帝国と学校教育について考える2009年11月14日

 引き続き、塩野七生さんの『ローマ人の物語』を読んでいるのだが、「帝国」への理解を深めるには、ローマを知ることがとても有意義だと思えてきた。娘が入院していた期間読んでいた部分は、王政から共和制へと移行したところで、いま読んでいるところは共和制から帝政へと移行するところである。しばらく、近代の帝国主義、大日本帝国、大英帝国と学校教育の問題を考えていたけれど、帝国というものの本質が分からないままでいたような気がする。ヨーロッパ史への理解が浅かったのをしみじみと感じている。

歴史ヒストリア「フリーをなめたらいかんぜよ!~坂本龍馬と海援隊 夢と挑戦の日々~」を見る2009年11月13日

 娘が昨日から登校し始めた。今日も元気に登校した。一安心である。私もようやく自分の時間がとれるようになった。

 先日に引き続き歴史ヒストリアを見た。今回のサブタイトルは「フリーをなめたらいかんぜよ!~坂本龍馬と海援隊 夢と挑戦の日々~」である。全体として、海援隊の誕生から解散までを時系列に追っていき、最後に龍馬死後の海援隊と解散後の隊員の行く末を紹介して終わったので、大変分かりやすかった。坂本龍馬という魅力ある人物に率いられた海援隊が、手段を選ばず利益を得ようとする「射利」という新しい価値観で、幕末の混乱期のビジネスチャンスをつかみ、世界へと翼を広げようとした姿を、上手く描いている。

 特に坂本龍馬が大藩・紀州藩との事故後交渉で発揮した交渉力、危機に追い込まれた際にメディア戦略を駆使して乗り切る機転の素晴らしさ、そして世界を視野にいれた商売を目指す野心には舌を巻いた。一方、「射利」を目指すだけあって「いろは丸」事件で載せてもいなかった(沈没したいろは丸の調査で判明している)金四万両あまりもあわせ、8万両もの賠償も請求するなど、詐欺行為ともいえる危険な橋を渡っていることも知った。船も沈められ、御三家の威光で追い詰められた意趣返しの面もあったのかもしれないが、もし紀州藩に察知されたら、それこそ、戦争になりかねない。こういう不正を龍馬がやっていたと知って、なんとも残念である。

 番組中、興味深い史料が紹介されていた。海援隊が出版したという英語の字書『和英通韻以呂波便覧』(慶応4年)である。隊員達の教科書として編まれたものであろうか。万延1年(1860)丸屋徳造の撰によって刊行された 『商貼外話通韻便覧』(一名 『和英接言』)を再刊したもの、であるらしい。この種の本は中国清末の教科書にも似ていて面白い。

 今回の番組は、従来とはひと味違う龍馬を知ることができて、とても面白かった。再放送(11/18)もあるようなので、ご興味を持った方はぜひどうぞ。

見た番組:歴史ヒストリア「フリーをなめたらいかんぜよ!~坂本龍馬と海援隊 夢と挑戦の日々~」 http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/23.html

参考:http://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/data23.htm (京都外国語大学図書館)
http://www.tosho-bunko.jp/story/page1_1.php (東書文庫)

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外山滋比古『「読み」の整理学』を読む2009年11月11日

外山滋比古『「読み」の整理学』(ちくま文庫、2007)
 外山滋比古『「読み」の整理学』を読んだ。先日書店でちょっと立ち読みして気になったので買ってみた。もとは1981年に出版された『読書の方法』という本であったのを一部書き改めたものらしい。

 外山氏は、既知の読みをアルファー読み、未知の読みをベーター読みと名付け、ベーター読みの難しさ及び重要性を述べ、ベーター読みへの移行法を彼なりの視点で模索している。

 特に戦後の学校教育においては、アルファー読みからベーター読みへの移行が上手くいっていないという。そして新聞のテレビ欄と社会欄、スポーツ欄しか見ようとしない、分かっていることしか読めていないアルファー読みしか出来ない読者が多く、アルファー読みのための軽い読み物が氾濫していることを嘆く。そして新聞の社説欄や書評欄を読んで理解できるベーター読みへの移行の方法をいくつか提案している。

 その中の一つで面白かったのは、古典の素読といういわば過去の教育法の再評価である。素読の対象は複数回の読みや暗唱に耐えうるものでなくてはならないらしい。外山氏の古典素読の評価は、学習者側の弊害や負担についてはあまり考慮されていないように見えるのが気になるところだが、その評価そのものは間違っていないように思う。

 『「読み」の整理学』を読みながら、私自身はベーター読みが出来ているか考えてしまった。

読んだ本:外山滋比古『「読み」の整理学』(ちくま文庫、2007)

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カエサル『ガリア戦記』を読む2009年11月09日

カエサル著・國原吉之助訳『ガリア戦記』(講談社学術文庫)
 塩野七生さんの書くカエサルの物語があまりに魅惑的であったので、カエサルが自ら執筆した『ガリア戦記』も合わせて読むことにした。岩波文庫他にもあるのだが、今回講談社学術文庫を選んだのは、アマゾンの書評を見て、こちらの訳がよいと評判がよかったからである。

 塩野七生さんの著述を先に読んでいたおかげで、『ガリア戦記』を非常に面白く読めた。カエサルが独創的な戦略とたぐいまれなる指導力によって、ローマを勝利に導いた経緯、当時のローマ人から見たガリアの風俗習慣等、キリスト教化される前のヨーロッパが見えて面白かった。カエサルが自ら三人称で書いた『ガリア戦記』は、客観的で直截、そして躍動感があり、より胸に迫ってくる。驚くほど読みやすい。訳の巧さもあるのだろうが、原文が素晴らしいのだろう。さすがラテン散文の傑作とされているだけのことはある。

 カエサルが、殺戮、略奪など、敵に対してはかなり残酷な制裁を行っていることも包み隠さず記述されている。『ガリア戦記』は数え切れないほどのガリア人が運命を翻弄され、甚大な被害を受け、残虐な制裁を経てローマ化された、その記録という側面もある。

 解説を見ると、『ガリア戦記』でカエサルは大方真実を語っているという。彼の部下達により、ガリア戦の詳細はすでに故郷に知られていたのであり、部下達も読むのだから。但し、カエサルが書かなかった部分への非難はあるらしい。つまり…カエサルが戦利品で莫大な富を蓄えたことなどである。実際カエサルはガリア戦で蓄えた富で天文学的といわれた借金を払っているのだ。もちろん、本人が書くのだから、自分に不利な部分を書かないことくらいは許されるだろう。それにこの本は執政官に立候補するために、民衆の人気取りを念頭に出版されたという面もある。

 ただし、気になるのは、カエサルがガリア戦を始めた理由である。どうも納得がいく内容が見つからない。解説にも「なぜガリアで戦争を始めたかの説明が、どうもわれわれを十分に満足させないのは、真の原因であった彼自身の野心について、ほおかぶりしているからだろう」とある。

 次は『ユリウス・カエサル ルビコン以後 ローマ人の物語』、カエサルが国賊と呼ばれることを覚悟してルビコン川を渡るところからだ。結果は分かっているのに、なぜかとてもワクワクしている。(11月10日改訂

読んだ本:カエサル著・國原吉之助訳『ガリア戦記』(講談社学術文庫)

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塩野七生『ユリウス・カエサル ルビコン以前 ローマ人の物語』を読む2009年11月09日

塩野七生『ユリウス・カエサル ルビコン以前 ローマ人の物語』
 ずいぶん長いこと、切れ切れながら、塩野七生さんのローマ人の物語を読んでいる。現在、ユリウス・カエサルがルビコンを渡る前、ポンペイウスとの戦い前夜までの部分をやっと読み終えたところである。

 カエサルが40歳にして立った英雄である、というのを初めて知った。若い頃はおしゃれで、読書家で、話し上手で、人気者ではあっても、際だった活躍もなく、同輩と比べて目立った出世をしたわけでもなかったらしい。むしろ天文学的な借金王として、そして元老院議員の三分の一の妻を寝取ったというほどの希代の女たらしとして有名だったという。

 その同じ人物が40歳から、元老院を敵に回し民衆を味方につけ、ローマ一の大富豪クラッススと英雄ポンペイウスに三頭政治を持ちかけ、執政官の地位を勝ち取り、有能な政治家ぶりを発揮するようになる。その後は、聴衆を魅了してやまない弁論家、ガリアで数限りない戦いを指揮する中では、創意工夫をこらした作戦で次々と困難な戦いを勝利に導き部下を心服させる有能な司令官、と多方面において天才を発揮する。しかも元老院への報告としてカエサル自らによって書かれた『ガリア戦記』は当時のローマ大衆を熱狂させたベストセラーとなり、いまでもラテン散文の傑作とされている。そして、なにより、カエサルという一人の人間が、西ヨーロッパにあたる全ガリアを制圧してローマ化するという壮大な構想を持ったことで、ヨーロッパの原型がある意味作られた意義の大きさを、塩野七生さんの著述からは感じ取れる。 (11月10日改訂)

読んだ本:塩野七生『ユリウス・カエサル ルビコン以前 ローマ人の物語』(上・中・下、新潮文庫)

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歴史秘話ヒストリア「一件落着!?桜吹雪伝説~遠山の金さん きまじめ官僚の正体」を見る2009年11月07日

 最近は見逃し番組や以前の人気番組をインターネットで見ることが出来る。便利な世の中になったものだ。昨晩、娘が休んだ後に、ふとそれを思い出し、「NHKオンデマンド」で面白そうな番組を選んで見た。

 見た番組は「歴史秘話ヒストリア」、「その時歴史は動いた」の後継で一度見てみたいと思っていた番組である。しかも、今回のサブタイトルが「一件落着!?桜吹雪伝説~遠山の金さん きまじめ官僚の正体」ときている。タイトルが思わせぶりではないか。遠山の金さんの入れ墨が本物だったのか、官僚としての金さんはどんな仕事をしたのか、気になるところだ。

 全体を見た感想として、「遠山の金さん」を通して、江戸時代の天保時期を描き出そうとした意図は大方成功していた。金さんこと遠山景元が、水野忠邦の天保の改革において、庶民の視点で意見した事実など、時代劇とは異なりつつも、庶民の味方であった一面を知ることができたのも収穫であった。特に史料面で「遠山の金さん」と庶民に呼ばれていたことを示すものや、金さんの4男にあたる人物の写真など、遠山の金さんの実像を垣間見ることが出来る貴重な史料を画面で見ることができたのは嬉しかった。

 但し、結局のところ、視聴者が一番知りたかった部分と思われる「入れ墨」についてはいろいろ検証したわりには分からず、「お裁き」の実際に至っては「記録がないのでわかりません」と不明のままであっさり終わるところが拍子抜けであった。これこそ視聴者が、遠山の金さんファンが一番知りたいところなのに…。でも、取り上げているテーマは興味深く、多くの史料にもあたり、専門家の話も聞いており、構成次第でもっと良い番組になりそうだ。また面白いテーマがあったら、見てみることにしよう。ささやかな楽しみが増えて嬉しい。

  見た番組:「歴史秘話ヒストリア」「一件落着!?桜吹雪伝説~遠山の金さん きまじめ官僚の正体」(NHK 10月28日放送)

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司馬遼太郎と戦前教育――松本健一『司馬遼太郎を読む』を読む2009年11月04日

松本健一『司馬遼太郎を読む』(新潮文庫、2009)
 松本健一『司馬遼太郎を読む』を読みはじめて、いきなり興味深い話題に行き当たった。蒙古襲来から日本を救った「神風」は昭和9年2月改訂の『尋常小学国史』で「大風」から「神風」となり、天皇は「現人神」扱いされるようになったという。小学国史は小学校5年生からの歴史教科書、司馬遼太郎は昭和9年に小学校五年生だから、「神がかり」の時代に入っていく教科書の第一期生だったということになる。松本氏はまた、『菜の花の沖』の主人公・高田屋嘉平について「司馬さんはどうしてこのような人物を書いたのだろう?」と調べている。その結果、松本氏が見つけたのは、昭和9年頃の修身の教科書だった。「司馬さんが小学校の高学年のころ、修身の教科書の中に、[勇気]について書かれた物語りがあった。これが高田屋嘉平の物語りなのです。」と述べている。

 司馬遼太郎といえば、以前『世に棲む日日』の「文庫版あとがき」で「私は日本の満州侵略のころはまだ飴玉をしゃぶる年頃だったが、そのころすでに松陰という名前を学校できかされた。松陰は明治国家をつくった長州系の大官たちが伊藤博文は意識的に無関心だったが――国家思想の思想的装飾としてかれの名を使って以来、ひどく荘厳で重苦しい存在になった。私は学校ぎらいの子供だったから松陰という名が毛虫のようなイメージできらいだった」と語るなど、戦前教育に対しては、嫌悪感のようなものを持っていたという印象が私にはあった。でも、強い嫌悪感は、一方で、強い影響を受けた証でもあるのだろう。この世代の方に共通の心の傷のようなものがあるような気もする。

 ところで、松本氏の論じる司馬遼太郎はなかなか厳しいのだけれど、『司馬遼太郎を読む』は、楽しく読める本である。松本氏の鋭い論評のなかの心が通った温かい部分を取り出したような本のような気がする。松本氏の司馬遼太郎との交流や見方、そのあたりも垣間見えて、楽しい。

読んだ本:松本健一『司馬遼太郎を読む』(新潮文庫、2009)

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塩野七生『ローマ人の物語1 ローマは一日にして成らず』を読む2009年09月29日

 ささやかな隙間の時間を使って、最近塩野七生さんの本を読んでいる。『イタリア遺聞』に続き、昨日やっと『ローマ人の物語1 ローマは一日にして成らず』を読み終わった。一気に読めばあっという間なのに、切れ切れに読むから、読み直したりして、時間も余計にかかる。それでも面白くてやめられない。

 『ローマは一日にして成らず』が扱っているのはローマ誕生からイタリア半島統一までの五百年間である。特に興味深かったのは、ローマ人とギリシア人、エトルリア人という三つの民族の特性とそれぞれの国がたどった歴史を、塩野七生さんが独自の視点で比較し、ローマだけが大を成した理由を各方面から論じているところだ。

 塩野七生さんによれば、三つの民族のなかで、ローマだけは排他的ではなく、他者を受け入れ、共に大きくなる懐を持っていたらしい。例えば、ローマは他所から大移動してきた民族をローマ市民として迎え、長には元老院の議席が与える、という形で、他者を受け入れてきたといい、奴隷制度もアテネやスパルタのように固定ではなく、金や雇い主の温情で解放されることでその子供の代からはローマ市民になることができたという。更に戦争で敗北した国にも自治を認めるのが通例で税金を課すこともなく、ただ、軍隊を出動させる義務を課しただけという、当時にあっては極めて寛容な政策を採っていた。ローマは敗者をも同化しながら、大を成していったのである。

 ローマはこの五百年の間に、幾度にも渡る危機、惨敗、屈辱を経験したが、そのたびに真摯に問題と向き合い、システムを改善し一致団結して乗り越え、強くなっていった。ローマは常にそれをなし得る人材を有していたのである。ローマの包容力が生んだ人材の力こそが成長を支えたのだと感じた。

読んだ本:塩野七生『ローマ人の物語1 ローマは一日にして成らず』


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中国で日食予報が重視された理由――『増補改訂 中国の天文暦法』を読む32009年09月20日

 古代から現代に至るまで、日蝕は世界中の人々に関心をもたれてきた。最も長期間にわたって天文観測が続けられ、日蝕が記録されたのは中国である。

 甲骨文の記事を除いた最も旧いものは、『尚書』という書物に載っている紀元前1948年の日蝕であるらしい。以来、1000回を超える皆既日蝕・金環日蝕・部分日蝕の記録が、歴代王朝の正史の「歴志」「律歴志」 という巻に記述されてきた。中国の天体観測の記録は質、量共に群を抜いている。

 これほど長期間にわたる記録が残されたのは、世界的に見て希有なことであるらしい。中国以外では、権力者や王朝の交代があると、天体観測も中断するのが常だった。例えばイスラム天文学は、一時、中国、ヨーロッパを凌駕したが、国立、私立天文台を含め、観測が継続されたのは長くても数十年単位でしかない。しかしながら、中国では古くから天文観測や時間の管理を行い、暦日の吉凶や国家の安危を占う機関(名称は時代によって異なる「大史監」「太史院」「欽天監」等。国立天文台に相当する。)が設けられ、王朝が交代しても、支配者階級の民族が替わっても、独特の思想に基づいて天文学と暦学は国学として重視され続けた。

 中でも、日蝕は、自然災害の予兆、クーデター等による政権簒奪の予兆と考えられたため、日蝕を予測することが重視され、日蝕のときは、皇帝は身を慎み、国家行事などを行わないよう、備える必要があった。皇帝に仕える天文学者にとって、日蝕予報は重要な仕事であった。

読んでいる本:藪内清『中国の天文暦法』(平凡社、1990) 

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伝統と新知識――『増補改訂 中国の天文暦法』を読む22009年09月10日

 藪内清『増補改訂 中国の天文暦法』を読んだ。この本は、中国の暦の歴史を網羅している上に、各暦の計算法、そして他文化の関わりについて詳しいのが特徴だ。私にとっては、暦法の古代・中世・近代の東西文化交流の実情を知ることができたのが、大収穫だった。

 例えば、唐という時代は東西交流が活発で、ペルシア、インドの新知識が入ってきた。インドの暦法によった暦(麟徳暦、西暦666-728)が施行された時期もあり、暦を司る役所のトップである太史令がインドの天文学者だった時期もあるという。更に、玄宗帝のときにはインド天文書「九執暦」も勅命によって翻訳されている。このインド天文書には三角関数の正弦値にあたる表があり、天文学的にはギリシャ以来の法を伝えたものであったらしい。残念ながら唐代の中国天文学者は関心を示さなかったようである。

 元の世祖の時代にも、ペルシアを支配したイルハーン国を通じてイスラム天文学が体系的に輸入されたことがある。イスラムの天文学者を首都に駐在させ、イスラム暦法の方法で暦計算をする「回回欽天監」が別個に設置し、イスラム天文書も翻訳された。改暦もしたが長続きせず、結局、元代から明代にかけては、中国伝統暦を引き継いだ授時暦(明代は大統暦と改称)を中心に、イスラム系の回回暦はその不足を補う形で、運用された。

 考えてみれば、ルネサンス以前、イスラム天文学はウマル・ハイヤーム等優れた天文学者を輩出、世界でトップレベルであった。コペルニクスの研究にもイスラム天文学の影響が少なくないといわれている。しかし中国では、伝統的中国天文学を奉ずる中国学者とイスラム学者の間には交流が少なく、授時暦編纂時に郭守敬が天文儀器の改良にイスラム天文学を取り入れた程度の影響に留まったようだ。そのためにイスラム天文学の影響はあまり大きくなかったらしい。

 変化は明代末期、17世紀初頭に訪れる。イエズス会宣教師により、ヨーロッパ天文学がもたらされ、やがてヨーロッパ天文学のエンサイクロペディア『崇禎暦書』編纂に結びつくわけだが、このときも、保守派の妨害はすごかった。ただ、このときは明朝から清朝への王朝交代の時期にあたり、『崇禎暦書』編纂にあたったアダム・シャールの努力のおかげで『時憲暦』という名称で施行され、ついに清一代の暦法となる。1911年にグレゴリウス暦になるが、今も民間では時憲暦の置閏法に基づいた暦が「農暦」として使用されている。

 インド天文学も、イスラム天文学も、一時的とはいえ、国暦になったほど認められた時期があり、翻訳書もあった。新しい知識が良いものだと分かっているのに、中国天文学者は、なぜ新知識に学んで中国暦の改良に用いなかったのだろう。ヨーロッパ天文学がイスラムに受けた恩恵を考えると、中国の天文学者は伝統に固執するあまり、新しい知識を取り入れる大きなチャンスを幾度も逃してきたように思える。そのような姿勢は17世紀に輸入されたヨーロッパ天文学の影響が、非常に限定された理由ともなった。

読んでいる本:藪内清『中国の天文暦法』(平凡社、1990) 

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