試行錯誤の「教育令」(1879年・明治12年)――日本の教育法令の歴史2 ― 2008年11月12日
11月7日の記事で述べたように日本初の「学制」は、欧米の教育法令等をモデルにした、身分や階層、男女の別なく教育の機会を与える近代的な内容であって、日本の近代教育の基礎を築いた法令であった。しかし一方で、政府の財政が厳しい時期で、制度的保証措置に欠陥があった。また、新しい教育体制を受け入れる側の社会の未熟さも、実施後明らかになっていった。
そのため、「学制」実施後の経験と批判を踏まえ、1877年ごろから文部省内で「学制」改正準備が始まる。1878年5月には文部省により改正案がまとまり「日本教育令」案として太政官に提出された。これに内務卿・伊藤博文が民権運動対策の観点から大幅な改正を加え、更に元老院での改正を経て、1879年・明治12年に公布されたのが「教育令」である。これにより「学制」は廃止になった。
この「教育令」はわずか47条で簡単な規定である。教育令は学制の画一的な中央集権生を改めて、教育の権限を大幅に地方に委ねる方針をとった。学制の基本であった学区制を廃止し、学校は町村を単位に設置、就学の義務についても厳しい督促をゆるめ、地方の実情に合わせることにした。なかでも内容は大きな変更が加えられた。小学校の修業期限を従来の8年を原則としながら4年まで短縮することが出来るとし、子どもたちはその4年間に最低限度16ヵ月就学すればよいと定めることで、子どもの就学により家庭の経費負担の軽減化を図るなど、当時の社会状況と民衆の要望とに妥協しうる最低レベルまで引き下げるもので、大きな後退といっていいだろう。
この改革は画一的と批判のあった学制の問題を解決し、自由民権の思想にも対処、更に国家財政の窮乏にも応ずる改革の筈だった。これは、理想主義の「学制」から、現実社会に適応することを重視した「教育令」へ大きな方針転換であった。 (2008年11月14日修正)
参考:海後宗臣/著 仲新/著 寺崎昌男/著『教科書でみる 近現代日本の教育』(東京書籍、1999)
佐藤秀夫『新訂 教育の歴史』(放送大学教材、放送大学教育振興会、2000)
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そのため、「学制」実施後の経験と批判を踏まえ、1877年ごろから文部省内で「学制」改正準備が始まる。1878年5月には文部省により改正案がまとまり「日本教育令」案として太政官に提出された。これに内務卿・伊藤博文が民権運動対策の観点から大幅な改正を加え、更に元老院での改正を経て、1879年・明治12年に公布されたのが「教育令」である。これにより「学制」は廃止になった。
この「教育令」はわずか47条で簡単な規定である。教育令は学制の画一的な中央集権生を改めて、教育の権限を大幅に地方に委ねる方針をとった。学制の基本であった学区制を廃止し、学校は町村を単位に設置、就学の義務についても厳しい督促をゆるめ、地方の実情に合わせることにした。なかでも内容は大きな変更が加えられた。小学校の修業期限を従来の8年を原則としながら4年まで短縮することが出来るとし、子どもたちはその4年間に最低限度16ヵ月就学すればよいと定めることで、子どもの就学により家庭の経費負担の軽減化を図るなど、当時の社会状況と民衆の要望とに妥協しうる最低レベルまで引き下げるもので、大きな後退といっていいだろう。
この改革は画一的と批判のあった学制の問題を解決し、自由民権の思想にも対処、更に国家財政の窮乏にも応ずる改革の筈だった。これは、理想主義の「学制」から、現実社会に適応することを重視した「教育令」へ大きな方針転換であった。 (2008年11月14日修正)
参考:海後宗臣/著 仲新/著 寺崎昌男/著『教科書でみる 近現代日本の教育』(東京書籍、1999)
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