中国・清末、初めての官費アメリカ留学生団結成の経緯2009年06月12日

 容閎『西学東漸記』から、中国における最初の官費によるアメリカ留学生派遣の経緯をまとめておこうと思う。

 容閎がアメリカ留学生派遣を志したのは、イエール大学時代であった。以来提唱の機会を待ち続けた。最初に訪れた機会は、1868年、丁日昌の紹介で満州人の大臣・文祥にこの教育計画を含む4条(留学生派遣以外にも、中国人の汽船会社の設立、国内鉱業資源の開発、ローマ教会による信者に対する一切の司法権の行使の禁止を盛り込んだ建白書を提出したときだった。曽国藩の支持も得て、丁日昌の協力を得たにも関わらず、この時は文祥が母親逝去による服喪に入ってしまい、実現を見なかったという。次に訪れた機会は1870年「天津教案」(次項を参照)解決の場であった。この事件の解決のために曽国藩や丁日昌等が勅命をもって委員(と表現されている)に任命され、容閎は丁日昌から現地で通訳として一働きするようにとの電報を受け取った。容閎は委員諸公の参集を機会に、丁日昌が委員会で教育計画を提案するよう働きかけ、丁日昌がこれに応えて全面的に協力したおかげで、委員全員の連名で建白書の上奏にこぎ着けたのである。そして1870年の冬、連署の上奏文に対する裁可の勅命が届き、留学計画は現実のものとなる。

 学生派遣の詳細は、容閎が曽国藩の招きに応じて南京に赴いたときに決定された。教育上の管理は二人の監督者、陳蘭彬と容閎が担当することになった。陳蘭彬の職責はアメリカ滞在中留学生の中国文の知識を維持させることにあり、容閎の職責は留学生の外国で受ける教育を監視し、かれらに適当な住居を世話してやることにあった。中国文の授業をするために、二人の中国人教授が同行、留学団付きの通訳一人の随行も決められた。他にも、留学前に通学する予備校を設立すること、選抜留学生を120名とすること、留学年限を15年とすること等も決められた。留学費用については、政府当局が留学期間中の経費の全額支給を保証し、政府出資金は一人の中国人教授に引率されて渡米する各期の学生団にそれぞれ配当され、また各期の学生団には適当な支度金が支給されるという仕組みになっていた。

 志願者の資格は、年齢を12歳以上16歳以下とすること、信望のある両親、徳望のある保護者の保証を要すること、身体検査と一定の基準による中国文の読み書きの試験(英国人の大学に在学している場合は英語の試験)に合格しなくてはならないこと、留学候補者に採用されたものはすべて毎日予備校に通学し、中国文の学習を継続するかたわら英語の勉強を始めるか、あるいは前からの英語の学習を継続すること、合衆国へ出発する前に少なくとも一年間はこの予備校で教育を受けるべきことが必要とされた。

 実際のところ、この留学生募集は困難であったようである。第一期の学生を充足させる為、容閎は香港まで行って(注釈によれば1972年初め頃)、イギリス国立学校を訪ね、英文と中文とをある程度兼習した少数の出来の良い生徒を選びだしたエピソードを容閎は同書で紹介している。最初の内、予備校入学志願者はほとんどなかったらしい。注釈によれば、当初は規則の第12条に「上海、寧波、福建広東などの処」から選抜とあったが、修正されて満州八旗の子弟も募集対象となった事情が影響したのか、120名の出身の内訳は、容閎の郷里・香山県の39名を含む広東省本籍者は83名、次に多いのが江蘇省の22名、その他は上海の9名、浙江省8名、安徽省4名、福建省2名、山東省1名であった。華北出身者は厳密には山東省の一人ということになるが、実際は天津で募集に応じた者が26名おり、これは当時北洋大臣であった李鴻章の働きかけに応じて志願した者であったらしい。

 以上の経緯から、容閎の「学制教育計画」は、容閎のねばり強い計画提唱に加え、それを支えた曽国藩、丁日昌、李鴻章の賛同、協力があって実現したことが分かる。それにしても、140年も前の留学派遣について、これだけ詳細に分かるのは実に有り難いことである。(修正:2009年6月14日)

読んだ本:容閎・著/百瀬弘・訳注/坂野正高・解説『西学東漸記』(東洋文庫、平凡社、1969年)

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