上海版歴史教科書「扼殺」の経緯--佐藤公彦『上海版歴史教科書の「扼殺」-中国のイデオロギー的言論統制・抑圧』を読む1 ― 2008年10月06日

佐藤公彦『上海版歴史教科書の「扼殺」』
 先月、佐藤公彦『上海版歴史教科書の「扼殺」-中国のイデオロギー的言論統制・抑圧』が出版された。氷点事件以来、中国国内の歴史教科書問題に関心が集まる中で、センセーショナルなタイトルにドキッとさせられた。本についている赤い帯には「学術の名の政治批判に警戒せよ 【禁書】ついに教科書に及ぶ 啓蒙的教科書、謎の【突然死】」とある。著者の佐藤公彦氏は東京外大の教授で、氷点事件についても著書を出している。

 さて、「扼殺」とは「絞め殺す」こと。物騒な言葉である。上海版歴史教科書と「扼殺」がどうして結びついたのだろう。本書に沿って、まずは事件の経過を簡単に追ってみる。

 話は2006年9月1日「ニューヨークタイムズ」に“Where's Mao? Chinese Revise History Books”(マオはどこに?中国の改訂版歴史教科書)という記事が掲載されたことに遡る。アメリカの新聞がこの記事を転載し、それを中国の週刊紙『青年参考』が要約して載せたことで、中国国内において広く知られるようになったという。賛成派と反対派のネット上の議論が加熱したが、それらの殆どは現物の教科書をきちんと見ないで書いたものであったらしい。

 その後、9月28日には『南方週末』に上海版歴史教科書の主編・蘇智良(上海大学教授)のインタビュー記事「ゲイツが登場、毛沢東も未だいる」が掲載された。更に蘇智良と上海市教育委員会の役人は『南方週末』の記事を携え北京の教育部に出向いて、新聞報道は事実と違うことを説明し、理解を求めたところ、上手くいき、ある副部長はそれを了承、賞賛したという。

 ところが、事態は急展開する。教育部高等学校社会科学発展中心というところが、北京の高名な歴史学者を集めて上海版教科書についての座談会を催し、その内容を、2006年10月16日に『社会科学状況反映』という簡報に「著名な歴史家、上海版高校中学歴史教科書を評す」という表題の文章で一度に6期の簡報を印刷して発行発表した。内容は著名な北京の歴史学者7名がそれぞれ上海版教科書に対する批判的見解を表明したもので大きな影響力のあるものであった。更に彼等は「中国史学界」名で何人かの歴史家を招いて座談会を招集し、その会議の簡報を発行して、これを「上書」して中央の党と政府の関係上級機関に対して上海版教科書を取り消すよう運動した。

 中国国内の動きに反応して2007年4月26日、蘇智良と上海市教育委員会の役人が再び北京の教育部に出向き、北京の専門家を招いて開かれた「上海版高級中学歴史教科書研討会」に出席した。上海に戻ると蘇智良らはこの会議の紀要を編写組メンバーに配布し、一週間をかけて具体的な修正内容を話し合い、改訂のための作業に入った。

 ところが、5月中旬になって、突然、上海教育委員会は、歴史教科書は新しくやる、新規まき直しだ、と「決定」し、翌週には新歴史カリキュラム恭順のための専門家組と編写組を成立させた。主編の蘇智良以外のメンバーはこれにはいらなかったし、蘇智良も新しい方針に沿った教科書を二ヶ月で出すなんてできない、と主編を辞職した。

 六月、上海市教育委員会は華東師範大学に新しい臨時版歴史教科書の編纂を依頼、主編は同大学歴史系主任の余健民がつとめて、2007年9月3日に出版された。新入生の手元に渡ったのは二ヶ月で作った66頁の薄い教科書であった。

 以上が上海版歴史教科書「扼殺」事件の概要である。本書で佐藤氏は「ニューヨークタイムズ」の記事登場から蘇智良主編の上海版歴史教科書が受けた批判の内容、そして新しい教科書の取って代わられるまでの経緯を詳細に追っている。また、上海版歴史教科書が登場し得た経緯についても紹介している。更に特に北京の著名歴史家の批判についてはその妥当性についても、蘇智良主編の上海版歴史教科書を実際に確認しながらコメントしており、更に蘇智良の反論も載せている。現時点で上海版歴史教科書「扼殺」事件を知るのに、最も多くの情報を与えてくれる本であることは間違いない。

 ちなみに本書のタイトルの一部にもなっている「扼殺」という言葉、佐藤氏のオリジナルではない。2007年9月17日『南方都市報』に載った社会科学院哲学研究所の徐友漁の「何のために中学の歴史教科書を扼殺するのか」という文章から来ているようだ。

 この本を読んで、いろいろ考えさせられた。教科書の現物は手元にないのが残念だが、きっかけとなった「ニューヨークタイムズ」の記事、蘇智良氏の反論や主な関連の記事と北京の著名な歴史家の批判(上書)にも目を通してみたいものだ。続きはまた明日(^^)  (修正2008年10月7日)

参考:佐藤公彦『上海版歴史教科書の「扼殺」』(日本僑報社、2008年9月9日)

↓応援クリックお願いします(^^)
 
にほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

中国・清末、清政府が設立した学部・編訳図書局による教科書編纂――中国小学教科書編纂事情(2) ― 2008年10月05日

 清政府による本格的な教科書編纂は、学部・編訳図書局に始まると言って良いだろう。学部の設立は1905年10月12日に宝煕(官職は山西学政)が、学部設立を提案した奏文が批准されたことによるものらしい。学部が設立されると、すぐに編訳図書局設立の準備を開始、1906年6月に編訳図書局が設置され、袁嘉谷(官職は学部行走)を首長とする編集人員が組織された。人材も広く集められたようである。日本留学から帰国した王国維(後に精華大学教授、亀甲獣骨文字の研究で名高い)もこのとき学部図書館編訳・名詞館協修に任命されている。

 学部・編訳図書局の章程によれば、最も編集が急がれたのが初等小学向け、次が高等小学向けの教科書であった。また教科書編集に当たっては「忠君、尊孔、尚公、尚武、尚実」を守るべきであるとされた。他にも、一種類の教科書につき、教師向けの教授書も編集するよう定められた。学部・編訳図書局は、日本の国定教科書のように全国の初等教育の普及し統一することを念頭に、価格を安く抑え、複製も許可していたという。

 学部・編訳図書局の教科書は当時概して評判が良くなかった。児童心理に即した内容でないことや、管理や印刷が悪い等々で南方の新聞の攻撃を受けたこともあったそうだ。

 なお、学部は教科書の編纂を行う他に、教科書の検定(中国語では審定)の役割も担う役所であった。1904年公布の「奏定学堂章程」に依り、全ての教科の教科書、指導書、壁に掛ける地図等の教材まで検定を受けることになっていた。しかも、初等小学は5年、高等小学は4年の通用期間の後は、再検定を受ける決まりであった。合格の為には、内容の他、紙質がしっかりしていること、字形が分かりやすいこと、値段が安いこと等の要件も満たしていなければならなかった。

 清末の学制と学部・編訳図書局の教科書の実物については、過去の記事(学制=2月15日、4月1日 教科書の実物=7月3日、9月10日)で紹介している。そちらを併せて見ていただけると当時の雰囲気が分かると思う。

参考:呉洪成『中国小学教育史』(山西教育出版社、2006)

↓応援クリックお願いします(^^)
  にほんブログ村 教育ブログ 国語科教育へ

中国・清末、清政府が設立した京師大学堂編書処による教科書編纂――中国小学教科書編纂事情(1) ― 2008年10月04日

 清末は、新しい教育体制への移行期である。この時期の教科書編纂事情は大体以下のようであった。

 清末、「新式学堂」の設立を奨励した新政府は新式学堂向けの教科書が足りないことに気づき、慌てて教科書編纂の専門機関である編訳局を設立し、組織的に教科書編纂に当たらせることとした。

 そこで、1901年12月、京師大学堂(北京大学の前身)に編訳書局が附設された(内部で編書処と訳局に分かれていた)。京師大学堂編書処は「普通学課本」の編纂を行うものとされた。翌年の1902年になると、蒙学小学と尋常小学向け、及び高等小学と中学向けの二種類の教科書編纂に着手する。編纂が求められた教科は「修身」「倫理」「字課」「作文」「経学」「詞章」「中外史学」「中外輿地」「算学」「名学」「理財」「博物」「物理」「化学」「地質」「礦産」等で、自然科学を主とする35科目であった。京師大学堂編書処と訳書局はいわば臨時の教科書編纂所であって、当面の教科書不足を補うため、外国で通用している本を翻訳し、そこから教科書に載せる内容を編集するのが主な仕事であったようだ。

 京師大学堂編書処は、教科書編纂について、相当の大事業であり作業期間が必要と見込んだ。また、これだけの仕事を一局で担えるものではない、として、妙案をひねり出した。

 それはこのようなものであった。まず内外の専門家を招集して、「学堂章程」の課程計画の規定に基づき、目次を編集した。次に目次を学務大臣が審査、その後、「各省の文士が、政府の発行した目次に基づいて教科書を編纂すれば、学務大臣の審査を経て、使用することとする」と檄を飛ばした。つまり、地方、民間での教科書編纂を奨励したのである。いわば急場しのぎの教科書検定制であった。

 この京師大学堂編書処と訳局は、1904年、その仕事を終え、かわって後は新たに設立された学部編訳図書局が教科書編纂の任を負うこととなる。 (2008年10月5日修正)

参考:呉洪成『中国小学教育史』(山西教育出版社、2006、中国語)

↓応援クリックお願いします(^^)
  にほんブログ村 教育ブログ 国語科教育へ

中国・中華民国時代、商務印書館附属・尚公学校で行われた教学上の実験 ― 2008年09月26日

 尚公学校は、商務印書館の出版する教科書、教育書籍や教育器材の生きた実験場であった、と先に書いた。使用されていた教科書や課外読本は全て商務印書館のものであったという。1923年から1931年まで尚公学校の生徒だった葉至善(葉聖陶=葉紹鈞の子息)の随想文「私が学んだ尚公学校」には、当時の実験の内容が紹介されている。
 
 初級小学2年生の国語科は正式の教科書の他に『児童文学読本』が配られたという。内容は物語や歌謡で、挿絵も教科書よりも生き生きとしていたという。葉至善は初級小学校の生徒の識字数が少ない為テキストが短くつまらないのを、如何に解決するかの実験だったのだろうと述べている。高級小学の地理科では、教科書とは別に、教科書の内容の順序に合わせて書かれた『珍児旅行記』が配られたという。葉至善は地理教科書の叙述の無味乾燥さを如何に変えていくか、の実験だったのだろう、と述べている。

 実際のところ、商務印書館は1922年には沈百英等編の『児童文学読本』(全八冊)を出版しているし、1924年出版の『地理教科書』の中に「珍児旅行記」が取り入れられているから、葉至善の記憶には時間にズレがあるようでもある。筆者の勝手な推測だが…何かの理由で、出版社としては規定された教育内容を教科書に、子供を惹き付けるアイデア豊富な部分は補助教材・課外読本に分けざるを得なくなり、教科書と課外読本をリンクさせる教学法について、尚公学校で試行錯誤していたのではないだろうか。今日の本題とは関係ないが、「珍児旅行記」は子供の珍児が二年の歳月をかけて中国全土と世界を巡り、資料を集めて書いた旅行記という設定で書かれていたといい、なかなか面白い教科書だったようだ。

 他にも童話の歌劇を二種、邱望湘が作詞作曲した「白鳥」、葉聖陶(=葉紹鈞)が作詞・何明齋が作曲した「蜜蜂」を学内で練習し上演したが、これが後に出版されたことを紹介している。確かに児童歌劇『蜜蜂』は1933年に商務印書館より出版されている。

 更に興味深いのが、王雲五が考案した漢字の検索法「四角号碼」の実験で全教員と生徒が動員されたというエピソードである。「四角号碼」は従来の部首検索法と比べ簡便で早く検索でき、特に学年が低いほど効果があらわれたそうだ。また実験の中では同じ数字になる文字が多すぎるなど、問題も発見され、実験結果に基づき、改良が加えられたという。漢字の検索法「四角号碼」についての王雲五の本『号碼検字法』は1926年に(「王雲五先生與四角号碼」によれば1927年に)、『四角号碼学生字典』は1928年に出版されている。

 その他にも、遠足や旅行が毎学期少なくとも一回はあり、学内に「小商店」や「小銀行」「小写真館」などが開設され、図書館も含め、クラスで順番に働くなどの模擬社会経験ができるようにも配慮されていた。また、毎週土曜日には「週会」があり、これもクラスごとに順番で出演することになっていて、何をするかは先生と生徒で考えて決める、といった活動も行われていたという。

 葉至善(葉聖陶=葉紹鈞の子息)の回想にみる尚公学校の実験の数々は、出版社の単なる利益に即したものではなく、いずれも生徒の教育に有益で、かつ教材と教育の質を高めようとする高い志に基づいているような気がする。なかでも「四角号碼」のエピソードは、当時の学問の最前線の実験に、自身や仲間が参加していたのだ、という自負が感じられる。これらの活動は、子ども達にはもちろん、教師にとっても、学ぶところが多かったに違いない。

参考:
『商務印書館百年大事記1897-1997』(商務印書館、1997。中国語)
「我念過的尚公学校」(中国・商務印書館HP) http://www.cp.com.cn/ht/newsdetail.cfm?iCntno=513(中国語) 
「王雲五先生與四角号碼」(中国・商務印書館HP) http://www.cp.com.cn/ht/newsdetail.cfm?iCntno=4233(中国語) 
「商務印書館的地理教科書」(光明網) http://www.gmw.cn/CONTENT/2005-12/07/content_592060.htm(中国語)
他

中国・中華民国時代、作家と漫画家がつくった教科書『開明国語課本』 ― 2008年09月16日

中華民国『開明国語課本』第11-12課
 小学初級学生用『開明国語課本』(上海 開明書店、民国21年・1932年初版)は、中華民国時代に40余版を重ねたロングセラーで、中国現代文学の著名作家・葉紹鈞(=葉聖陶)と、現代中国の代表的な美術家で「漫画の鼻祖」と称される漫画家・豊子愷、いわば大作家と大漫画家の協力によって誕生した教科書である。文章は全て葉紹鈞の創作、或いは再創作であり、字(一部活字も)と挿絵は豊子愷の手によるものである。

 この教科書の特徴は、なんといっても、読んで、見て、面白いところにある。とくに初学の子供向けの文字が少ない部分は、言葉がリズミカルで、絵が存分に生かされていて楽しい。日本語に訳してしまうと、中国語のリズムを届けられないのが残念だが…伝わるだろうか…例えばこんな感じである。

第8課 先生は言いました。「子ども達(原文:小朋友)は座りなさい、みんなで本を読みます」子ども達はみんな座って本を読みます。
第9課 牛は多く、羊は少ない。牛は大きく、羊は小さい。
第10課 三頭の牛が草を食べている。一頭の羊も草を食べている。一頭の羊は草を食べずに、花を見ている。
第11課 みんなで牛を描こう。まず牛の頭を描いて、それから牛の身体を描いて、それから牛の脚を描く。
第12課 みんなで牛の字を書こう、一、二、三、四。みんなで羊の字を書こう、一、二、三、四、五、六。

 第8~12課はそれぞれ独立しつつも、関連していて、授業の様子を絶妙に描いている。第9課に牛が三頭、第10課に羊が二頭描かれるが、一頭は草を食べずに花を見ているのもユーモラスだ。そして第11課で牛の絵の描き方を教え、第12課で一,二,三,四、と牛と羊の字を書かせる、このセンスが面白い。こんな感じで、子ども達の学校生活、日常生活に関連する様々な場面も文章と絵によって生き生きと表現され、いまの私たちから見ても、中国の当時の教室の様子、人々の服装や生活、情景が分かり、親しみやすい。ちなみに、豊子愷は毛筆による文学的な漫画で知られるが、これは日本遊学中に画家・竹久夢二の草画にヒントを見出し生み出されたものだという。

参考:上海図書館蔵拂塵‧老課本『小学初級学生用 開明国語課本』上冊(上海科学技術文献出版社)。影印本。版は不明。原本は8冊だが、この本は上下冊にまとめられている。下冊に、葉紹鈞(=葉聖陶)の子息・葉至善氏と豊子愷の息女・豊一吟氏が随感を寄せている。

中国・清末、高等小学堂の入学式――1910年出版の『高等小学国文教科書』 ― 2008年09月10日

 資料集に面白い教科書を見つけた。宣統2年・1910年12月に出版された学部・編訳図書局編纂、京華印書局印刷の『高等小学国文教科書』(全八冊)である。収録されているのはごく一部のみだが、特徴ある課文を選んでいてとても興味深い。第一冊第一課は「開学記」、当時の入学式の様子を日記風に描写した課文である。大意は以下の通り。

 「1月の吉日、高等小学堂で入学式が行われた。交差した龍旗が、なんとも華やかで立派である。同級生はみな衣冠を正している。鐘の音がなると、堂長が教員や事務員と共に講堂に入り、前に立つと、学生もクラス別に入場して整列し、恭しく万歳牌と至聖位に向かい、三跪九叩首(跪いて三拝することを三度繰り返す)の礼を行った。礼が終わると、学生は堂長と教員に向かって一跪三叩の礼をそれぞれ行った。一切の儀式は初等小学堂と同じであるが、校舎は広くなり、授業の密度も濃くなり、規則も厳しくなる。同級生も増え、大いに雅やかである。向学心が自然に涌いてくる。」

 1月(原文は正月)に入学式、というのは奇異に感じるかもしれない。当時は学校は春季始業を採用しており、第一学期、第二学期の二期制で、第一学期が1月から、第二学期が7月からであった。(後に秋季始業になったらしい。)中国では当初学校は「学堂」と呼んでいたので、「堂長」は校長にあたる役職。ちなみに「龍旗」は龍が描かれた清国旗・黄龍旗のことである。確か三角の旗だったような…でも北洋艦隊の旗は四角だったような…と記憶が曖昧だったので、調べたところ1890-1912年は四角旗、1862-1890年は同じ意匠で三角旗だったことが判明した。

 なお、「万歳牌」「至聖位」は見たことがないが、三跪九叩首(跪いて三拝することを三度繰り返す)の礼は皇帝に対して行われる儀礼で、万歳牌は当時の皇帝・宣統帝、至聖位は皇帝の先祖に対する敬意を現すために、参拝を義務づけられたものだと思う。たぶん…。皇帝の前ではなく、身代わりのようなものに、三跪九叩首、更に校長と教員に向かっても一跪三叩の礼をそれぞれ行うというのだから大げさな感じがするが…戦前の日本でも学校儀式の中に、天皇の「御真影」「複写御真影」に「拝戴」する儀礼があったので同じようなものなのだろう。もしかしたら、日本の学校儀式から取り入れられたのかもしれない。それにしても衣冠をただして…とあるがどんな服装だったのだろう。イラストがあったら、もっとよくわかったのだが、イラストはないようで…ちょっと残念である。

参考:『小学教科書発展史』(国立編訳館、2005)
「中国にまつわるさまさまな国旗」(ブログ:閑話も休題) http://blogs.yahoo.co.jp/amatsukaze1/53834520.html

オリンピック開幕式、赤いワンピースの美少女が歌った「歌唱祖国」 ― 2008年08月09日

音楽課本の「歌唱祖国」
 オリンピックの開幕式、赤いワンピースの9歳の少女・林妙可が歌った「歌唱祖国」が印象的だった。「歌唱祖国」は現行の『義務教育課程標準実験教科書 音楽(線譜)』7年級上冊、中学校一年生で学ぶ音楽の教科書にも載っている。革命舞台劇『東方紅』の中華人民共和国建国のくだりで歌われる歌で、文化大革命中にもずいぶん歌われた歌である。
 
 国旗掲揚、国歌斉唱へと続くあの場面は、主催者側にとっては開幕式でなかでも、大変重要な意味を持った場面だったに違いない。少数民族の衣装を着たたくさんの子ども達、そして、あの赤いワンピースの少女…昔の映画を見ているような錯覚にとらわれた。
 それにしても、林妙可という少女、国旗掲揚台で、実に堂々と歌っていた。可愛らしい外見ながら、すごい度胸である。数千人のオーディションで選ばれ、周囲の人にも半年間秘密にしていたらしい。

 

参考:人民教育出版社HP http://www.pep.com.cn/

中国・清末、日本人も編纂に関与した超ロングセラー『最新国文教科書』 ― 2008年08月04日

 教科書が自由出版だった清末から民初にかけて、大きなビジネスチャンスを掴んだ出版社がある。中国を代表する書店の一つ商務印書館である。外国、特に日本の教科書を翻訳、ノウハウを吸収して教科書を編纂することで急成長を遂げた。英語教科書に漢訳と注釈を付けた『華英初階』(1898年)、日本の最新の教科書を翻訳した『和文漢訳読本』(1901年)、日本の教科書作りのノウハウを取り入れつつ中国の小学生向けに編集された『絵図文学初階』(1902年-1905年)、『最新国文教科書』(1904年)、『最新地理教科書』(1905年)等を次々と編纂出版、教科書出版社の先駆けとなった。その成功を力強く支えたのが日本の出版社金港堂との合弁であった。

 癸卯学制に合わせて編纂された『最新国文教科書』(全10冊)の第一冊目は1904年(光緒30年)2月、上海の商務印書館より出版された。特筆すべきは『最新国文教科書』の編纂には、小谷重(日本文部省図書審査官兼視学官・金港堂社員)、加藤駒二(金港堂社員)、長尾雨山(高等師範学校教授・漢学者)という日本人の教科書専門家3名も加わって、日本の教科書編集で培った簡単な単語から難しい語句へと段階的に発展させる方法を採用したことである。

 この編纂方法により『最新国文教科書』は発売当初から「学びやすい」と大評判となり、政治的な内容が含まれていなかったこともあって、中華民国時代も延々と版を重ねる「超」ロングセラーとなり、後の教科書にも大きな影響を与えた。日本人教科書専門家の協力が国文に留まらないことは『最新地理教科書』(光緒32年・1906年9月20日初版)の表紙に校訂者として「長尾槙太郎」(長尾雨山)の名前が見えることからも明らかである。

 金港堂は教科書専門家の他に、印刷方面でも複数の技術者を送り込み、商務印書館の編集印刷発行の各方面において全面的に協力し近代化につくした。これこそが『最新国文教科書』の大ヒットをはじめとした事業としての成功につながり、のちの業務発展の経済的、技術的基礎を確立し、商務印書館をいわゆる中国五大書店の一つに押し上げる大きな原動力となったのである。

参考:樽本照雄『初期商務印書館研究(増補版)』(清末小説研究会、2004)

古い教科書の価値--老課本収蔵家を紹介した記事 ― 2008年07月30日

 ネットを調べていたら、「老課本収蔵家」金鉄華氏を紹介した記事を見つけた。「老課本」とは古い教科書のこと、収蔵家はコレクターのことである。金鉄華氏、清末・光緒年間から文化大革命までの古い教科書を100余冊も集めたそうだ。元々は、解放区の教科書を古本屋で見つけたのがこのコレクションを始めるきっかけになったとか。実際のところ、古い教科書の価値を認める人はとても少ないらしい。

 古い希少本を集めているいわば同好の士さえ「古い教科書など資料的価値も研究的価値もない」と考えているし、ずいぶん辞めるよう忠告も受け、金鉄華氏はショックを受けたという。私も似たような経験があるから、金氏の気持ちは分かる気がする。
 
 金氏は教科書の価値を記者を示す為に、記者に抗戦期の解放区の『演算課本』の練習問題を見せている。これがなかなか面白い。その問題の一つは「陜甘寧辺区1938年後半期の小学生は一万七千六百七十二名、1939年後半期の小学生は二万二千八十九名である。この一年に何人増加したか?」ちなみに、「陜甘寧辺区」は共産党が国民党政府から勝ち取った地域、解放区のことである。もう一つは「抗日戦争中、我々は毎月約1万ドルを消費しており、日本は毎月約4万ドルを消費している。日本の毎月の消費は我々と比べどのくらい多いか?」というものだ。この細かな数字を計算問題に組み込むのは、教科書編集者にも、それなりの意図があったからだろう。金氏は「この問題の数字は本当のものだ。教科書はその時代の本当の生活を有る程度反映している」と述べている。

 古い教科書には史料価値も研究的価値も十分ある。ただ、誰もが知っているものだけに、価値を見出しにくいだけだと私は思う。金氏のコレクション、私からみると羨ましい限りだ。出来ることならぜひぜひ一冊一冊じっくり拝見、拝読させていただきたいものだ。

参考:中国懐旧網の記事「老課本収蔵」には解放区の教科書の画像も掲載されている http://www.huai18.com.cn/child/child_3_3/200786/0786103256A30BB9G5A649H1KA4_2.html

全国統一教科書の編纂出版を担う人民教育出版社の創設 ― 2008年07月24日

 中華人民共和国成立から現在に至るまで、教科書は大衆教育と政治教育の観点から、常に政権の関心事である。政府は当初より教科書が国民に与える影響の大きさを認識しており、国営にすることで、党の意向に合った内容と低コストの発行を実現出来るとした。そこで、大衆教育を目指す、社会主義体制に合った教科書作りのために、1950年9月に開かれた第一回全国出版会議で全国統一教科書の編集・出版を担う機関として創設されることになったのが、人民教育出版社である。

 人民教育出版社の「大事記」によれば、同社は1950年12月1日に正式に設立された。初代社長は葉聖陶(=葉紹鈞)である。(出版総署の副署長も兼任していた。)そしてこの時から、華北、華東地区の1951年春季小中学校教材の編集にとりかかった。

 以降、1986年に検定制に移行するまで、建国直後と文化大革命の混乱期を除けば、基本的には人民教育出版社が編纂出版する全国統一教科書が使われた。

参考:人民教育出版社HP 大事記(1950) http://www.pep.com.cn/rjjt/rjgl/rjls/dsj/200703/t20070302_279418.htm