。(125頁註62)服部夫妻の念頭にあったのは、かつて下田が学監を務めた「華族女学校」のようなものであったらしい。
 
参考:陳[女正]湲『東アジアの「良妻賢母論」』(勁草書房、2006)

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中国・清末、予教女学堂の初年度の教育内容とその後2009年03月12日

 先に述べた予教女学堂について、陳[女正]湲『東アジアの「良妻賢母論」』から教育内容を補足しておこう。

 同校は「尋常科」「高等科」の二つの課程を設ける計画であったが、開校当初は「尋常科」のみが設置された。また、同校の学則によれば、「尋常科」「高等科」の修業年限はいずれも4年であり、科目としては、尋常科に「修身」「国語」「算術」「歴史」「地理」「図書」「声歌」「裁縫および手芸」「遊戯および体操」を、高等科に「修身」「国文」「算術」「歴史」「格致」「家事」「図画」「声歌」「裁縫および手芸」「体操及び遊芸」「外国文」を設けていた。

 もっとも、実際のところ「国語」という科目のもとでは、中国語と日本語の両方が教えられ、また学則では「英文、フランス文、東文(日本語)および漢文を担当する女性教師を招聘するが、みな中国語に精通するものにする」と定めていたが、中国語以外の授業ではすべて日本語を用いていたという記録があるそうである。また、開校一周年の記念式典(「補記予教女学堂開紀年会事」『順天時報』、光緒32年10月17日、19日による)では授業成果発表会も行われ、学生達が体操や唱歌、日本式にお客をもてなす作法が実演された。このような学則の内容や開校直後の状況、開校一周年の記念式典の様子から判断すれば、予教女学堂の教育内容は、服部の思惑どおり日本の影響下にあったと、著者は述べる。

 ところが、一年後、事態は服部の思惑とは異なる方向に進展する。共同経営者であった沈釣は、開校一周年の式典の演説で(正確には沈釣の名義で代読)「賢母良妻」養成の方針は維持しつつも、当初学則にも盛り込まれた「高等科」ではなく「職業科」の附設を宣言、同校の教育方針が職業教育へと転換されることを示唆したのである。

 著者によれば、開校一周年の式典を最後に予教女学堂に関連する新聞報道から服部の名前が登場することはなくなったという。恐らく、服部はこのあたりで手を引いたと思われる。何が原因だったのかは分からない。資金を提供した沈釣の本来の目的は職業教育にあったのかもしれないし、服部としても本務とは別の仕事を抱えるのが重荷だったのかもしれない。少なくとも服部が華族学校のようなものを意図していたとしたら、沈釣が述べる職業教育とは相容れなかったに違いない。経営方針の違いは明らかだろう。

 もっとも服部は、この時すでに、当初の目的である西太后説得に成功していたから、手の引き時だと考えたのかもしれない。当時は西太后自らによって女子学校が設立されるという報道が巷に広がっていた。服部は、西太后より「清国の女子教育は一切を下田の指導にゆだねること、自分の宮殿を女学校として提供し、またその資金もすべて負担するから、ぜひ渡清して力を貸して貰いたい」との色よい返事まで得ていたという。著者は「中国女子教育事業に対する服部の青写真に照らしてみる限り、より肝心なことは、下田の中国招聘という次の段階を実践させることだったのである」と述べている。結果的には1908年11月に西太后が急逝したために、下田の中国招聘は実現しなかった。そして、服部自身も1909年1月に帰国して、東大に復帰、その後は女子教育に関わることはなかったのである。

 その後、予教女学堂は1907年に「尋常科」を閉鎖、「速成科」と「実業科」に改められ、さらに「織業科」を新設するなど、純粋な教育機関から、「女工廠」へと変質、経済的にも立ちゆかなくなり、カラチン王府から校舎として借用していた敷地の返還を求められたのを機に閉鎖に至ったという。
 
参考:陳[女正]湲『東アジアの「良妻賢母論」』(勁草書房、2006)

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