絵本『あなたが世界を変える日-12歳の少女が環境サミットで語った伝説のスピーチ』に思う2008年08月11日

あなたが世界を変える日
 一人の子どもの力もまんざらではない。1992年、ブラジルのリオで開催された環境サミットでは、12歳の少女、セヴァン・カリス・スズキのたった六分間のスピーチに多くの人が心動かされた。私もそのうちのひとりだ。あのときのスピーチが子供向けの絵本『あなたが世界を変える日――12歳の少女が環境サミットで語った伝説のスピーチ』になっているのを今日偶然、通院している歯科で見つけた。

 この絵本の中に、あの印象的な言葉を見つけた。「今日の私の話には、ウラもオモテもありません。なぜって、私が環境運動をしているのは、私自身の未来のため。自分の未来を失うことは、選挙で負けたり、株で損したりするのとはわけがちがうんですから。私がここに立って話をしているのは、未来に生きる子どもたちのためです。世界中の飢えに苦しむ子どもたちのためです。そして、もう行くところもなく、死に絶えようとしている無数の動物たちのためです。…」 

 可愛い絵と、日本語に翻訳されても色あせない言葉、そして英語の原文が併記される。元々予定されていたわけではないこのスピーチ、会場へ移動する車の中で仲間と一緒に書き上げたとは信じられないほど、深い内容が簡単な言葉で綴られている。セヴァン・カリス・スズキたちがカナダにおけるNGOの活動のなかで培ってきた問題意識、スピーチ力、そして鋭い感受性があってこそ、短い時間でこれだけのスピーチをまとめあげ、多くの人の心を打つことができたのだと思う。

 ところで、セヴァン・カリス・スズキの父親はデヴィット・スズキ、日系三世で、著名な生物学者であり、環境運動家で、2004年には国民が投票する最も偉大なカナダ人にも選ばれた人物である。彼女が環境問題に目覚め、取り組むにあたっては、両親の影響はもちろん、理解と協力が大きかったに違いない。親として娘に、どのように環境問題を教え、共に考えていったのだろう。この機会にデヴィット・スズキの本も読んでみようと思っている。

参考:
絵本『あなたが世界を変える日-12歳の少女が環境サミットで語った伝説のスピーチ』(翻訳:ナマケモノ倶楽部、学陽書房、2003)
You Tube「セヴァン・カリス・スズキ - 環境サミット1992」 http://jp.youtube.com/watch?v=XjlUyVnDGIA&feature=related 日本語字幕付きで伝説のスピーチを聴くことができます(^^)
ナマケモノ倶楽部の会員紹介-セヴァン・カリス・スズキ  http://www.sloth.gr.jp/relation/kaiin/severn_top.html 伝説のスピーチ他寄稿や講演録も見ることが出来ます。

ペルセウス座流星群-大阪市立科学館プラネタリウム2008年08月12日

 今日の夜から明日にかけて、ペルセウス座流星群が見えるらしい。ペルセウス流星群は夏の定番。月が沈む明日1時以降がお勧めだそうだ。望遠鏡なども無しでも、空を見れば、一時間数十個の流れ星を見ることが出来るという。ちなみに、11日の夜明け前にも部分月食があるとか。
 学校がある日はなかなか夜更かしさせるわけにはいかないので…今日は一緒に星空でも眺めてみようかな。。本人が見たいと言っているので起きることが出来るようなら…

参考:第16回目 「ペルセウス座流星群を見よう!」 http://www.sci-museum.jp/server_sci/top/welcome/staff16.html
国立天文台ではペルセウス流星群を対象に「夏の夜、流れ星の数を数えよう」キャンペーンを行っているようです。詳しい解説も載っています。 http://www.nao.ac.jp/phenomena/20080811/index.html

 この情報を教えて貰ったのは、大阪市立科学館のプラネタリウムである。今日は朝から友人一家と、リニューアルオープンしたばかりの大阪市立科学館へ出かけた。夏の暑い日、涼しいところで星空を楽しめるプラネタリウム、本当にありがたい。今プラネタリウムでは「天の川を見よう」という特集をやっている。月や木星、天の川の望遠鏡写真を見ることが出来、また都会の光で遮られて見ることが出来ない天の川と、日本からは見ることができない南十字星の周りの天の川が繋がっているのを再現してくれたのも良かった。暗黒星雲、銀河系など…も映像の力を借りながら、分かりやすく説明してくれていた。小学校一年生の娘にはちょっと難しい内容ではないかと心配したが、いつも見ている子ども向けのプラネタリウムでいろいろと星のことを教えて貰っているおかげもあって、楽しめたようだ。私にとっても天の川を知るいい勉強になった。

 プラネタリウムの後は、サイエンスショー「紫キャベツ大実験」を楽しんだ。家でも出来そうな「紫キャベツジュース」、家庭にある「試薬」たちを動員して、週末に家で実験したくなった。それにしても、担当してくれた学芸員の方が子ども達の心をつかむのが上手なのに感心した。あんな先生なら、きっとみんな化学が好きになるに違いない。

 館内は、いままでとは違う工夫が楽しかった。子ども達が自分で楽しい実験を探して飛び回っている。じっくり同じところで実験を楽しむには、人が多すぎて、今日は叶わなかったが、時間がたっぷりあって、空いているときを狙って行って、今度こそのんびり館内展示と実験を楽しみたいものである。

参考:大阪市立科学館HP http://www.sci-museum.jp/

紫キャベツ大実験のおぼえがき2008年08月13日

 昨日、市立科学館で見た「紫キャベツ大実験」、楽しかったので、覚え書きを残しておく。これは、紫キャベツで指示薬を作り、酸性、中性、アルカリ性についての知識を学ぶ実験。紫キャベツでつくる指示薬の素晴らしいところは、準備が楽で、環境にやさしく、お財布にも優しいところ。指示薬としては、色によってphの強弱を確認できるところが、リトマス紙よりも優れている。紫キャベツの他にも茄子、朝顔、ブルーベリーなどもOKだそうだ。準備と手順は以下の通り。

 準備したもの:紫キャベツ、プラスチックのコップ、家庭にある様々なもの――
酢、キンカン、レモン、ベーキングパウダー、マヨネーズ、サイダー、台所洗剤ジョイ、蚊取り線香、石鹸、ビオレU、うめぼし、化粧水、トイレの洗剤等

 実験:①紫キャベツを2-3枚ミキサーに入れ、水を加えて、ざるでこし、紫キャベツ液をつくる。②紫キャベツ液に、いろいろなものを入れて、液の色の変化を観察する。③色の変化の順番に並べる。(真ん中に何も入れていない紫キャベツ液)④酸性とアルカリ性のものを合わせ、中和する。⑤酢+ベーキングパウダー、及びレモン(クエン酸)+ベーキングパウダーを合わせたときの中和反応で炭酸を発生させる。

 身近なもので実験できるし、色が変わるのが楽しいので家でもやってみようかな~。

初めての乗馬体験とバニラアイスクリーム作り――おおさか府民牧場2008年08月14日

ポニーのボブ君に乗って
 今日は家族でおおさか府民牧場へでかけた。そこで娘は初めて、ポニーに乗った。大河ドラマの「功名が辻」「篤姫」が大好きな娘としては、馬に乗ってみたいとかねてから思っていたようで、牧場で乗馬体験ができると聞いて大変乗り気だった。いざ乗るときになったら…怖かったようだが…手綱をひいてもらっての乗馬体験、しかも乗るのは小さな可愛いポニーのボブ君、とても楽しい思い出になったようだ。

 そのあとは、バニラアイス作り体験に家族で参加した。生クリームと卵と砂糖と牛乳、バニラエッセンスで作る、シンプルなアイスクリーム、作り方も簡単で同じテーブルの人と分業しながらの作業は楽しかった。そして何よりも美味しかった~。

 大阪府能勢町にあるこの府民牧場、自然に囲まれた広すぎない敷地に、羊や牛、あひる、ぶた、うさぎ、馬などがいる他、特色のある遊具のある公園やバーベキューコーナー、体験施設が整っている。季節に合わせたイベントもいろいろあるようだ。時々訪れたい場所がまたひとつ増えた。

参考:おおさか文牧場HP http://www.osaka-midori.jp/bokujyou/

中国・清末、中国初のミッションスクール・モリソン記念学校が育てた人材2008年08月15日

 1836年8月、広州アメリカ商館に、ドイツ人宣教師カール・ギュツラフ等により「モリソン教育協会(Morrison Education Society)」が設立された。カール・ギャツラフは、日本人漂流民3名の協力を得て、世界初の和訳聖書『約翰福音之傳』を翻訳した人物で、モリソンと同じロンドン伝道会(London Missionary Society)から派遣された宣教師である。

 協会設立に先立つこと2年、1834年にはギャツラフ夫人がマカオで塾を開いていた。後に有名になる容閎は7歳で父親に連れられてこの塾に入った。容閎を含め、生徒は少なく、乞食だった少年一名を含むなど、いずれも貧しい家庭の子供だったようである。1939年に入り中英関係が緊張したため、塾は閉鎖、11月に独立したモリソン記念学校(馬礼遜学堂)が歴史の舞台に登場する。校長兼教師を務めたのは、アメリカ人宣教師ブラウン(Samuel Robbins Brown)。開学当初、学生は6名であった(塾の学生も復学)。ブラウンは後に来日、新約聖書の翻訳に精力を傾け、ブラウン塾を開いている。(ブラウン塾は1877年・明治10年に東京築地に移り、「東京一致神学校」となり、やがて白金の「明治学院」へとつながっていった)
 
 アヘン戦争でイギリスが勝利した後、南京条約により香港島がイギリスに永久割譲されたことから、モリソン記念学校は1842年11月、マカオから香港に移る。学校と共に移った学生は11名、1844年には32名に増えていたらしい。学生はその学習レベルによって、四つのクラスに分けられ、授業は中文科と、英文科があった。中文科の授業は中国人が担当し、教科には「四書」「易経」「詩経」「書経」等があり、英語の授業はイギリス人かアメリカ人が担当し、教科には「天文学」「歴史」「地理」「算術」「代数」「幾何」「初等機械学」「生理学」「化学」「音楽「作文」等があったという。

 モリソン記念学校は中国近代で最も早く留学生をアメリカに送ったことでも知られている。実際には留学生を送ったのではなく、校長のブラウンが妻の病気の為に帰国することになった際、中国人学生にアメリカ文化への認識を深めさせようと、香港のキリスト教教会に要請して二年分の奨学金を得て、容閎と黄寛、黄勝の三名の中国人学生を伴い帰国したものである。ブラウンが1847年に帰国、1850年にモリソン記念学校は閉校となった。ブラウンは、三人をマサチューセッツ州の高校で学ばせ、大学入学の準備をさせた。これが中国人初のアメリカ留学生となった。

 この内、黄勝は病気で一年後に帰国したが、香港で印刷を学び英華書院で印刷の監督、編集、翻訳、通訳で活躍した。後に香港の主要紙となる『中外新報』(香港初の完全中国語紙、1858年創刊)、『華字日報』(1872年)を創刊、更に中華印務総局を創設するなど、香港ジャーナリズムの礎を築いた。一時は上海同文館で教授として教鞭をとったこともあり、容閎らの依頼を受けて、第二陣の児童留学生30名を送り込んでもいる。

 黄寛は宣教師のすすめで、イギリスのエディンバラ大学に入学、医学の博士号を取得後帰国、広州の病院で医師として働き、西洋医学教育に従事した。

 容閎(一八二八-一九一二)はアメリカ・イェール大学に留学して「バチュラー・オブ・アーツ」(Bachelor of Arts 文学士)の学位を取得、帰国後は通訳、実業家として活躍して財を成した。太平天国にも関わるが、曽国藩と面会後は洋務運動を側面から支援、一八七二年・清朝末期に中国初の政府派遣の百二十名の児童からなるアメリカ留学生グループを組織し、引率してアメリカで学ばせたことで、欧米の科学技術の中国への導入に貢献した。このとき、容閎は留学生監督と駐米副公使に任命されている。留学は十年で打ち切られたが、留学生としてアメリカに渡った中には、後に中国鉄道の父と讃えられた詹天佑、外交官になった唐紹儀、香港政界で活躍した周寿臣等がいる。容閎は他にも国立銀行の設立を建議するなど、中国近代化のための提案を次々に行っている。戊戌の変法派を支持していたために、戊戌の政変でアメリカに逃れ、その後孫文と知り合い、アメリカから孫文の革命運動を支援、アメリカで生涯を終えた。
 
 ところで…容閎の自叙伝によれば、同じ村の出身の者がギャツラフ家の執事で、その縁でギャツラフ夫人の学校に入学したらしい。兄は中国の伝統的な学堂に通っており、容閎自身もギャツラフ夫人の学校が閉校したときは伝統的な学問を学ぶ学堂に通っていたという。「貧しい農家の出身で、兄弟が多く、中国の学堂へ行くお金がなかったために、誰もが嫌がっていかなかったミッションスクールへ行くことになった」という文脈で語られる容閎の家庭事情は、どうやら真実ではなさそうだ。容閎は彼をギャツラフ夫人の学校に入れた両親の意図を推測して、世の中の移り変わりを見越して息子に洋学を学ばせることを選んだのだろうと述べている。(2009/6/12修正)

参考:
「早期的教会学校」(中国校慶網)
http://www.chinaxq.com/html/2005-10/28/content_4755.shtml
「中華民国の鉄道史」(日本鉄道建設業協会)
http://www.tekkenkyo.or.jp/kaihou/245/16.html
「S.R.ブラウンのあゆみ(略歴)」(明治学院歴史資料館)
http://www.meijigakuin.ac.jp/~siryokan/brown.htm
読んだ本:容閎・著/百瀬弘・訳注/坂野正高・解説『西学東漸記』(東洋文庫、平凡社、1969年)

美味!薄切り餅でつくるモッフルサンド2008年08月16日

ハムとチーズを挟んでみました
 先日、モッフルを教えて貰って以来、いろいろな作り方を試している。中でもヒットだったのが、モッフルサンド。鍋用の薄切り餅の間に、いろいろな具材を挟みこむ。ベーコンやチーズ、薄切りにしたトンカツなど。厚すぎると蓋が閉まらないので、注意が必要。モッフルそのものがシンプルな味わいだけに、どんな具材もそれなりに合うのが嬉しい。特にチキンコルドンブルのように、ハムとチェダーチーズを挟んだら美味しかった(^^)

『わたしと地球の約束』に見る家族、親の役割2008年08月17日

わたしと地球の約束(セヴァン・カリス・スズキ)
 先日、セヴァン・カリス・スズキが12歳で行った奇跡のスピーチについて書いた。その後もう一冊いい本を見つけた。セヴァン・カリス・スズキの本『わたしと地球の約束』である。冒頭にはこんな言葉がある。「わたしにできたことは、きっとあなたにもできる。力をあわせて、もっとすてきな世界をつくっていこうよ。」この本には環境活動家セヴァン・カリス・スズキを育んだ沢山の思い出と地球を守りたい沢山の思いが詰まっている。

 『わたしと地球の約束』は子供むけの本。頁をめくると、沢山のきれいな写真と大きな字が目に飛び込んでくる。堅苦しい本ではない。セヴァンが元気に語りかける声が聞こえるような本だ。子供と一緒に環境のことを考えるときのきっかけ本にしたい楽しい一冊である。

 まずは家族と自然。庭造りの名人・ハリーじいちゃん(母方の祖父)が作る旬の野菜を食べ、週末は父親と家のすぐ前の海辺でワカサギ釣りをし、毎年夏にはカナダの大自然の中でキャンプをして野生の生き物たちと触れあい、カオルじいちゃん(父方の祖父)に自然を愛することを教わり…素敵な家族と素晴らしい自然に囲まれてのびのび育ったセヴァン。

 そして環境保護運動。両親が先住民族ハイダ族のハイダグワイ(クイーンシャーロット諸島)の森を守る運動に参加して運動の経緯目の当たりにし、父親の旅行に同行したエクアドルやブラジルでは自身とほぼ同年齢のストリートチルドレンに衝撃を受け、父親のディヴィット・スズキが協力したアマゾンのカヤポ族の水力発電ダム建設反対運動に声援を送り、家族でカヤポ族の住むアマゾンのオークレ村に招待されて二週間共に過ごす。このアマゾンを離れるとき、森が開発のために燃やされていたのを目にした体験こそ、セヴァンが10歳にして子ども環境運動「ECO」を始めるきっかけになる。

 本を読みながら気が付いたのは…考えてみれば、彼女は10歳でこれほどの見聞があり、体験をしているということである。セヴァンの両親は、子ども達が幼い頃から、様々な体験をさせ、いろいろなところに連れて行って世の中を見せ、自らの信念をもって自然を守る活動に参加してきた。そして、それを子ども達に見せてきたことが、子ども達の環境問題への関心を自然に引き出したのである。

 セヴァンは言う。「世界は、わたしたちひとりひとりからできている。だから、あなたやわたしがちょっと変われば、世界はやっぱり、ほんのちょっと変わる。
毎日の小さな行動が積み重なれば、大きな変化をつくりだすこともできる。」と。
 私も小さな事から身近なことから、地球の為になることを、まずは始めてみようと思う。

読んだ本:セヴァン・カリス・スズキ『わたしと地球の約束』(大月書店)

口パクだった「歌唱祖国」――北京オリンピック開会式2008年08月18日

 報道で知ったのだが、オリンピック開会式で「歌唱祖国」を歌ったのは、本当は7歳の少女・楊沛宜とのこと。9歳の少女・林妙可は口パクをして歌う姿を演技していたらしい。写真で見る限り、楊沛宜も林妙可ほどではないが、とても愛らしい少女だ。それでも敢えて容姿がより優れている林妙可を表舞台に立たせ、歌唱力のある楊沛宜が舞台裏で歌っていた、という事実は国内外で批判と話題を呼んでいる。

 とても印象的な場面だっただけに、開会式の音楽総監督・陳其鋼氏が少女2人を起用し「口パク」を採用した理由を「国益」と述べていると「CNN.com」の記事でみたときは、正直なところしらけた気分にさせられた。

 今日「asahi.com」で北京五輪の開閉会式の総監督を務める張芸謀が朝日新聞の単独会見に答える記事を見た。張芸謀は言う。「あれは私が決めた。議論が出るとは思っていた。我々は開会式の完璧(かんぺき)な美しさを追求し、3人の女の子を準備した。モラルの問題ではないし、そんなに重大な問題とは思わない。一種の創作だ。子供たちにとっても誇張して騒ぐべきではない。演奏も多くは録音を使っている。過去の五輪でも演奏は録音が多く、それはごく正常なことだ」もしも張芸謀がいつも撮っている映画だったら…エンディングに演技者と独唱者の名前が両方並んで出てくるだろうから問題にはならないかも知れない。ただ、議論を呼ぶと思っていたのなら、対策を立てていなかったのは不思議である。なんといっても、舞台はオリンピックの開会式なのだから、国内外の人々が今回のことに違和感を持ったのは正常な感覚だと思う。

 多くの人が感じている違和感の根底にあるのは「騙された」という思いだろう。完璧な美しさを見せられた後だけに、その美しさの影に欺瞞があることを知ったときの落胆も大きいのだと思う。二人の少女のためにも、せっかくの開会式のイメージを回復させるためにも、オリンピックのエンディング・閉会式で観客と世界の視聴者を納得させる演出が必要かも知れない。張芸謀監督、もしかしたら、そのあたりもすでに考えているかも?
 
参考:
「歌は口パク、花火はCG合成 北京五輪開会式の[偽装]判明」(CNN.co.jp)http://www.cnn.co.jp/world/CNN200808130007.html
「少女の口パク[私が決めた] 五輪開会式総監督単独会見」(asahi.com)http://www2.asahi.com/olympic2008/news/TKY200808180173.html

「倭乱」と「胡乱」の扱いの違い――石渡延男「韓国 民族主義史観に依拠した歴史」『世界の歴史教科書 11ヵ国の比較研究』より2008年08月20日

世界の歴史教科書(明石書店)
 石渡延男「韓国 民族主義史観に依拠した歴史」『世界の歴史教科書 11ヵ国の比較研究』によれば、韓国の『国史』の教科書では、日本・豊臣秀吉の朝鮮出兵「倭乱」と清朝・太宗ホンタイジの李氏朝鮮侵入及び属国化「胡乱」の取り扱いに大きな違いがあるらしい。「倭乱」は力を入れて詳細に書かれ、「胡乱」は簡単にまとめられているだけだそうだ。

 ほぼ同時代の戦争、そして双方とも大きな打撃を受けたにもかかわらず、記述に偏りがあるというのは、とても興味深い。実は、以前同書を読んだときは、中国・清朝の歴史に暗くて、「胡乱」がどのようなものであったか実感が持てなかったのだが、今回読み直して、筆者の指摘に強い共感を持った。

 韓国では豊臣秀吉の朝鮮出兵を、一回目の1592年の「文禄の役」を「壬辰倭乱」、二回目の1598年の「慶長の役」を「丁酉再乱」とよんでいる。その戦禍の凄まじさやその後の歴史に与えた影響の大きさ故に、韓国の教科書が重要視するのは十分理解出来る。

 問題なのは、「胡乱」の記述の方である。清朝・ホンタイジによる「胡乱」は二回起こっている。一回目の「丁卯胡乱(ていぼううろん、ていぼうこらん)」は清を国号とする前の後金の大汗・ホンタイジが、李氏朝鮮・仁祖の反後金親明的な政策に対し反感を持っていたところに、仁祖に対するクーデターが起こったことをきっかけに、1627年、ホンタイジ(太宗)はアミン(阿敏)、ジルガラン(済爾哈朗)、アジゲ(阿済格)、ヨト(岳託)、ショト(碩託)らの率いる3万の軍勢を、姜弘立ら朝鮮人の同行の下に朝鮮半島に送ったもの。このときは、アミンが和議前の数日間、平壌を略奪している。二回目の「丙子胡乱(ていしこらん)」はホンタイジが皇帝に即位し国号を「清」に改めたことを、李氏朝鮮が認めず、あくまで明朝皇帝を推戴する姿勢を見せたことから、1636年にホンタイジ自ら10万の兵を率いて朝鮮に侵入、開戦後40日余りで、仁祖を屈服させた。和議がもたれ、11項目の条件を呑まされる結果となったのである。仁祖は三田渡でホンタイジに対し三跪九叩頭の礼 による清皇帝を公認する誓いをさせられ、王子を含む多くの人質がとられ、多くの賠償金を朝貢品として年々納めることになり、さらに屈辱的な「大清皇帝功徳碑」という碑までたてさせられた。

 「胡乱」の朝鮮史におけるインパクトは「倭乱」に勝るとも劣らない、と思う。だから「倭乱」と「胡乱」の記述に温度差があるのは、確かに不自然である。日韓の歴史研究者が10年の歳月をかけて書き上げた『日韓交流の歴史』(明石書店)、日中韓の歴史研究者、教育関係者が作った『未来をひらく歴史』などで、「倭乱」「胡乱」がどう扱われているか、確認してみようと思っている。

読んだ本:石渡延男「韓国 民族主義史観に依拠した歴史」『世界の歴史教科書 11ヵ国の比較研究』(明石書店、2002)
参考:「大清皇帝功徳碑」の写真と説明は以下のサイトに。 
「大清皇帝功徳碑」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B8%85%E7%9A%87%E5%B8%9D%E5%8A%9F%E5%BE%B3%E7%A2%91
「青邱古蹟集真」http://www.geocities.jp/krruins/sjd1.html
「韓国古代山城探検!」 http://shigeseoul.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_865d.html

神仙の暮らし――宮崎市定『中国に学ぶ』2008年08月21日

宮崎市定『中国に学ぶ』
 宮崎市定のエッセーに「神仙の暮らし」というのがある。ある中国の故事を載せているのだが、これが私は好きだ。貧乏暮らしに愛想を尽かしたある男の願かけの話である。
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 「決してぜいたくは申しませんが、どうかその日その日の暮らしにだけ困らないように、一生ご加護くださるようにお願い申します。金持ちになろうなどとは夢にも思いません」
あまりに熱心に祈るので、神様が姿を現したが、さて、きっと形を改めて申すよう、
「何とお前はぜいたくなことを申すヤツじゃ。過ぎたこともなく、足りないこともないという暮らしは、万人が望んでもなかなか達せられない生活の極致であるぞよ。それは神仙の境地だ。そんな高望みをすてて、金持ちになりたいとか、それがいやなら、今のままの貧乏でいたいとか、考え直して改めて願かけをするがよいぞ」
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 過ぎたこともなく、足りないこともないという暮らしが神仙の境地なら、我が家も神仙の暮らしをさせて貰っているということになる。時々この話を思い出して、今の生活に感謝することにしている。我が家に限らず、大部分の日本人は願かけしなくても、神仙の暮らしをさせてもらっているわけだが、最近は貧富の差が開き、特に貧困層の増加が指摘され、神仙の暮らしが出来ない日本人が増えている。これを人間の力でどうにかできないものだろうか。

読んだ本:宮崎市定『中国に学ぶ』中央公論社・改版版(中公文庫)