最近考えていること2009年02月16日

 ブログの書き込みがしばらく空いてしまった。最近ずっと19世紀から20世紀初めの頃の、欧米と中国、日本との関わりについて考えているのだけれど、どうも問題が大きすぎて、考えがまとまらないでいる(^^;)。ここ数日、『東洋学の系譜』『東洋学の系譜 欧米編』、宮崎市定『中国文明の歴史』9・11、陳舜臣『中国の歴史』、工藤美代子『ラフカディオ・ハーンの生涯』、阿部洋『中国の近代教育と明治日本』など…いろいろ並行して読みつつ、いろいろ考えを巡らせている。

 これらの本を読んでいても気づくのは、ある同じ人物について書いていても、それぞれの立場で様々な見方があるということだ。それだけこの時期が思想的にも政治的にも複雑な要素を含んでいるわけで、客観的に捉え理解するのが思った以上に難しい。

 プロテスタントの宣教師として最初に中国に入ったことで知られるロバート・モリソン。中国語を習得して、世界で最初に聖書の漢訳を行い、世界最初の『華英字典』を編纂し(本ブログ2008年8月10日参照)、1818年にはマラッカに英華学堂を設立し、「東の文化と西の文化の代表者が相互に理解し合うことまでも考えていた」(『東洋学の系譜 欧米編』)という彼でさえ、東インド会社の翻訳の仕事をしているし、母国の使節が北京に赴いたときの通訳もしている。聖書翻訳を続ける為にも、それらの仕事には経済的に助けられたようだ。 19世紀初旬、アヘン戦争以前の欧米にとって、中国との接点は開港地のみであった。ジェイスト派の宣教師は北京にいたが、それは例外として、欧米の宣教師が布教を目指して中国に上陸しても、布教が禁じられていたから商館等に商人に身をやつして住み込むしかなかった。ロバート・モリソンが、阿片を売る東インド会社と関わりを持ったのもそういう状況下であったから、ある程度は仕方がなかったのだろうとも思える。

 でも、カール・ギャツラフあたりになると、どうも評価が難しい。陳舜臣『中国の歴史 7』(239頁)には「悪名高い帝国主義的な牧師ギャツラフ」とあり、「ギャツラフは白人優越の信仰をもち、東洋人を軽蔑していた人物で、牧師でありながら徹底した差別感を持っていました。アヘン戦争前、――英国のフリゲート艦一隻は、全清国海軍一千隻の兵船を撃破しうる。というたぶんに文学的な報告を送り、主戦論者を勇気づけました。」とある。でも一方で、カール・ギュツラフは、ドイツ人宣教師で日本人漂流民3名の協力を得て、世界初の和訳聖書『約翰福音之傳』を翻訳した人物であり、モリソンと同じロンドン伝道会(London Missionary Society)から派遣された宣教師であり、また「モリソン教育協会(Morrison Education Society)」の設立者の一人でもあるのだ。

 19世紀の欧米人の中国への関心と関わり方についても、明治日本と中国・清朝政府との関わりについても、欧米から東洋学が日本に移植された経緯も、とても興味深い。ここを押さえておかないと、どうも先に進めない感じがしている。

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