宮崎市定氏が見る日本の清国留学生2009年02月12日

 中公文庫に『中国文明の歴史』という中国史のシリーズがある。その中でも宮崎市定氏が執筆した『9 清帝国の繁栄』と『11 中国のめざめ』が好きで時々読み返している。宮崎市定氏はフランス留学経験があり(アラビア語)、またフランス・パリ大学、アメリカ・ハーバード大学、ドイツ・ハンブルク大学やルール大学でも教えたこともある人物で、欧米の東洋学についても造詣が深く、視野が広い。用語には旧いものも見受けられるが、その思考・論考は旧くなっていないと思う。

 今回読み返したくなったのは『11 中国のめざめ』に日本に留学した学生の間で革命運動が盛り上がった理由として、こんなことが書いてあったのを思い出したからである。

 「義和団事件から日露戦争直後まで、清国政府は多数の留学生を日本に送り、その多くは東京に滞在したが、その数が一時は数万人にも及んだという。ところがこういう新事態に対して、日本側では受け入れ態勢が少しもととのっていなかった。日本人は気が付かなかったが、宿舎も食物も、生活様式も、中国の上流社会の子弟には耐えがたい低水準であった。そのうえに中国人に中華意識があれば、日本人にも神国意識があった。しかも双方ともヨーロッパ諸国に対しては腹の中でコンプレックスを抱いていたから、なおさら事情が複雑である。日本人はロシアに対して戦勝の直後で鼻息が荒く、有色人種の中ではただ自分たちのみ、白人と対等になりえたような自信を獲得し、反面では自己を他の有色人種から区別するような態度をしばしばとった。これに対して中国人は、たとえ白人からはいささか軽蔑の態度を以て迎えられても、それはまったく異なる民族間の関係であるから不問に付するが、同じ有色人種の隣人、しかも従来は朝貢国視していた日本人から侮蔑の眼でみられることは、堪えることのできぬ屈辱と感ぜざるをえなかった。
 そこで中国留学生のヨーロッパ、アメリカに滞在した者は多くその地の生活に満足し、良好な印象を得て安住したが、安住しすぎたためにそこでは革命運動はあまり流行しなかった。ところが日本在住の留学生は、心中に抱いている欲求不満が、革命の情熱となって爆発するのであった。革命運動にでも身を投ずるのでなければ、ほかに生き甲斐を感ずることができぬほど、日本の生活は不愉快なものであったらしい。」(p41-42)

 以前読んだときは面白い見方があるものだと思っただけだった。でも今読み返してみれば、この時期の清国留学生、前述の京師大学堂の日本人教習・服部宇之吉や岩谷孫蔵が文部省に特別の配慮を依頼して送り込んだのではなかったか。日本人側は特別待遇したつもりだったにも関わらず、中国の上流社会の子弟にとっては日本の留学生活は「宿舎も食物も、生活様式も耐え難い低水準」であり、しかもそれに日本人は「気が付かなかった」というのである。なるほど、と思った。確かにこの時期京師大学堂に入れたのは貴族や官僚及び官僚予備軍といった、多くが広い邸宅で召使いに傅かれて育った上流階級の子弟である。明治の日本人が考えるところの学生宿舎ではとてもその要求に応えられるはずもあるまい。更にそれらの欲求不満が革命運動に結びつき、一方欧米の留学生は生活に満足して安住したから革命運動が流行しなかったという。欧米での生活経験はもとより、鋭い観察力と深い見識があってこそのさりげない文句の一つ一つに宮崎市定氏のすごさを感じる。

参考:宮崎市定『中国文明の歴史 11 中国のめざめ』(中公文庫、2000)

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コメント

_ (未記入) ― 2009年03月20日 18時17分37秒

とても興味深い話で、面白い視点です。
それは理由として扱うのは、安易と思われる部分があるが、
中国人として、納得出来ない分析ではありません。

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