中国・民国期、日本学制からアメリカ学制へ――1922年の新学制2009年05月12日

 中華民国になっても、清国時代の教育体制はほぼそのまま受け継がれた。初代の文化部長を務めた蔡元培は、開国当初から日本式学制の見直しを主張したが、大勢を変えるには至らなかった。それでも、開国間もなく公布した臨時学制に初等学校の男女共学を盛り込むなど、彼の権限のもとで出来る努力はしたようである。

 それが、1922年の新学制では、アメリカ学制に移行する。情勢を大きく変えたのは五四運動であると言われている。この辺りの経緯を、齋藤秋男『中国現代教育史』は、以下のように記述している。

   「日本を模倣した学制、袁世凱とその亜流の復古反動文教のもとで、学生・青年たちが“五・四”運動を経験すると、旧来の学校教育への批判がたかまり、学生改革への気運が醸成された。
 第一次大戦下に一定の成長をとげた民族資本家たちは、軍閥政府を動かして、新学制採用にふみきらせた。1922年、アメリカの6・3・3・4制に範を求めた学制の公布がこれである。以降、公立学校の基本的な枠組みは6・3制を踏襲する。」(『中国現代教育史』、22-23頁)

   五四運動の時期にデューイが北京大学の招待で二年間中国に滞在し、好意的な目で中国の変化を見つめ、各地で講義や講演を行っていたことも、アメリカ学制移行への追い風となった。

  参考:齋藤秋男『中国現代教育史』(1973年、田畑書店) 

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科挙の予備試験・学校試の概要22009年05月14日

 学校試について、簡単に紹介しておこう。学校試は童試と呼ばれ、三年に二回の割で行われる三段階の試験である。第一が県で行われる「県試」、第二が府で行われる「府試」、第三が本試験ともいうべき「院試」である。この三段階の入学試験をクリアできるのは、大きな学校では40名を超えず、小さな学校では15名と決められていた。

1)県試
 「県試」の試験の責任者は知県、県の長官である。この県試、第五次試験まであった。どうやら、県試から院試まで第三次試験以降は形式的な試験であり、替え玉等不正防止のための確認作業と決定までの時間稼ぎのようなものであったようだ。だから、この中で最も重きを置かれ、人数が絞られるのは第一次試験である。県試の第一次試験では14歳以下の未冠と15歳以上の已冠では問題が異なっていた。14歳以下には、平易な問題を出し採点にも手心を加え、15歳以上にはなるべく難しい問題を出したという。それもあって、年齢をごまかす受験者が大半であったらしい。
 第一次試験の問題は三つ、一つ目は「四書」から、二つ目はやはり「四書」から、三つ目は「詩題」(五言詩の題を示し韻を指定して詩をつくらせるもの)で、早朝から夕刻まで、丸一日かけて行われた。第二次試験以降は少数の者がふるい落とされるだけであり、第五次試験は康煕帝の「聖諭広訓」(せいゆこうくん)十六条の内の指定された一条を書く。天子の作ったものだから、一字一句間違えることは許されないが、これさえ間違えなければ、よほどのことがない限り、落第者を出さぬ例となっていたという。このように、最初の試験「県試」でも、相当困難な試験だが、これに通った者には次の「府試」を受けることが許されるだけである。

2)府試
 「府試」の試験の責任者は知府、府の長官である。府のおかれた町、府城は相当繁華な大都会であり、試験のために試院とよばれる常設の建物がある。県試合格者の童生はそれぞれの県から証明書をもらって続々この府城に集まる。
 試験そのものは県試の結果の再確認というところ、内容も県試の手順とほぼ同じ形で行われる。これに通るとやっと、本試験たる「院試」を受けることが許されるのである。

3)院試
 府内の学校に入学して生員になるための最終試験であり、入学の合否が決定されるのが「院試」である。「院試」の試験官は学政(提督学政の略)という中央から派遣される高官で、この学政が三年に二回、管轄内の府をめぐって行う試験が「院試」「歳試」「科試」という三つの試験であった。(「歳試」と「科試」は生員になってから受ける試験。)
 院試は第四次試験まであった。第一次試験の第一の問題は四書題、第二の問題も四書題、第三の問題は詩題であったという。これを夜明けから夕刻までに仕上げなくてはならない。翌々日に合格者番号の発表があり、当日午後か翌日午前中に第二次試験がある。第一次試験では入学定員の三割増しから五割り増しを通過させ、第二次試験で入学定員まで絞る。さらに形式的な第三、第四試験がある。第三次試験は経書の解釈の答案の他に第一次試験の答案の最初の数句をおぼえていて書き込み、更に第一次の答案と筆跡が同一であるかを確認する。替え玉を警戒してのことである。さらに、第四次試験では四書・五経・詩の題が出るが、その成績には重きをおかず、指定された「聖諭広訓」(せいゆこうくん)の一条を間違いなく清書すればいいらしい。

4)新生員となる為のイベント
 「院試」の合格発表は、孔子を祭った文廟の大堂で行われる。それというのも合格発表は同時に入学式であり、このときから合格者は生員として官吏に準ずる身分を取得したことになる。もっともこの式には学政も合格者も参列せず、新生員はそれぞれの学校の教官に付き添われて、学政の宿舎を訪問し、合格の恩を謝するのが慣わしであった。新生員は決められた制服-それは藍色の地に黒い縁のついた衣服に、雀頂という雀の形の帽子を被る-を身にまとい、学政は一人ずつ新生員を引見して、「金花」と称する帽子飾りを与える。これが新入学のしるしなのである。

参考:宮崎市定『科挙-中国の試験地獄』(中公新書、1963初版)  

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中国・民国初期、日本が中国人教育の優位を維持出来なかったワケ2009年05月15日

 義和団事件後、清国は、日本式教育制度を導入し、多くの日本人教習を招請、日本への留学生派遣など、日本を通して本格的に近代教育を導入した。日本政府も、中国への影響力の拡大を意図して、中国の日本式教育導入に多方面の便宜を図った。こうしてせっかく手にした中国人教育の優位を、日本はなぜ維持できなかったのだろうか。

 むろん、大きな要因としては1915年の対華二十一ヶ条要求を契機とする反日・排日ナショナリズムがある。それで日本人教習がいなくなり、中国人の日本留学が激減した説明はつくような気もする。 でも、そればかりではなかったようだ。阿部洋『中国の近代教育と明治日本』は、中国人日本留学の凋落と日本人教習の衰退の視点から、日本が中国人教育の優位を保てなかった理由を様々な事例を挙げて分析している。

 それを読みながら考えた。日本人教習について、中には服部宇之吉や巌谷孫蔵のように、中国の近代教育導入にあたり大きな影響力を持ち得たと認められる人物もいた。しかし、なにしろ、最盛期は600人もの日本人教習が中国にいたというから、実際のところ玉石混淆の状態であって、トラブルも少なくなかったようである。もっとも、日本人教習が衰退した一番の原因は、日本への留学生が帰国して日本人教習にかわって各地の学堂の教壇に立つようになったことにある。つまり自国で自給できるようになって、日本人教習は用済みになった、それが大きかったように思う。

 中国人留学生の受け入れについても、阿部氏は様々な学校と事例を挙げながら、日本が急激に増えた留学生向けの教育を十分受け入れるだけの受け皿を持たなかったことを論証している。個々には高い志と長期的な視野をもって清国留学生の教育にあたろうとした教育家もいたが、多くは間に合わせに、にわか仕立ての学校において速成教育を行ったため、教育の質の低下は避けられなかった。この状況に加え、日清戦争直後で中国人蔑視の風潮があり、生活環境も低レベルであったから、清国留学生の日本と日本人に対する印象は好ましくなかった。ちなみに、日清戦争前の日本駐在中国公使等の日本の印象はなかなかいいものだったことを考えると、留学生が増えたタイミングも悪かったかもしれない。その上、帰国後試験を行うと、上位を占めるのは決まって欧米留学組であったという。これでは日本留学への評判と信頼性が低くなったのも道理であった。

 どうやら当時の日本政府の対中国教育政策は、長期的な視野に立ったものではなかったらしい。日本政府は、もっぱら清国側の要請を受けて日本人教育家を教習として派遣し、要請に応えて援助しただけであった。もしナショナリズムの高揚がなかったとしても、当時の日本政府は積極的に財源を確保して独力で中国に学校を設立して教育事業を行うなど長期に渡って優位性を維持する努力をしなかったのだから、影響力が薄れるのは時間の問題であったろう。日本側にも大きな要因があったのである。

 これは同時期のアメリカの中国へのアプローチのあり方と比べると歴然である。これは阿部洋氏の著述で理解した部分である。なぜ日本モデルの後に、アメリカモデルが選ばれたのか、というあたり、突き詰めていくと、それは偶然ではなかったようだ。これは次に回すとしよう。

参考:阿部洋『中国の近代教育と明治日本』(龍渓書舎、1990年初版、2002年第二版) 

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星野道夫『森と氷河と鯨-ワタリガラスの伝説を求めて』を読む2009年05月18日

 先日NHKで「知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 星野道夫 生命へのまなざし」の再放送をやっていた。私が見たのは3回と4回である。アラスカを撮り続けた写真家・星野道夫さんの写真と言葉、そしてアラスカで暮らした夫人・道子さん(3回)と作家・池澤夏樹さん(4回)へのインタビューで綴られた番組だった。

 まず驚いたのは、星野道夫さんの写真とは知らずに見ていて、そして印象に残っていた写真が沢山あったことである。そして、番組で夫人・道子さん、作家・池澤夏樹さんの言葉を通して、彼の生き方、写真の撮り方、自然への姿勢、思想といったものに触れたとき、もっと星野道夫さんのこと、この人の撮った写真を見たいと思った。

 そこで、図書館で探して見付けたのが、『森と氷河と鯨』である。とても印象的なエッセイ+写真集であった。写真の素晴らしさに加え、その奥にある撮影者の思いを知ることで、もっと深い感動を味わうことが出来た。原住民(インデアン)の創世神話ともいうべきワタリガラスの伝説を追い、朽ち果てていくトーテムポールに人間の文化と自然がとけ合うことの意味を感じ、鯨の骨の墓標を前に思いにふける。

 特に心惹かれたのは、星野さんがクイーンシャーロット島の今朽ち果てようとする古いトーテムポールを見にいったエピソードである。このトーテムポールはインディアン・ハイダ族のものだった。19世紀終わり頃にヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘で7割の住人が死に、生き残った人々は村を捨てて別の場所に移り住んだという。だからその島には百年以上も前のハイダ族の村の跡がそのまま残っている。その古いトーテムポールがある神聖な場所をハイダ族の子孫は朽ち果ててゆくままにさせておきたいとし、強国の博物館が人類史にとって貴重なトーテムポールを収集し保存してゆこうとする圧力から、守ってきたというのである。

 彼等の主張は「その土地に深く関わった霊的なものを、彼等は無意味な場所にまで持ち去ってまでしてなぜ保存しようとするのか。私たちは、いつの日かトーテムポールが朽ち果て、そこに森が押し寄せてきて、すべてのものが自然の中に消えてしまっていいと思っているのだ。なぜそのことがわからないのか」というものだった。私は、この話にとても不思議な感動を覚えた。民族学博物館等で展示物を見るとき、抱いてきた違和感を説明してくれたように思ったからである。星野道夫さんは、撮影という行為を通して、自然と人間の共生の有るべき姿を追求していたのだろうか。もっと彼の本を読んでみたくなった。

読んだ本:星野道夫『森と氷河と鯨-ワタリガラスの伝説を求めて』(世界文化社、1996)
 
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マイケル・J・フォックス『ラッキーマン』を読む2009年05月20日

マイケル・J・フォックス『ラッキーマン』
 マイケル・J・フォックス『ラッキーマン』を読んだ。以前、アメリカのホームドラマ「ファミリー・タイズ」や映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のシリーズが大好きだった。主役を演じたマイケル・J・フォックスも好きだった。『ラッキーマン』は、彼の生い立ちや俳優になったきっかけ、売れなかった頃、ドラマや映画出演のエピソード、「ファミリータイズ」で共演したトレイシー・ポランとの結婚生活、パーキンソン病の発症からカミングアウト、パーキンソン病の研究助成活動のための財団を立ち上げるまでの経緯を、ゴーストライター無しで、一年以上の歳月をかけて、彼自ら綴った自伝である。

 読んで感動した。困難に際してポジティブな生き方を貫こうと決意する彼に、敬意を抱かないではいられない。「ラッキーマン」という書名が象徴するように、彼は非常に精神力の強い人だ。そんな彼もショックでお酒に溺れたときもあったようだ。それでも、本人の強い決意、家族や周りの友人に支えられて立ち直り、前向きに歩むことを選び、ついには病気をカミングアウトするのである。カミングアウトするまでの緊迫した雰囲気が行間から伝わってきた。

 彼はC-SPANの公聴会でこう決意表明をしている。「ひっそりとがんばっているときは終わりました。パーキンソン病との闘いは勝てる闘いです。わたしはこの勝利に向けて一役演じる決意を固めました。」彼は、言葉通り、パーキンソン病治療に役立つ医学研究を助成する組織を立ち上げた。マイケルがパーキンソン病であることをカミングアウトしてから、もう10年になる。マイケルを含む多くの患者のためにも、それを見まもる家族や友人のためにも、パーキンソン病の研究が一日も早く進み、効果的な治療法が発見され、有効な薬が開発されることを心から願う。

読んだ本:マイケル・J・フォックス『ラッキーマン』(ソフトバンククリエイティブ 、2003)
参考:マイケル・J・フォックス パーキンソン病リサーチ財団 
http://www.michaeljfox.org/

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いろいろな「そうだ村の村長さん」2009年05月22日

 娘の宿題に音読カードというのがある。最近覚えているのが阪田寛夫(さかたひろお)さんの詩「そうだ村の村長さん」。

 そうだむらの そんちょうさんが
 ソーダのんで しんだそうだ 
 みんながいうのはウッソーだって
 そんちょうさんがのんだソーダは
 クリームソーダのソーダだそうだ
 おかわり十かいしたそうだ
 うみのいろしたクリームソーダ
 なかでおよげばなおうまそうだ
 クリームソーダのプールはどうだと
 みんなとそうだんはじめたそうだ
 そうだむらではおおそうどう
 プールはつめたい ぶっそうだ
 ふろにかぎるときまったそうだ
 そうだよタンサンクリームおんせん
 あったかそうだ あまそうだ
 おとなもこどもも くうそうだけで
 とろけるゆめみてねたそうだ

 というのだが、どうも、私がうろ覚えに知っているのと違う。確か…「葬式饅頭うまいそうだ」だった気がする。気になって調べてみた。その結果分かったのが、いろいろなバージョンがあることである。「葬式饅頭うまいそうだ」「葬式饅頭でっかいそうだ」「葬式饅頭くれないそうだ」「葬式饅頭あたらんそうだ」等の葬式饅頭バージョン、「そうださんの葬式にはソーダいっぱい出るそうだ」「葬式はもうすませたそうだ」等の葬式バージョン、「ソーダ山のソーダさんがソーダを飲んで死んだソーダ」「ソーダー村のソーダーさんが ソーダー飲んで死んだーソーダー」のソーダ山、ソーダさんバージョン…

 阪田寛夫さんの詩がオリジナルにしても、他のもなかなか面白い。なぜ葬式なのか、葬式饅頭なのかは分からないが。きっと元の詩の面白さ、語呂の良さが愛されて、たくさんのバリエーションが各地で作られ、愛唱(?)されたのだろう。 (修正日:5月23日「おかわり十かい」が抜けていました)

参考:Photo Village (ブログ)http://www.rrbphotovillage.jp/modules/rrbblog/index.php?date=20090315
学生一問一答掲示板http://www.casphy.com/bbs/test/read.cgi/question/1178972373/l50

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中国・清末民初、アメリカ学制への移行を後押ししたアメリカ2009年05月23日

 アメリカが政府レベルで門戸開放主義を提唱して、中国進出に乗り出すのは二〇世紀に入ってからである。アメリカは日本やヨーロッパ諸国とは違い、教育事業を全面に押し出した。そしてその際、二つの方策を採ったようだ。

 一つ目は日本留学を批判、或いは日本人教習不要論を唱え、中国人の目をアメリカに、そしてアメリカ人の目を中国にむけさせることである。阿部洋氏はその例としてアーサー・スミスの著書『今日の中国とアメリカ』(China and America Today,1907)における日本留学非難の一文、及びニューヨーク・デイリー・トリビューン紙の1907年6月2日付の論説「中国人は日本人教習を望まず」(‘Chinese Don’t want Japanese Teachers’)を引いている。

 二つ目は1908年の決議により、義和団事件賠償金の一部を返還、それを教育基金として中国人のアメリカの官費留学生派遣事業を発足させ、更にその留学予備教育のために学校を設立したことである。設立された学校には、中国の超名門大学・清華大学の前身となった清華学堂、後に北京大学に吸収される燕京大学などがあった。義和団事件の賠償金を中国の教育に還元するという決議、これは当時中国人に大いなる感謝と感動をもって迎えられた。なお、アメリカへの留学生は、学位取得状況が高く、約38%が修士号、約10%が博士号を取得、帰国後、教員(大学教員が圧倒的多数)、技術者、実業家等になり、社会的に活躍した人が多かった。

 1922年に学制がアメリカモデルに転換した背景には、五四運動による中国人の自発的な日本離れだけではなく、アメリカの積極的な運動が効を奏したことがあった。アメリカは中国人の反日感情を煽りつつ、国内の世論を味方につけて、より中国人に好まれる方策を採って、日本が清国時代に獲得した中国教育界における優位な立場に取って代わったのである。特に人心掌握術において、アメリカの方が日本よりも数段上手であったように思える。

参考:阿部洋『中国の近代教育と明治日本』(龍渓書舎、1990年初版、2002年第二版)

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おうちはっぴょうかい2009年05月23日

 週末を迎えて、娘は朝から張り切っていた。なにしろ、数日間かけて用意した「おうちはっぴょうかい」の日である。

 「おうちはっぴょうかい」は、娘が企画したイベントで、娘と私がピアノ、娘がダンスを披露することになっている。休校で家にいる時間を利用して、この日のために、ピアノとダンスを練習するのはもちろん、チケットを作り(娘が担当)、プログラムを作り(これは私が担当)、手作りのマイクまで用意して、司会の言葉まで覚えて、何度もリハーサルを重ねてきた。娘は指導役である。教え方はなかなか根気が良い。私が練習をしていないと、厳しく練習を催促する。おかげで、ずいぶん練習させられた。ちなみに今回、夫は、唯一の観客兼カメラマンだった。

 予定より一時間遅れて、11時より「おうちはっぴょうかい」が始まった。最初は娘の「はじめのことば」、次に私の「きらきらぼし」と娘の「散歩(となりのトトロより)」のピアノ演奏、そして娘のプリキュアのダンス、娘へのインタビュー、最後に私の「おわりのことば」、全部で10分ほどの短いショーだった。

 私が司会の言葉を間違え、お辞儀を中途半端にした他は全て上手くいった。終わったとき、娘は「やり遂げた」という自信に満ちたすがすがしい表情をしていた。

 今回の休校は、彼女自身の企画のおかげで、有意義で楽しい時間になったようだ。どうやら、次の企画も考えて、やりたくてうずうずしているらしい。あの厳しい練習を考えると、私としてはしばらく間をあけてもらいたいところである。

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星野道夫『最後の楽園』(Michio’s Northern Dreams 3)を読む2009年05月24日

星野道夫『最後の楽園』(Michio’s Northern Dreams 3)
 『最後の楽園』は1996年にヒグマに襲われて急逝した写真家・星野道夫さんの写真と言葉を再編集したシリーズ「Michio’s Northern Dreams」の第三冊目である。英文のタイトルは“Last Eden”、星野さんがその魅力を追い続けたアラスカの自然、そして彼の思索の一片に触れることが出来る一冊だ。こんなにも美しい自然が、力強く生きる動物たちが、我々と同じ地球上に息づいていることに、気づかされる。
 
 星野さんは写真家で作家である。詩人のようでもある。その言葉の一つ一つがとても印象的で深い思想を感じさせる。例えばこんな言葉。
 
 一生のうちで、オオカミに出会える人は 
 ほんのひとにぎりにすぎないかもしれない。
 だが、出会える、出会えないは別にして、
 同じ地球上のどこかに
 オオカミのすんでいる世界があるということ、
 また、それを意識できるということは、
 とても貴重なことのように思える。
 
 私たちが日々関わる身近な自然の大切さとともに、
 なかなか見ること出来ない、
 きっと一生行くことが出来ない遠い自然の大切さを思うのだ。
 そこのまだ残っているということだけで心を豊かにさせる、
 私たちの想像力と関係がある意識の中の内なる自然である。
 
 これを読んだとき、我々がないがしろにしがちな「遠い自然」の大切さを、こんな風に表現できるなんて素晴らしいと思った。他にも、こんな言葉が印象的だった。
 
 考えてもごらん。
 たとえば、このツンドラに咲く花々を美しいと思い、
 一本の花を地面から引き抜く。
 なぜその花が抜かれ、隣の花が残ったのか。
 人生はそんな理不尽さに満ちあふれている。
 
 弱肉強食に見える自然界のなかにある偶然性、弱い者さえも包容する大きさ…星野さんの言葉は深い思考の末に絞り出される一滴の重さがある。そして時折、自分自身が考えつつも曖昧だった思いを的確に言葉にしてもらったような不思議な喜びを感じさせてくれる。いい本を見付けた。
 
読んだ本:星野道夫『最後の楽園』Michio’s Northern Dreams 3、(PHP研究所、2002) 
 
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中国・中華民国期、ミッション系大学の存在感2009年05月26日

 清末、中国に渡った宣教師は、彼等が所属する教会組織をバックに、中国の開国直後から、布教活動の一環としてミッションスクールと病院を開港地に次々と設立した。なかでも、中華民国時代におけるミッション系大学の存在感は大きい。

 ミッション系大学は、創設時ごく小規模に初等教育を行っていたのを、徐々に中等、高等教育まで幅を広げた場合が多かった。中には、燕京大学、聖約翰大学、斉魯大学等、全国レベルの名門となった大学もあり、中国近代史に残る優秀な人材を多く輩出した。その人気の秘密は…優秀な教師陣、英語教育、そして中国にいながらアメリカの学位を取得できるという優位性、等々の理由があったようである。

 曲士培『中国大学教育発展史』には、戦前の主なミッション系大学として、之江大学、聖約翰大学、斉魯大学、華中大学、東呉大学、嶺南大学、燕京大学、金陵大学、協和医学院、滬江大学、華南女子文理学院、華西協合大学、金陵女子大学、福州協和大学が紹介されている。但し、『中国大学教育発展史』は概説書としては大体のことを理解するには頼りになるのだが、教会学校についての説明は少々調べただけでも記述に間違いが少なくない。中華民国期の教会学校の研究書を探してみようと思っている。

参考:曲士培『中国大学教育発展史』(北京大学出版社、2006)

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