中国清末から民国、商務印書館が学校を経営した理由2008年09月25日

商務印書館附属・尚公学校の新校舎(1915-1932年)
 前述(http://youmei.asablo.jp/blog/2008/08/04/3672962)のように、近代における中国商務印書館の教科書出版の成功劇の裏側には日本の出版社・金港堂との合弁があった。その一方で附属学校開設により、自社出版物の質向上を図るという経営努力も行われており、それは中国の近代教育のレベルアップに大いに貢献していた。

 学校が出版社を経営するのは、日本でいえば東京大学出版社や、イギリスならオックスフォード・プレス、中国にも北京大学出版社など…があるが、これらは主に学内の研究成果を世に出す為に創設されたものである。しかし出版社が学校を経営する例は少ないのではないだろうか。

 商務印書館の学校経営は1905年に師範学校「小学師範講習所」を創設したことに始まる。中国で初めて公布された学制は1902年の「欽定学堂章程」であるが、初めて施行されたのは1904年公布の「奏定学堂章程」である。中国で初めての学制が敷かれたこの時期、実際には新しい学制に対応しうる教師がほとんどいなかった。そのため、商務印書館は自ら教師を育成しようとしたのである。

 その後、二回目の小学師範講習を行ったとき、商務印書館は30余名の生徒を募集し小学校を附設した。講習に参加した教師達に教学実習の場を提供したのである。

 1907年には「尚公学校」として50余名の生徒を迎えて正式に開学した。当初、初級と上級(原文:高級)の2クラスで、生徒は主に商務印書館の職員の子女であった。職員の福利厚生の意味もあって、職員は子女一人分の学費は免じられたという。商務印書館は他にも二校の夜学「平民夜校」「励志夜校」(後者の方がレベルが高かったらしい)や幼稚園「養真幼稚園」も経営していた。夜学には印刷工場の職工が多く通っていたという。

 1915年、商務印書館は本社のそばに土地を購入し、校舎を建設した。写真で見ると二階建ての実に立派な建物である。1916年に完成した学校の設備は…露天の運動場、屋内運動場(原文:風雨操場)、講堂(原文:会場)、図書館、実験室(原文:理化儀器室)、標本模型室、園芸基地(花や木を植えるなど、自然科実習用)、購買部、撮影室等があったという。また商務印書館は工場を持っていたので、運動器材や実験器具、教具、標本なども自社で製造し、更に大量の児童図書も備えていたという。当時の中国で最も先進的な教育設備であったことは間違いないだろう。それどころか、今の日本の公立小学校よりも恵まれた教学環境かもしれない。

 素晴らしいのは校舎や教具類ばかりではない。教師は商務印書館の教科書の編集者が兼任するなどしていたので、当時の一流の師範大学の出身者であり、自ら携わった教科書の反応を見ようとわくわくしている、新しい教学方法を試そうとうずうずしている教師達であった。

 尚公学校は、商務印書館で働く職員の子女のための福利施設であるとともに、商務印書館の出版する教科書、教育書籍や教育器材の生きた実験場でもあったのである。

 長くなったので、尚公学校で行われた教学上の興味深い実験の数々については、稿を改めることにしよう。 

参考:
『商務印書館百年大事記1897-1997』(商務印書館、1997。中国語)
『中国二十世紀散文精品・葉聖陶巻』(太白文芸出版社、1996。中国語)
中国・商務印書館HP http://www.cp.com.cn/ht/ls.cfm(中国語) 商務印書館の歴史、商務印書館が輩出した著名人の説明など。尚公学校の写真はこちらのものを拝借しました。
尚公学校(百度百科) http://baike.baidu.com/view/1656217.htm?tp=belinked (中国語)

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