篤姫ゆかりの地4――維新の志士を育てた郷中教育の実際 ― 2008年09月24日
篤姫ツアーで鹿児島に行った際、何度か耳にした気になる言葉、それが郷中教育(ごじゅうきょういく)である。薩摩藩から明治維新を担う人材を多く輩出したという郷中教育(ごじゅうきょういく)とはどのようなものだったのだろうか。
「郷中教育」は、薩摩藩独特の藩士子弟の地域・郷中(ごじゅう)単位の教育法、いわば、先輩が後輩を教えるという形で、学問と武芸を学ぶ仕組みである。小稚児(こちご)、長稚児(おさちご)と二才(にせ)に分けられ、長稚児が小稚児を指導し、二才が長稚児を指導した。稚児とは元服前の6、7歳から13、4歳の少年達であり、二才は14、5歳から23、4歳の元服を終えた青年たちである。
稚児は早朝から行動を共にし、稚児頭の命に従って、相撲、大将防ぎなどをしたり、示現流剣術の稽古を行ったり、日時を決めて、二才の監督のもと、四書五経や『太平記』『忠臣蔵』などを学んだという。
大河ドラマ「篤姫」では、西郷さんや大久保さんとその他の仲間が寺の境内のようなところに集まって稽古し、時に議論したりしていたが、あれは「郷中教育」を念頭に撮影したシーンなのだろう。郷中の仲間は、長幼の序・先輩後輩の関係が厳格である一方で、兄弟のように親密な関係であったらしい。
孫引きだが…『郷中教育』の著者・村野守治氏によれば「郷中教育」は、4つの特徴があるという。第一に島津忠良(日新)の『いろは歌』の「古えの道を聞いても唱えてもわが行ないにせずば甲斐なし」にあるような、学んだことを実践する教育であり、第二に地域社会が自発的に実施した集団教育であり、第三に年齢集団的な段階的教育であり、第四に「山坂達者」を志向した鍛錬教育である、という。元々、16世紀末の朝鮮出兵に際し、留守をあずかった新納忠元が忠良の故事にならい、子弟達に話し合い仲間(咄相中)を結成させ、みずから士道を錬磨させたことに始まると伝えられる。
ところで…『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、
郷中(ごじゅう)教育は
・武士道の義を実践せよ
・心身を鍛錬せよ
・嘘を言うな
・負けるな
・弱いものいじめをするな
・質実剛健たれ
・たとえ僅かでも女に接することも、これを口上にのぼらせることも一切許さない
・金銭利欲にかんする観念をもっとも卑しむこと
などからなる、そうだ。この規則からは、郷中教育が、思想教育的な面も担っていたことが分かる。
それにしても、女性とは接することはもちろん口にすることさえ許されないのだから…男尊女卑の根強い薩摩のことでもあり…篤姫が男装したり、肝付尚五郎と友人になったり、ましてや西郷や大久保と話したり…ということは、やはりドラマの中だけの話なのである。
参考:
中村明蔵『薩摩民衆支配の構造』(南方新社、2000)
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「郷中教育」は、薩摩藩独特の藩士子弟の地域・郷中(ごじゅう)単位の教育法、いわば、先輩が後輩を教えるという形で、学問と武芸を学ぶ仕組みである。小稚児(こちご)、長稚児(おさちご)と二才(にせ)に分けられ、長稚児が小稚児を指導し、二才が長稚児を指導した。稚児とは元服前の6、7歳から13、4歳の少年達であり、二才は14、5歳から23、4歳の元服を終えた青年たちである。
稚児は早朝から行動を共にし、稚児頭の命に従って、相撲、大将防ぎなどをしたり、示現流剣術の稽古を行ったり、日時を決めて、二才の監督のもと、四書五経や『太平記』『忠臣蔵』などを学んだという。
大河ドラマ「篤姫」では、西郷さんや大久保さんとその他の仲間が寺の境内のようなところに集まって稽古し、時に議論したりしていたが、あれは「郷中教育」を念頭に撮影したシーンなのだろう。郷中の仲間は、長幼の序・先輩後輩の関係が厳格である一方で、兄弟のように親密な関係であったらしい。
孫引きだが…『郷中教育』の著者・村野守治氏によれば「郷中教育」は、4つの特徴があるという。第一に島津忠良(日新)の『いろは歌』の「古えの道を聞いても唱えてもわが行ないにせずば甲斐なし」にあるような、学んだことを実践する教育であり、第二に地域社会が自発的に実施した集団教育であり、第三に年齢集団的な段階的教育であり、第四に「山坂達者」を志向した鍛錬教育である、という。元々、16世紀末の朝鮮出兵に際し、留守をあずかった新納忠元が忠良の故事にならい、子弟達に話し合い仲間(咄相中)を結成させ、みずから士道を錬磨させたことに始まると伝えられる。
ところで…『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、
郷中(ごじゅう)教育は
・武士道の義を実践せよ
・心身を鍛錬せよ
・嘘を言うな
・負けるな
・弱いものいじめをするな
・質実剛健たれ
・たとえ僅かでも女に接することも、これを口上にのぼらせることも一切許さない
・金銭利欲にかんする観念をもっとも卑しむこと
などからなる、そうだ。この規則からは、郷中教育が、思想教育的な面も担っていたことが分かる。
それにしても、女性とは接することはもちろん口にすることさえ許されないのだから…男尊女卑の根強い薩摩のことでもあり…篤姫が男装したり、肝付尚五郎と友人になったり、ましてや西郷や大久保と話したり…ということは、やはりドラマの中だけの話なのである。
参考:
中村明蔵『薩摩民衆支配の構造』(南方新社、2000)
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
戦前の国定教科書「ハナハト本」と「サクラ読本」を読む ― 2008年09月21日

博物館のミュージアムショップで戦前の国定教科書の復刊本を見つけた。戦前の国定教科書は、第一学年の国語教科書の最初の頁にちなみ「イエスシ本」「ハタタコ本」「ハナハト本」「サクラ読本」「アサヒ本」の通称がある。今回手にしたのは1917年・大正6年発行の『国語読本』巻一の「ハナハト本」、及び1932年・昭和7年発行の『小学国語読本』巻一=「サクラ読本」である。中国の古い教科書はいつも見ているけれども、日本の教科書の方は新鮮で思わず購入してしまった。
二冊を比べると…『国語読本』巻一=「ハナハト本」は大正デモクラシーの影響を受けた教科書で、灰白色の表紙に、挿絵も線画で描かれた黒一色刷りである。「ハナ ハト マメ マス」という単語から始まり、子供の生活に身近なものから教材をとった内容が大半を占める。「ハナハト本」の由来でもある「ハナ」、イラストをみると明らかに桜である。他に「さるかに合戦」「桃太郎」が掲載されている。『教科書でみる近現代日本の教育』によれば「ハナハト本」も「ハタタコ本」と比べると国家的・軍事的な色調が濃くなっているそうで、「桃太郎の内容も単純な童話から鬼征伐に力点をおくものとなり、桃太郎のもつ扇も桃の絵から[日の丸]に変わっている」らしい。それでも巻一に限って言えば、目立って国家的・軍事的ということはない。
一方、『小学国語読本』巻一=「サクラ読本」は世界的な新教育思想の影響を受けた教科書で、薄茶色の表紙に、多色刷りの絵を用いている。特に巻頭の「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」という文章から始まり、サクラが野山に咲く様子が描かれ華やかな印象である。この「サクラ読本」は巻一でも国家的・軍事的な教材が目立つのが特徴だ。「サクラ読本」の名前の由来となったサクラにしても、日本の国花であるし、「オヒサマ アカイ アサヒ ガ アカイ」から更に大きな国旗が掲げられた「ヒノマル ノ ハタ バンザイ バンザイ」に発展するなど、国家の象徴としての朝日と日の丸が登場し、それらは客観的な説明はなしに、子供の言葉で讃えられる。更に「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」にはじまり、「タラウサン ガ、 グンカン ノ エ ヲ カキマシタ。」「ハナコサン ガ、 フジサン ノ エ ヲ カキマシタ。」「ヒカウキ、ヒカウキ、アヲイ ソラ ニ、ギン ノ ツバサ。ヒカウキ ハヤイ ナ。」といった軍事的な教材もすでに導入されている。前述の桃太郎の教材も11頁から22頁へと長くなっている。
考えてみれば、「サクラ読本」が発行された1932年は上海事変が起きた年であり、また前年の柳条湖事件に端を発し関東軍が満州全土を占領して満州国を建国した年でもある。この時期、教科書はすでに国民を戦争へ駆り立てる道具として機能していたのである。
読んだ本:尋常小学『国語読本』巻一(「ハナハト本」・大正6年、文部省)復刊本(発行:久保企画)
尋常科用『小学国語読本』巻一(「サクラ読本」・昭和7年、文部省)復刊本(発行:久保企画)
海後宗臣・仲 新・寺崎昌男『教科書でみる近現代日本の教育』(東京書籍、1999)
入江曜子『日本が「神の国」だった時代-国民学校の教科書をよむ-』(岩波新書、2001)
二冊を比べると…『国語読本』巻一=「ハナハト本」は大正デモクラシーの影響を受けた教科書で、灰白色の表紙に、挿絵も線画で描かれた黒一色刷りである。「ハナ ハト マメ マス」という単語から始まり、子供の生活に身近なものから教材をとった内容が大半を占める。「ハナハト本」の由来でもある「ハナ」、イラストをみると明らかに桜である。他に「さるかに合戦」「桃太郎」が掲載されている。『教科書でみる近現代日本の教育』によれば「ハナハト本」も「ハタタコ本」と比べると国家的・軍事的な色調が濃くなっているそうで、「桃太郎の内容も単純な童話から鬼征伐に力点をおくものとなり、桃太郎のもつ扇も桃の絵から[日の丸]に変わっている」らしい。それでも巻一に限って言えば、目立って国家的・軍事的ということはない。
一方、『小学国語読本』巻一=「サクラ読本」は世界的な新教育思想の影響を受けた教科書で、薄茶色の表紙に、多色刷りの絵を用いている。特に巻頭の「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」という文章から始まり、サクラが野山に咲く様子が描かれ華やかな印象である。この「サクラ読本」は巻一でも国家的・軍事的な教材が目立つのが特徴だ。「サクラ読本」の名前の由来となったサクラにしても、日本の国花であるし、「オヒサマ アカイ アサヒ ガ アカイ」から更に大きな国旗が掲げられた「ヒノマル ノ ハタ バンザイ バンザイ」に発展するなど、国家の象徴としての朝日と日の丸が登場し、それらは客観的な説明はなしに、子供の言葉で讃えられる。更に「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」にはじまり、「タラウサン ガ、 グンカン ノ エ ヲ カキマシタ。」「ハナコサン ガ、 フジサン ノ エ ヲ カキマシタ。」「ヒカウキ、ヒカウキ、アヲイ ソラ ニ、ギン ノ ツバサ。ヒカウキ ハヤイ ナ。」といった軍事的な教材もすでに導入されている。前述の桃太郎の教材も11頁から22頁へと長くなっている。
考えてみれば、「サクラ読本」が発行された1932年は上海事変が起きた年であり、また前年の柳条湖事件に端を発し関東軍が満州全土を占領して満州国を建国した年でもある。この時期、教科書はすでに国民を戦争へ駆り立てる道具として機能していたのである。
読んだ本:尋常小学『国語読本』巻一(「ハナハト本」・大正6年、文部省)復刊本(発行:久保企画)
尋常科用『小学国語読本』巻一(「サクラ読本」・昭和7年、文部省)復刊本(発行:久保企画)
海後宗臣・仲 新・寺崎昌男『教科書でみる近現代日本の教育』(東京書籍、1999)
入江曜子『日本が「神の国」だった時代-国民学校の教科書をよむ-』(岩波新書、2001)
戦時教育の実際『軍国少年はこうして作られた』 ― 2008年09月19日

先日、鹿児島の知覧特攻平和会館で帖佐勉『軍国少年はこうして作られた』(南方新社、2008)を見つけた。ミュージアムショップの店頭で何気なく手にとってみて驚いた。この本に掲載されている戦時教育の史料は、50点あまり。教科書、戦時のテスト問題、習字、作文とその評価、図画などである。
宿題プリントには、尋常科一年の教科書『小学国語読本 巻一』の「ススメススメ ヘイタイススメ」を写したものがある。習字には「ハタ」「日本ばんざい」「弓矢たち」(←「たち」は恐らく「太刀」のことだろう)「戦争軍旗大砲」「銃後職場奉公」「赤十字傷病兵」「銃とる気持で鍬とり増産」「軍功感状上聞」他いろいろと載っている。図画にも戦争色が濃い。飛行機、戦車、訓練の様子、軍艦、日の丸の旗、空に浮かぶ凧まで日の丸一色である。唱歌も見事に戦争と天皇崇拝で彩られ、文集でも「戦地の兵隊さんへ」というコラムに子ども達の手紙が載せられ「ヘイタイサンモゲンキニシテ、テキノワルイヤツヲコロシテクダサイ。」などと綴られている。この本によって、戦時、幼い子供の心に、基礎教育を通して徐々に擦り込まれたもの、その実情を垣間見ることができたように思う。
これほど充実した戦時教育の史料、これらは、他でもない著者の帖佐勉(ちょうさ つとむ)氏自身のもので、母親が保管していたものだという。元教師でもある帖佐氏、ご自身にとって苦い思い出の品々を、よくぞ公開してくださったものである。なんといっても、書名にある「軍国少年」は帖佐氏自身であるのだから。
報道によれば「帖佐さんは戦時下の教育の実態を伝える活動を30年続けている。教育基本法改正などで教育の国家統制が強まっていると危機感を覚え、出版を企画した」という。帖佐氏は「特に現場の教師に読んでほしい。上から与えられた内容をよく考えず子どもにたたき込む時代を繰り返してはならない」と訴えている。
読んだ本:帖佐勉『軍国少年はこうして作られた』(南方新社、2008)
参考:“軍国少年”の記録出版 鹿児島市の帖佐さん――「教育統制」に危機感(南日本新聞HP)http://373news.com/modules/pickup/article.php?storyid=10492
宿題プリントには、尋常科一年の教科書『小学国語読本 巻一』の「ススメススメ ヘイタイススメ」を写したものがある。習字には「ハタ」「日本ばんざい」「弓矢たち」(←「たち」は恐らく「太刀」のことだろう)「戦争軍旗大砲」「銃後職場奉公」「赤十字傷病兵」「銃とる気持で鍬とり増産」「軍功感状上聞」他いろいろと載っている。図画にも戦争色が濃い。飛行機、戦車、訓練の様子、軍艦、日の丸の旗、空に浮かぶ凧まで日の丸一色である。唱歌も見事に戦争と天皇崇拝で彩られ、文集でも「戦地の兵隊さんへ」というコラムに子ども達の手紙が載せられ「ヘイタイサンモゲンキニシテ、テキノワルイヤツヲコロシテクダサイ。」などと綴られている。この本によって、戦時、幼い子供の心に、基礎教育を通して徐々に擦り込まれたもの、その実情を垣間見ることができたように思う。
これほど充実した戦時教育の史料、これらは、他でもない著者の帖佐勉(ちょうさ つとむ)氏自身のもので、母親が保管していたものだという。元教師でもある帖佐氏、ご自身にとって苦い思い出の品々を、よくぞ公開してくださったものである。なんといっても、書名にある「軍国少年」は帖佐氏自身であるのだから。
報道によれば「帖佐さんは戦時下の教育の実態を伝える活動を30年続けている。教育基本法改正などで教育の国家統制が強まっていると危機感を覚え、出版を企画した」という。帖佐氏は「特に現場の教師に読んでほしい。上から与えられた内容をよく考えず子どもにたたき込む時代を繰り返してはならない」と訴えている。
読んだ本:帖佐勉『軍国少年はこうして作られた』(南方新社、2008)
参考:“軍国少年”の記録出版 鹿児島市の帖佐さん――「教育統制」に危機感(南日本新聞HP)http://373news.com/modules/pickup/article.php?storyid=10492
インターネット特別展「公文書に見る岩倉使節団」を見て ― 2008年09月12日
アジア歴史資料センターのHPでインターネット特別展「公文書にみる岩倉使節団」を見つけ、早速見てみた。時代背景の解説、使節団が辿ったルートを紹介した地図、使節団の主要メンバー、年表、そして何と言っても貴重な史料の数々を写真やマイクロで、岩倉使節団を知ることが出来る、見応え・読み応えのある特別展である。
先頃読んだ『明治六年政変』では「岩倉使節団」について、大久保や木戸にとっては政治上失敗であったという見解であって、意外な感じがしたものだが、その視点も持っていたおかげで、この特別展を十二分に楽しめた。
HPの説明によれば、アジア歴史資料センターは、国立公文書館、外務省外交史料館、防衛省防衛研究所図書館が保管するアジア歴史資料のうち、デジタル化が行われたものから順次公開しているという。しかも、「いつでも」「だれでも」「どこでも」「無料で」史料閲覧と印刷、画像ダウンロードができる、というとってもありがたいサービスである。
なお「公文書に見る岩倉使節団」の他にも「条約と御署名原本に見る近代日本史」「公文書にみる日米交渉」「公文書にみる日露戦争」「『写真週報』にみる昭和の世相」等の特別展を行っている。ここで紹介されているのは、博物館の特別展では、ガラス張りの箱に入っていて、触ることも叶わない貴重な史料である。それをWeb上で一頁一頁めくって内容を確認できるのが素晴らしい。どれも見応えのある内容のようだ。専門外のことについて一次史料をみるのは、なかなか叶わないことであるが、こういう形で本物を見ることが出来るのは、なんと幸せなことだろう。
アジア歴史資料センターHP http://www.jacar.go.jp/
インターネット特別展「公文書にみる岩倉使節団」 http://www.jacar.go.jp/iwakura/index2.html
先頃読んだ『明治六年政変』では「岩倉使節団」について、大久保や木戸にとっては政治上失敗であったという見解であって、意外な感じがしたものだが、その視点も持っていたおかげで、この特別展を十二分に楽しめた。
HPの説明によれば、アジア歴史資料センターは、国立公文書館、外務省外交史料館、防衛省防衛研究所図書館が保管するアジア歴史資料のうち、デジタル化が行われたものから順次公開しているという。しかも、「いつでも」「だれでも」「どこでも」「無料で」史料閲覧と印刷、画像ダウンロードができる、というとってもありがたいサービスである。
なお「公文書に見る岩倉使節団」の他にも「条約と御署名原本に見る近代日本史」「公文書にみる日米交渉」「公文書にみる日露戦争」「『写真週報』にみる昭和の世相」等の特別展を行っている。ここで紹介されているのは、博物館の特別展では、ガラス張りの箱に入っていて、触ることも叶わない貴重な史料である。それをWeb上で一頁一頁めくって内容を確認できるのが素晴らしい。どれも見応えのある内容のようだ。専門外のことについて一次史料をみるのは、なかなか叶わないことであるが、こういう形で本物を見ることが出来るのは、なんと幸せなことだろう。
アジア歴史資料センターHP http://www.jacar.go.jp/
インターネット特別展「公文書にみる岩倉使節団」 http://www.jacar.go.jp/iwakura/index2.html
篤姫ゆかりの地3――西郷隆盛と征韓論・明治六年政変・西南戦争 ― 2008年09月07日

鹿児島で圧倒的な存在感を誇る人物といえば、西郷隆盛である。鹿児島県霧島市・西郷公園の10.5メートルもある大仏みたいな西郷隆盛像にせよ、西郷隆盛を神様として祭った南州神社にせよ、鹿児島における西郷隆盛は神様・仏様並みの扱いだ。今回の「篤姫」ツアーには西郷隆盛が葬られている南州神社・南州墓地・南州顕彰館も組み込まれていた。「南州」とは西郷隆盛の号である。
私自身は、西郷さんについては、長い間、歴史の授業・教科書で習った内容に加え、司馬遼太郎の『翔ぶが如く』のイメージが強かった。だから、明治六年、西郷隆盛や江藤新平が下野したのは、征韓論で政府が分裂したことによるもので、西郷さんが野に下り、士族に祭り上げられて西南戦争に至ったと単純に信じていたのだが…異論がいろいろと有るらしいことを、添乗員さんに教えて貰った。西郷隆盛が唱えていたのが征韓論ではなく遣韓論であったことなど…である。
そこで帰宅してから毛利敏彦『明治六年政変』を読んでみた。毛利氏は明治六年政変について、岩倉使節団の政治的失敗と期間延長という誤算による、留守政府との乖離がなかったら起きなかったであろう、としている。一方、征韓論の方も、李氏朝鮮が明治政府との国交再開を非礼なやり方で断ってきたことから、武力による開国・征韓論を主張する者が出る中で、西郷はむしろ板垣等の過激な意見を諫め、平和的に李氏朝鮮と国交再開及び開国交渉にのぞむべく、自ら使者として朝鮮へ赴こうとしていたといい、公式の場で朝鮮出兵を主張したことはないという。ただ、板垣宛書簡において、板垣の主戦論を抑える為の方便として述べた「暴殺」を望むかのような表現が一人歩きして、征韓論の主唱者とされてしまったというのである。「朝鮮への使節派遣を強力に唱えた西郷の真意は、むしろ交渉によって、朝鮮国との修交を期すことであった」と毛利氏は述べ、そして明治六年の政変については、長州閥と大久保によるクーデターであって、征韓の阻止を目的とするものではなく、「西郷を巻き添えにしてでも反対派を政府から追い出すことを決意して」決行されたものである、という見解を示している。
他にも、今回旅先で購入した西郷の逸話を集めた西田実『大西郷の逸話』、この本は勝海舟等西郷を個人的に知る人物の回想、手紙等の文献史料、更に広く民間の逸話などを集め、西郷さんの人間像を浮き彫りにしようとしているものだが…数々のエピソードを列挙して、西郷が征韓論の主唱者ではないことを述べている。
併せて小川原正道『西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦』を読むと、西南戦争では西郷は盟主とされながらも結果として表に出てきていないことなど、意外な事実が分かってきた。
明治六年政変は、1873年、いまから135年前に起きた出来事である。近代史の範疇であって、多くの人が関わり、近代日本最後の内乱・西南戦争の一因となった明治六年政変について、また政変の発端となった征韓論について、歴史の常識とされている内容に疑問を投げかける余地があったことが意外だったが、またそれが非常に説得力のある内容であったことに驚いた。但し、毛利氏の説は歴史学界で一定の支持を集めたようだが、定説になるには至っていない。
考えてみれば、西郷隆盛は島津斉彬に見出され、その思想の影響を受けた人物である。島津斉彬は、列強の脅威に対抗しうる日中韓同盟を視野に入れた壮大な日本近代化構想を持っており、慶喜を将軍にして公武親和による中央集権体制への移行をはかり、開国、富国強兵をすすめようとしていた。篤姫の将軍家輿入れもその計画の一環であったはずだ。その西郷が征韓論ではなく、遣韓論を主張したとしたら、それはとても自然であるような気がする。日本の近代史を理解する為に、もう少し関連書を読んでみようと思っている。
読んだ本:毛利敏彦『明治六年政変』(中公新書、1979)
西田実『大西郷の逸話』(南方新社、2005)
小川原正道『西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦』(中公新書、2007)
私自身は、西郷さんについては、長い間、歴史の授業・教科書で習った内容に加え、司馬遼太郎の『翔ぶが如く』のイメージが強かった。だから、明治六年、西郷隆盛や江藤新平が下野したのは、征韓論で政府が分裂したことによるもので、西郷さんが野に下り、士族に祭り上げられて西南戦争に至ったと単純に信じていたのだが…異論がいろいろと有るらしいことを、添乗員さんに教えて貰った。西郷隆盛が唱えていたのが征韓論ではなく遣韓論であったことなど…である。
そこで帰宅してから毛利敏彦『明治六年政変』を読んでみた。毛利氏は明治六年政変について、岩倉使節団の政治的失敗と期間延長という誤算による、留守政府との乖離がなかったら起きなかったであろう、としている。一方、征韓論の方も、李氏朝鮮が明治政府との国交再開を非礼なやり方で断ってきたことから、武力による開国・征韓論を主張する者が出る中で、西郷はむしろ板垣等の過激な意見を諫め、平和的に李氏朝鮮と国交再開及び開国交渉にのぞむべく、自ら使者として朝鮮へ赴こうとしていたといい、公式の場で朝鮮出兵を主張したことはないという。ただ、板垣宛書簡において、板垣の主戦論を抑える為の方便として述べた「暴殺」を望むかのような表現が一人歩きして、征韓論の主唱者とされてしまったというのである。「朝鮮への使節派遣を強力に唱えた西郷の真意は、むしろ交渉によって、朝鮮国との修交を期すことであった」と毛利氏は述べ、そして明治六年の政変については、長州閥と大久保によるクーデターであって、征韓の阻止を目的とするものではなく、「西郷を巻き添えにしてでも反対派を政府から追い出すことを決意して」決行されたものである、という見解を示している。
他にも、今回旅先で購入した西郷の逸話を集めた西田実『大西郷の逸話』、この本は勝海舟等西郷を個人的に知る人物の回想、手紙等の文献史料、更に広く民間の逸話などを集め、西郷さんの人間像を浮き彫りにしようとしているものだが…数々のエピソードを列挙して、西郷が征韓論の主唱者ではないことを述べている。
併せて小川原正道『西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦』を読むと、西南戦争では西郷は盟主とされながらも結果として表に出てきていないことなど、意外な事実が分かってきた。
明治六年政変は、1873年、いまから135年前に起きた出来事である。近代史の範疇であって、多くの人が関わり、近代日本最後の内乱・西南戦争の一因となった明治六年政変について、また政変の発端となった征韓論について、歴史の常識とされている内容に疑問を投げかける余地があったことが意外だったが、またそれが非常に説得力のある内容であったことに驚いた。但し、毛利氏の説は歴史学界で一定の支持を集めたようだが、定説になるには至っていない。
考えてみれば、西郷隆盛は島津斉彬に見出され、その思想の影響を受けた人物である。島津斉彬は、列強の脅威に対抗しうる日中韓同盟を視野に入れた壮大な日本近代化構想を持っており、慶喜を将軍にして公武親和による中央集権体制への移行をはかり、開国、富国強兵をすすめようとしていた。篤姫の将軍家輿入れもその計画の一環であったはずだ。その西郷が征韓論ではなく、遣韓論を主張したとしたら、それはとても自然であるような気がする。日本の近代史を理解する為に、もう少し関連書を読んでみようと思っている。
読んだ本:毛利敏彦『明治六年政変』(中公新書、1979)
西田実『大西郷の逸話』(南方新社、2005)
小川原正道『西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦』(中公新書、2007)
篤姫ゆかりの地2・鹿児島市をゆく ― 2008年09月05日

篤姫ツアー、最後の日は雨だった。午前中は、島津家の別邸であり、廃藩置県後は本邸ともなった仙巌園を、傘を差して散策した。ここでは「篤姫」の様々な場面が収録されたらしい。仙巌園の正門にはドラマ「篤姫」収録の写真が展示されていた。また、男装した於一が茶屋でお茶を飲んでいるところに、三兄・忠敬がやってくる場面、尚五郎と話ながら歩く場面、他…ドラマで見た場所を歩いた。島津斉彬の養女となった篤姫、島津斉彬ご自慢の集成館を説明してもらいながら回ったりしたのだろうか。
今回、娘が一番楽しみにしていたのは、立礼茶席「竹徑亭」の御抹茶である。篤姫の生家・今和泉島津家第11代の未亡人である島津和子さんがたててくださる御抹茶と和菓子をいただくと聞いてのことであった。たぶん篤姫の家族に会えると思ったのだろう。島津和子さんはこちらでお茶の指導をしているそうだ。このとき戴いたのは、うちわの形のお菓子と風鈴を焼き付けた干菓子のような風流なお菓子だった。
仙巌園は桜島を山、錦江湾を池に見立てた借景庭園である。錫門、江南竹林、日本で初めてガス灯をともした鶴灯籠、琉球の国王が献上したと伝えられる望嶽楼、曲水の庭、そして御殿…一つ一つにいわれもあり、出来ることならゆっくり回りたかったが、雨でもあり、集合時間もせまっていたので、軽く一周してそのまま島津家の資料を展示している尚古集成館へ赴いた。
尚古集成館には興味深い展示がたくさんあった。「集成館」とは「幕末、時の薩摩藩主であった島津斉彬は、アジアに進出して植民地化を進める西欧諸国の動きにいち早く対応するために、製鉄、造船、紡績等の産業をおこし、写真、電信、ガス灯の実験、ガラス、陶器の製造など、日本の近代化をリードする工業生産拠点」のことである。1923年(大正12年)より、集成館事業及び、それを進めた島津家の歴史の博物館になっている。以前紹介した『みんなの篤姫』の著者・寺尾美保さんはここの学芸員である。
こんな宝の山のようなところにきたのだから、展示も説明もじっくり見たかったのだが…娘はまだ一年生、暗い資料館があまり好きではないので…篤姫館ではずいぶん熱心だったから好きなものなら別だと思うが…急かされて、手を引っ張られて、あまりゆっくり見ることが出来なかった(_ _;)。せめてそれを補えるようにと『島津斉彬の挑戦-集成館事業-』という本を一冊購入、娘には篤姫と同じお守りをお土産にした。
さて、次に向かったのは於一の生家である今和泉島津家の本邸跡、そして篤姫誕生の地。鶴丸城。といっても車窓見学である。篤姫の生家の敷地は四千六百坪あったといい、場所は現在の鹿児島市大龍小学校の西隣、僅かに残っている石垣を見ることが出来た。
西郷隆盛を祭る南州神社、西南戦争の戦死者が眠る南州墓地、西郷隆盛の親筆を見ることが出来る南州顕彰館を見学。こちらで説明をしてくれたボランティアの方?は西南戦争には鹿児島人以外の武士が多く参加していたことを熱心に話してくれていた。南州顕彰館には小さな篤姫コーナーも設けられていた。
最後に訪れたのが、鹿児島市の「篤姫館」である。桜島を望むドルフィンポート内に開設されている。大河ドラマの篤姫の衣装を着て写真が撮れるとあって、人が沢山並んでいた。娘も私も記念に写真を撮った。娘はなかなか決まっていたが、私の方はイマイチ…。
篤姫にゆかりの地をめぐるツアーはこれで終わり。篤姫を堪能した二泊三日の旅を終えて帰途についた。鹿児島にはぜひもう一度来て、ゆっくり見学したい。その前に関連書を読んで今回疑問に思ったことなど勉強しておこうと思う。
今回、娘が一番楽しみにしていたのは、立礼茶席「竹徑亭」の御抹茶である。篤姫の生家・今和泉島津家第11代の未亡人である島津和子さんがたててくださる御抹茶と和菓子をいただくと聞いてのことであった。たぶん篤姫の家族に会えると思ったのだろう。島津和子さんはこちらでお茶の指導をしているそうだ。このとき戴いたのは、うちわの形のお菓子と風鈴を焼き付けた干菓子のような風流なお菓子だった。
仙巌園は桜島を山、錦江湾を池に見立てた借景庭園である。錫門、江南竹林、日本で初めてガス灯をともした鶴灯籠、琉球の国王が献上したと伝えられる望嶽楼、曲水の庭、そして御殿…一つ一つにいわれもあり、出来ることならゆっくり回りたかったが、雨でもあり、集合時間もせまっていたので、軽く一周してそのまま島津家の資料を展示している尚古集成館へ赴いた。
尚古集成館には興味深い展示がたくさんあった。「集成館」とは「幕末、時の薩摩藩主であった島津斉彬は、アジアに進出して植民地化を進める西欧諸国の動きにいち早く対応するために、製鉄、造船、紡績等の産業をおこし、写真、電信、ガス灯の実験、ガラス、陶器の製造など、日本の近代化をリードする工業生産拠点」のことである。1923年(大正12年)より、集成館事業及び、それを進めた島津家の歴史の博物館になっている。以前紹介した『みんなの篤姫』の著者・寺尾美保さんはここの学芸員である。
こんな宝の山のようなところにきたのだから、展示も説明もじっくり見たかったのだが…娘はまだ一年生、暗い資料館があまり好きではないので…篤姫館ではずいぶん熱心だったから好きなものなら別だと思うが…急かされて、手を引っ張られて、あまりゆっくり見ることが出来なかった(_ _;)。せめてそれを補えるようにと『島津斉彬の挑戦-集成館事業-』という本を一冊購入、娘には篤姫と同じお守りをお土産にした。
さて、次に向かったのは於一の生家である今和泉島津家の本邸跡、そして篤姫誕生の地。鶴丸城。といっても車窓見学である。篤姫の生家の敷地は四千六百坪あったといい、場所は現在の鹿児島市大龍小学校の西隣、僅かに残っている石垣を見ることが出来た。
西郷隆盛を祭る南州神社、西南戦争の戦死者が眠る南州墓地、西郷隆盛の親筆を見ることが出来る南州顕彰館を見学。こちらで説明をしてくれたボランティアの方?は西南戦争には鹿児島人以外の武士が多く参加していたことを熱心に話してくれていた。南州顕彰館には小さな篤姫コーナーも設けられていた。
最後に訪れたのが、鹿児島市の「篤姫館」である。桜島を望むドルフィンポート内に開設されている。大河ドラマの篤姫の衣装を着て写真が撮れるとあって、人が沢山並んでいた。娘も私も記念に写真を撮った。娘はなかなか決まっていたが、私の方はイマイチ…。
篤姫にゆかりの地をめぐるツアーはこれで終わり。篤姫を堪能した二泊三日の旅を終えて帰途についた。鹿児島にはぜひもう一度来て、ゆっくり見学したい。その前に関連書を読んで今回疑問に思ったことなど勉強しておこうと思う。
篤姫ゆかりの地・今和泉と指宿をゆく ― 2008年09月04日

今回「篤姫ツアー」に参加して、ガイドさんと添乗員さんの案内のもと、篤姫ゆかりの地を中心に回った。初めに指宿方面へ向かった。目的地は指宿篤姫館である。見学時間が30分だったので、あまりに短いように思ったが、主に篤姫の物語の説明や篤姫野部屋のセット、撮影に使った衣装や小道具を展示しており、他に、宮崎あおいさんが指宿にきたときの映像を流していた。小規模な展示ながら、篤姫のお部屋のセットで写真を撮ったり、あおいさんの映像をみたりして、楽しんだ。他に、砂蒸し風呂も娘と二人で体験してみた。「篤姫も砂蒸し風呂を楽しんでいたと思います」とガイドさんの台詞。なにしろ、篤姫ツアーですから(^^)砂蒸し風呂は江戸時代にはすでに行われていたと言う。別邸からも近いので篤姫もここを訪れていたと思うと、歴史の息吹も感じられて何だか楽しくなった。
そして翌日、今和泉島津家の別邸があった今和泉を地元のボランティアガイドさんの案内で歩いた。今和泉駅を経由して案内されたのは、まず…今和泉島津家の墓地。ここには篤姫の父親で今和泉家第五代当主・島津忠剛や第六代当主・長兄の忠冬が眠っている。篤姫の祖父にあたる斉宣(斉彬の祖父、篤姫の父・忠剛は7男。つまり篤姫と斉彬は従兄妹である)は薩摩藩の島津家第26代・第9代薩摩藩主だから、ここには眠っていない。母親のお幸の方とドラマでは篤姫と仲良しの三兄・忠敬は明治になってから亡くなった為、墓は鹿児島市内にあるそうだ。
この墓地で小さなハプニング。墓地には可愛い生まれたばかりの子猫がたくさんやってきて、警戒心無く足もとをウロウロするので、娘がこわがって泣き出してしまった。それで、墓地では娘がなきじゃくりながら背中にしがみついていたので…説明も聞けないし、娘も可哀想だし、困ってしまった。
お墓の後は豊玉媛神社まで歩いていった。篤姫も恐らく幼い頃に参拝しただろう、とのことだったが、記録に残っているわけではない。今回は時間が無いために回ってもらえなかったのだが、今和泉島津家の別邸は1754年(宝暦4年)につくられ、現在では今和泉小学校になっており、手水鉢や井戸が僅かにのこっている。
そういえば、ドラマでは仲の良い家族の姿が描かれて、お幸の方が於一に「於一は風の役割を考えたことがありますか?」「風があるから雲が動く、雲が集まって雨になる、雨が降るから木が育つ、木があるから火が燃える、木が燃えて風がおこる、この世のものにはみな役割があるのです」と諭す場面が印象的で、あれは今和泉の場面だったと思う。でも実は今和泉の別邸には父・忠剛の側室がいたので、お幸の方は来ることはなかったと言われている、とガイドさんは話していた。
今回、今和泉島津家、島津宗家ゆかりの地や資料館をめぐり、関係書を読んでみて、篤姫の幼少時代の記録といえるようなものは全くないことがわかった。生家・今和泉島津家の遺構さえもほとんど残っていない。考えてみれば、薩摩藩では御一門4家の名門出身ではあっても当時は家来の娘に過ぎなかったのだから、当たり前なのかも知れない。それをドラマに仕上げてしまうのだから、小説家の想像力は本当にすごい。
篤姫のおかげで、自然の美しい今和泉と指宿に行くことが出来て、いい思い出になった。
そして翌日、今和泉島津家の別邸があった今和泉を地元のボランティアガイドさんの案内で歩いた。今和泉駅を経由して案内されたのは、まず…今和泉島津家の墓地。ここには篤姫の父親で今和泉家第五代当主・島津忠剛や第六代当主・長兄の忠冬が眠っている。篤姫の祖父にあたる斉宣(斉彬の祖父、篤姫の父・忠剛は7男。つまり篤姫と斉彬は従兄妹である)は薩摩藩の島津家第26代・第9代薩摩藩主だから、ここには眠っていない。母親のお幸の方とドラマでは篤姫と仲良しの三兄・忠敬は明治になってから亡くなった為、墓は鹿児島市内にあるそうだ。
この墓地で小さなハプニング。墓地には可愛い生まれたばかりの子猫がたくさんやってきて、警戒心無く足もとをウロウロするので、娘がこわがって泣き出してしまった。それで、墓地では娘がなきじゃくりながら背中にしがみついていたので…説明も聞けないし、娘も可哀想だし、困ってしまった。
お墓の後は豊玉媛神社まで歩いていった。篤姫も恐らく幼い頃に参拝しただろう、とのことだったが、記録に残っているわけではない。今回は時間が無いために回ってもらえなかったのだが、今和泉島津家の別邸は1754年(宝暦4年)につくられ、現在では今和泉小学校になっており、手水鉢や井戸が僅かにのこっている。
そういえば、ドラマでは仲の良い家族の姿が描かれて、お幸の方が於一に「於一は風の役割を考えたことがありますか?」「風があるから雲が動く、雲が集まって雨になる、雨が降るから木が育つ、木があるから火が燃える、木が燃えて風がおこる、この世のものにはみな役割があるのです」と諭す場面が印象的で、あれは今和泉の場面だったと思う。でも実は今和泉の別邸には父・忠剛の側室がいたので、お幸の方は来ることはなかったと言われている、とガイドさんは話していた。
今回、今和泉島津家、島津宗家ゆかりの地や資料館をめぐり、関係書を読んでみて、篤姫の幼少時代の記録といえるようなものは全くないことがわかった。生家・今和泉島津家の遺構さえもほとんど残っていない。考えてみれば、薩摩藩では御一門4家の名門出身ではあっても当時は家来の娘に過ぎなかったのだから、当たり前なのかも知れない。それをドラマに仕上げてしまうのだから、小説家の想像力は本当にすごい。
篤姫のおかげで、自然の美しい今和泉と指宿に行くことが出来て、いい思い出になった。
かるかん・軽羹の源流を探る~鹿児島名物の歴史 ― 2008年09月02日
今回の鹿児島旅行では軽羹のもちもちした食感と上品な甘さ、おいしさに初めて目覚めた。ツアーに組まれていた昭和製菓の工場で試食した軽羹、娘も気に入って、美味しくいただいている。私の父が九州の出身だったせいか、子供の頃から何度も食しているはずだが、正直なところ美味しいと思ったことはなかった。思えば、流通が今ほど良くなかったので、本来美味しいお菓子も、私の家に運ばれるまでに日がたってパサパサになってしまっていたのだろう。
調べてみると、軽羹は江戸時代の高級なお菓子だったそうである。江戸中期・元禄時代の薩摩藩・島津家20代綱貴50歳の祝膳の記録に軽羹が記載されているそうだ。実は、以前は島津斉彬が江戸から招いた菓子職人が作ったもの、とされてきた。その経緯は、かるかん元祖・明石家のHPによれば、「薩摩藩主島津斉彬公は安政元年、江戸で製菓を業としていた播州明石の人、八島六兵衛翁を国元の鹿児島に連れてきた。江戸の風月堂主人の推挙により、その菓子づくりの技術と工夫に熱心なところを評価してのことであったという。六兵衛翁は性剛直至誠、鹿児島では「明石屋」と号して、藩公の知遇を得た。翁はここで薩摩の山芋の良質なことに着目し、これに薩摩の良米を配して研究を続け、「軽羹」を創製した。」という。
更に明石家HPでは、「軽羹」の名前の由来について、「羹」という字と、薩摩藩の献立が琉球の影響を強く受けていることから、中国系であろう、と推測している。字の解釈で考えれば、「羹」は「羮(あつもの)、とろみのあるスープ」の意味である。但し、中国北京の元代以来の伝統的な菓子「栗子羹」のように押し固めたもの、ゼリー状のものを指すこともある。この「栗子羹」は元々女真族や朝鮮半島の貴族の間で食べられていたお菓子であるらしい。
ところで、「軽羹」によく似ている菓子が中国と朝鮮半島にある。中国では「米糕」とよばれる中の「蒸糕」、朝鮮半島では「トッ」とよばれるなかの「チントッ」「シルトッ」がそれで、米の粉(米・うるち米・もち米)を使う蒸し菓子である。色とりどりだったり、ナッツやドライフルーツが入っていたり、きなこやごまがまぶしてあったりするので、一見全く別のものに見えるが、基本的な製法は同じである。シンプルなものについては、軽羹に非常によく似ている。特に朝鮮半島の「トッ」の歴史は古く、新羅時代(西暦676-935年)の壁画に描かれているそうだ。
参考:
明石屋HP(日本語)
「軽羹百話」 http://www.akashiya.co.jp/karukan100/index.html
「明石屋の軽羹」 http://www.akashiya.co.jp/karukan/index.html
北京小喫-栗子涼糕(中国語) http://news.fantong.com/specialtext/2006-12-26/784.html
韓国の伝統餅「トッ」を探る(日本語) http://www.konest.com/data/korean_life_detail.html?no=1953%E9%AC%A9%E6%90%BE%EF%BD%BD%EF%BD%B5%EF%BF%BD%EF%BD%BF%EF%BD%BD%EF%BF%BD%EF%BD%BD%EF%BD%BD%EF%BF%BD%EF%BD%BD%EF%BD%B2
調べてみると、軽羹は江戸時代の高級なお菓子だったそうである。江戸中期・元禄時代の薩摩藩・島津家20代綱貴50歳の祝膳の記録に軽羹が記載されているそうだ。実は、以前は島津斉彬が江戸から招いた菓子職人が作ったもの、とされてきた。その経緯は、かるかん元祖・明石家のHPによれば、「薩摩藩主島津斉彬公は安政元年、江戸で製菓を業としていた播州明石の人、八島六兵衛翁を国元の鹿児島に連れてきた。江戸の風月堂主人の推挙により、その菓子づくりの技術と工夫に熱心なところを評価してのことであったという。六兵衛翁は性剛直至誠、鹿児島では「明石屋」と号して、藩公の知遇を得た。翁はここで薩摩の山芋の良質なことに着目し、これに薩摩の良米を配して研究を続け、「軽羹」を創製した。」という。
更に明石家HPでは、「軽羹」の名前の由来について、「羹」という字と、薩摩藩の献立が琉球の影響を強く受けていることから、中国系であろう、と推測している。字の解釈で考えれば、「羹」は「羮(あつもの)、とろみのあるスープ」の意味である。但し、中国北京の元代以来の伝統的な菓子「栗子羹」のように押し固めたもの、ゼリー状のものを指すこともある。この「栗子羹」は元々女真族や朝鮮半島の貴族の間で食べられていたお菓子であるらしい。
ところで、「軽羹」によく似ている菓子が中国と朝鮮半島にある。中国では「米糕」とよばれる中の「蒸糕」、朝鮮半島では「トッ」とよばれるなかの「チントッ」「シルトッ」がそれで、米の粉(米・うるち米・もち米)を使う蒸し菓子である。色とりどりだったり、ナッツやドライフルーツが入っていたり、きなこやごまがまぶしてあったりするので、一見全く別のものに見えるが、基本的な製法は同じである。シンプルなものについては、軽羹に非常によく似ている。特に朝鮮半島の「トッ」の歴史は古く、新羅時代(西暦676-935年)の壁画に描かれているそうだ。
参考:
明石屋HP(日本語)
「軽羹百話」 http://www.akashiya.co.jp/karukan100/index.html
「明石屋の軽羹」 http://www.akashiya.co.jp/karukan/index.html
北京小喫-栗子涼糕(中国語) http://news.fantong.com/specialtext/2006-12-26/784.html
韓国の伝統餅「トッ」を探る(日本語) http://www.konest.com/data/korean_life_detail.html?no=1953%E9%AC%A9%E6%90%BE%EF%BD%BD%EF%BD%B5%EF%BF%BD%EF%BD%BF%EF%BD%BD%EF%BF%BD%EF%BD%BD%EF%BD%BD%EF%BF%BD%EF%BD%BD%EF%BD%B2
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