中国・清末から中華民国の名門女子校・聖マリア女学校(聖瑪利亜女校、St. Mary’s Hall)2009年07月03日

 1881年、聖約翰書院(St. John's College、セント・ジョーンズ学院)の構内北側に、女子校・聖瑪利亜書院(St. Mary’s Hall、聖マリア女学校)が併設された。これは上海にアメリカ聖公会の二つの女子校、文紀女学(Emma Jones School、1851年)と裨文女学(Bridgman Girl School、1861年)を合併して設立された寄宿制の女子校である。聖マリア女学校は「聖校」「SMH」と呼ばれていた。

 初代の校長は黄素娥女史(在任:1881-1890)、アメリカ聖公会で初めて洗礼を受け牧師となった中国人・黄光彩の長女である。詳しくはわからないが、彼女の母親もまたアメリカ聖公会で初めて洗礼を受けた中国女性であるらしい。黄素娥女史は、後に聖約翰書院の第二代学長フランシス・L・H・ポット(Francis Lister Hawks Pott、中国名:卜舫済)と結婚している。

 聖校の創設期、学費は無償であったが、入学者が信者の子女のみに限られていたこともあって、学生は28名であった。学習内容は、中文、聖書、英語、女紅(家庭科のようなもの。家事、裁縫等)といった簡単なものであったらしい。1900年に初めての卒業式が行われたとき、卒業生は朱静貞、一人だけであった。

 1900年以降、聖校は大きく発展する。校舎を拡充、外部学生の募集および学費徴収を開始した。毎学期80元、一年分の学費は普通の労働者(といってもおそらくホワイトワーカーだろう)の10ヶ月分だったというから、高額である。

 また、英文部、中文部、音楽部を設立し、特に英文部に重点をおいて特色を出し、人気を博すようになる。1908年には師範科、1924年には実習小学を設立している。(師範科と実習小学は1937年の日中戦争の勃発で閉鎖)学生は全員寄宿生活を送り、一か月一回しか帰宅を許されなかった。一ヶ月一回の帰宅日には迎えの車が門前に列をなしたという。校則は厳しく、例えば一ヶ月に一回の帰宅も、決められた時間を5分過ぎただけで、次回の帰宅は許可されなかった、という話もある。学習面では、英語とピアノの教育に重点が置かれた。両親にとっては娘を安心して預けることが出来る、中上流階級の花嫁教育に理想的な学校とみなされていたらしい。

 聖瑪利亜書院から、後に聖瑪利亜女校、聖瑪利亜女中と改称したこの学校は、同じくミッション系の「中西女中」と並んで、中華民国期においては、富豪や名門の子女も通う当時の中上流階級憧れの名門女子校となった。そして徐々に上流階級の子女教育にふさわしいカリキュラムへと変わっていった。1952年、中西女中と聖瑪利亜女中は合併、ミッション系女学校としての歴史はここに幕を閉じる。学校としては、上海市第三女子中学として、現在に至っている。

参考:聖マリア女学校卒業生による紹介(上海市第三女子中学教育科研網)
凌励立「聖瑪利亜女中校史」 http://www.ssnz.sh.cn/girleducationstudy/7/smly/1lll.htm 他


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