ポニョとフジモトの組み合わせが不思議――CD「崖の上のポニョ」2008年09月25日

娘が誕生日にもらった「崖の上のポニョ」のCD
 映画を見る前から、娘が口ずさんでいて、思わず私も口ずさんでいた「ポニョ、ポニョ、ポニョ、さかなのこ~」、娘のリクエストで夫の両親に誕生日のプレゼントしてもらいました。ありがとうございます~。

 おかげで誕生日の午後はずっと娘が「崖の上のポニョ(カラオケバージョン)」で何度も繰り返しポニョを練習する歌声が我が家に響き渡っておりました(^^)。そして更に娘の指導で私まで「ポニョポニョポニョ~」と練習を。楽しい誕生日でした。

 ところで、このポニョと一緒に入っている「フジモトのテーマ」という曲の歌詞、よく聞いてみると、切々と哀しい人生を歌っているものだから、とてもびっくりしました。「疲れ果てた この地球(ほし)で 刹那に生きる人々 希望なんて 忘れた様に」「神が街にあふれ 導くこともない 私は どこへ帰ればいい?」「誰かを傷つけるなら 誰とも逢わずにいたい だから一人 遠くへ行く」という救いのない哀しい詩の連続です。

 子供の明るい可愛い歌と、悲哀のこもったこの歌…変な組み合わせだと思い、ちょっと調べてみると…意外な答えがみつかりました。映画「崖の上のポニョ」のプロデューサー・鈴木敏夫氏によれば、「お父さんが会社から帰って、子供とお風呂に入って寝かしつけて、その後ふと1人になった時の歌が『フジモトのテーマ』なんだ。両方ともお父さんを貫くテーマなんだ」とか。現代日本のお父さんってそんなに哀しい存在なんでしょうか…

参考:スタジオジブリ最新作「崖の上のポニョ」主題歌発表記者会見
(東宝 映画トピックス) http://www.toho.co.jp/movienews/0712/03ponyo_sh.html

中国清末から民国、商務印書館が学校を経営した理由2008年09月25日

商務印書館附属・尚公学校の新校舎(1915-1932年)
 前述(http://youmei.asablo.jp/blog/2008/08/04/3672962)のように、近代における中国商務印書館の教科書出版の成功劇の裏側には日本の出版社・金港堂との合弁があった。その一方で附属学校開設により、自社出版物の質向上を図るという経営努力も行われており、それは中国の近代教育のレベルアップに大いに貢献していた。

 学校が出版社を経営するのは、日本でいえば東京大学出版社や、イギリスならオックスフォード・プレス、中国にも北京大学出版社など…があるが、これらは主に学内の研究成果を世に出す為に創設されたものである。しかし出版社が学校を経営する例は少ないのではないだろうか。

 商務印書館の学校経営は1905年に師範学校「小学師範講習所」を創設したことに始まる。中国で初めて公布された学制は1902年の「欽定学堂章程」であるが、初めて施行されたのは1904年公布の「奏定学堂章程」である。中国で初めての学制が敷かれたこの時期、実際には新しい学制に対応しうる教師がほとんどいなかった。そのため、商務印書館は自ら教師を育成しようとしたのである。

 その後、二回目の小学師範講習を行ったとき、商務印書館は30余名の生徒を募集し小学校を附設した。講習に参加した教師達に教学実習の場を提供したのである。

 1907年には「尚公学校」として50余名の生徒を迎えて正式に開学した。当初、初級と上級(原文:高級)の2クラスで、生徒は主に商務印書館の職員の子女であった。職員の福利厚生の意味もあって、職員は子女一人分の学費は免じられたという。商務印書館は他にも二校の夜学「平民夜校」「励志夜校」(後者の方がレベルが高かったらしい)や幼稚園「養真幼稚園」も経営していた。夜学には印刷工場の職工が多く通っていたという。

 1915年、商務印書館は本社のそばに土地を購入し、校舎を建設した。写真で見ると二階建ての実に立派な建物である。1916年に完成した学校の設備は…露天の運動場、屋内運動場(原文:風雨操場)、講堂(原文:会場)、図書館、実験室(原文:理化儀器室)、標本模型室、園芸基地(花や木を植えるなど、自然科実習用)、購買部、撮影室等があったという。また商務印書館は工場を持っていたので、運動器材や実験器具、教具、標本なども自社で製造し、更に大量の児童図書も備えていたという。当時の中国で最も先進的な教育設備であったことは間違いないだろう。それどころか、今の日本の公立小学校よりも恵まれた教学環境かもしれない。

 素晴らしいのは校舎や教具類ばかりではない。教師は商務印書館の教科書の編集者が兼任するなどしていたので、当時の一流の師範大学の出身者であり、自ら携わった教科書の反応を見ようとわくわくしている、新しい教学方法を試そうとうずうずしている教師達であった。

 尚公学校は、商務印書館で働く職員の子女のための福利施設であるとともに、商務印書館の出版する教科書、教育書籍や教育器材の生きた実験場でもあったのである。

 長くなったので、尚公学校で行われた教学上の興味深い実験の数々については、稿を改めることにしよう。 

参考:
『商務印書館百年大事記1897-1997』(商務印書館、1997。中国語)
『中国二十世紀散文精品・葉聖陶巻』(太白文芸出版社、1996。中国語)
中国・商務印書館HP http://www.cp.com.cn/ht/ls.cfm(中国語) 商務印書館の歴史、商務印書館が輩出した著名人の説明など。尚公学校の写真はこちらのものを拝借しました。
尚公学校(百度百科) http://baike.baidu.com/view/1656217.htm?tp=belinked (中国語)

中国・中華民国時代、商務印書館附属・尚公学校で行われた教学上の実験2008年09月26日

 尚公学校は、商務印書館の出版する教科書、教育書籍や教育器材の生きた実験場であった、と先に書いた。使用されていた教科書や課外読本は全て商務印書館のものであったという。1923年から1931年まで尚公学校の生徒だった葉至善(葉聖陶=葉紹鈞の子息)の随想文「私が学んだ尚公学校」には、当時の実験の内容が紹介されている。
 
 初級小学2年生の国語科は正式の教科書の他に『児童文学読本』が配られたという。内容は物語や歌謡で、挿絵も教科書よりも生き生きとしていたという。葉至善は初級小学校の生徒の識字数が少ない為テキストが短くつまらないのを、如何に解決するかの実験だったのだろうと述べている。高級小学の地理科では、教科書とは別に、教科書の内容の順序に合わせて書かれた『珍児旅行記』が配られたという。葉至善は地理教科書の叙述の無味乾燥さを如何に変えていくか、の実験だったのだろう、と述べている。

 実際のところ、商務印書館は1922年には沈百英等編の『児童文学読本』(全八冊)を出版しているし、1924年出版の『地理教科書』の中に「珍児旅行記」が取り入れられているから、葉至善の記憶には時間にズレがあるようでもある。筆者の勝手な推測だが…何かの理由で、出版社としては規定された教育内容を教科書に、子供を惹き付けるアイデア豊富な部分は補助教材・課外読本に分けざるを得なくなり、教科書と課外読本をリンクさせる教学法について、尚公学校で試行錯誤していたのではないだろうか。今日の本題とは関係ないが、「珍児旅行記」は子供の珍児が二年の歳月をかけて中国全土と世界を巡り、資料を集めて書いた旅行記という設定で書かれていたといい、なかなか面白い教科書だったようだ。

 他にも童話の歌劇を二種、邱望湘が作詞作曲した「白鳥」、葉聖陶(=葉紹鈞)が作詞・何明齋が作曲した「蜜蜂」を学内で練習し上演したが、これが後に出版されたことを紹介している。確かに児童歌劇『蜜蜂』は1933年に商務印書館より出版されている。

 更に興味深いのが、王雲五が考案した漢字の検索法「四角号碼」の実験で全教員と生徒が動員されたというエピソードである。「四角号碼」は従来の部首検索法と比べ簡便で早く検索でき、特に学年が低いほど効果があらわれたそうだ。また実験の中では同じ数字になる文字が多すぎるなど、問題も発見され、実験結果に基づき、改良が加えられたという。漢字の検索法「四角号碼」についての王雲五の本『号碼検字法』は1926年に(「王雲五先生與四角号碼」によれば1927年に)、『四角号碼学生字典』は1928年に出版されている。

 その他にも、遠足や旅行が毎学期少なくとも一回はあり、学内に「小商店」や「小銀行」「小写真館」などが開設され、図書館も含め、クラスで順番に働くなどの模擬社会経験ができるようにも配慮されていた。また、毎週土曜日には「週会」があり、これもクラスごとに順番で出演することになっていて、何をするかは先生と生徒で考えて決める、といった活動も行われていたという。

 葉至善(葉聖陶=葉紹鈞の子息)の回想にみる尚公学校の実験の数々は、出版社の単なる利益に即したものではなく、いずれも生徒の教育に有益で、かつ教材と教育の質を高めようとする高い志に基づいているような気がする。なかでも「四角号碼」のエピソードは、当時の学問の最前線の実験に、自身や仲間が参加していたのだ、という自負が感じられる。これらの活動は、子ども達にはもちろん、教師にとっても、学ぶところが多かったに違いない。

参考:
『商務印書館百年大事記1897-1997』(商務印書館、1997。中国語)
「我念過的尚公学校」(中国・商務印書館HP) http://www.cp.com.cn/ht/newsdetail.cfm?iCntno=513(中国語) 
「王雲五先生與四角号碼」(中国・商務印書館HP) http://www.cp.com.cn/ht/newsdetail.cfm?iCntno=4233(中国語) 
「商務印書館的地理教科書」(光明網) http://www.gmw.cn/CONTENT/2005-12/07/content_592060.htm(中国語)

娘の運動会でした~2008年09月27日

 今日は娘の小学校の運動会、いいお天気に恵まれました。朝5時起きでお弁当を作り、9時頃に小学校へ。場所取りなどはしなかったので、いい場所はすでになく、運動場の端にシートを敷き、椅子を置いて観覧しました。

 今年は広報委員になっているので、腕章をつけ、カメラを抱えて、一年生の競技を中心に写真を撮りました。間近で写真を撮れるぶん、娘の姿も見えるし、ちょっと役得も。徒競走やダンス、一年生は可愛いです(^^)上級生になるにつれて、競技のレベルも上がり、なかなか見応えがありました。

 娘はお弁当をクラスで食べると聞いたので、私と夫は一旦家に帰って、ゆっくり食事をして、時間をみはからって小学校に戻りました。最近の運動会は家族でお弁当を囲まないのですね。ちょっと寂しい感じもします。

今日は早起きしたので…これから一休みします~

手まり、作っています――フェリシモ・手まりコレクション2008年09月28日

娘と一緒に刺している手まり。やっと一つ模様ができました。
 フェリシモで頼んだ手まりコレクション「日本の雅 華やぎの糸を重ねてかがる手まりの会」の手作りキットが届きました。一昨年の大河ドラマ「功名が辻」以来、手まりに興味がある娘のリクエストで頼んだのです。(果たして我々母子に出来るかどうか不安でしたが^^;)届いた手まりは思ったより小さいのと、説明が丁寧で分かりやすいので安心して、早速、娘と二人で刺し始めました。

 このキットは、手まり芯はすでに用意されています。作業の内容は、糸をかがって模様を刺して、美しい手まりに仕上げていくものです。

 今回のデザインは「ますかがり」という刺し方を組み合わせていて、とてもきれいです。静かなせせらぎに広がる水紋をイメージしているそうです。「ますかがり」、最初私がやってみて、その後娘に教えると、娘でも十分上手に刺すことが出来ます。

 娘いわく「簡単だし、楽しい~」とのこと。刺し始めと刺し終わりの処理だけはちょっと難しいので私がしています。少しずつ出来てきました。見本の写真には遠く及びませんが…できあがりが楽しみです。

バナナマフィン作り…運動会の代休の過ごし方2008年09月29日

できたて!バナナマフィン
 今日は運動会の代休。しかも外は雨。外出もできない。こういう日はお菓子作りが楽しい。『バムとケロのにちようび』のドーナツ作りみたいに。

 ドーナツも頭に浮かんだのだけれど、バナナマフィンに決定。なぜって…先日友達に頼んで買って貰ったマフィン型を使って、教えて貰ったレシピで作ってみたかった、という私の勝手な理由からである。

 二人でエプロンをして、材料を量ったり、小麦粉とベーキングパウダーを混ぜてふるったり、バターを練り混ぜたり、卵を割ったり、バナナを潰したり…娘に任せられるところが沢山増えたのを実感した。それに二人でやるとあっという間だった。25分焼いて、さあ、できあがり。焼きたてての柔らかいのをスプーンですくっていただいた。外はかりっ、中はふわっ、美味しかったです(^^)

参考:稲田多佳子『“何度も試作してようやくたどりついた”ほんとうに作りやすい焼き菓子レシピ』(主婦と生活社)のベリーマフィンをバナナマフィンにアレンジ。

ガラス絵の具でアート…運動会の代休の過ごし方2008年09月30日

左が娘の太陽と花、右が私のトトロ
 クッキングでは時間が持たないので、久々にガラス絵の具も母子で楽しんだ。ガラス絵の具、黒い線とカラーの透明色の組み合わせが、ステンドグラスのようでとてもきれいで、手軽にできるので、我が家では定番の休日の過ごし方、になっている。最近はイラスト集や絵本やジブリなどから絵を選んで、絵を写し、それを下絵に作っている。

 まず、ビニールシートの下に下絵を置き、セロテープなどで動かないように固定して、黒の絵の具で輪郭を作っていく。出来たら、乾くまで1時間待つ。その後、カラーの絵の具を載せていく。ガラス絵の具は乾くと透明色になるので、それを念頭に色を載せる。

 娘はイラスト集にあった太陽や花をいろいろ組み合わせカラフルな作品を、私は先日行ったジブリ美術館にあった素敵なステンドグラスを思い出して、となりのトトロを作った。

このあと、お友達が来てくれて、やっと解放された私。子供は子供同士遊んでくれるのがなんといっても一番。

 ちなみに、カラーの絵の具は乾燥に8時間かかるので、仕上がった作品と出会えるのは翌日になる。絵の具が乾いた後、ビニールシートから絵を外すのがちょっと難しいのだが、これは、冷蔵庫を使うと簡単である。冷蔵庫にいれるとパリパリになるので、ビニールシートからきれいに剥がれる。剥がれたら、すぐに柔らかくなって扱いにくくなるので、すぐガラスに貼るのがお勧め。

参考:ガラス絵の具は100円ショップで購入。

商務印書館附属学校・尚公学校の隆盛と最期2008年09月30日

 前述(http://youmei.asablo.jp/blog/2008/09/25/3783124)の商務印書館の附属学校が、国内外の最新の教育理論や教育方法を教育現場に反映しようとする試みとその姿勢は、やがて評判となり、尚公学校を上海屈指の名門小学校に押し上げた。葉至善は「‘小学’でなく‘学校’と称したのは、中学も高校もやっていこうと考えていたからではないかと思う。」と述べている。最盛期は尚公学校と平民夜校、励志夜校、養真幼稚園の生徒数は合わせて千名に登ったという。商務印書館の学校経営は軌道にのっていたし、出版業と教育の実験は密接に結びついていたから、そのままいけば、中等部や高等部が設置されていたかもしれない。

 しかしながら、終焉は突然に訪れた。1932年の第一次上海事変(中国では一・二八事変と呼ぶ)の勃発で、日本軍の爆撃に遭い、編訳所、工場、東方図書館、尚公学校と養真幼稚園の校舎が壊滅的な打撃を受けたのである。商務印書館は会社の再建を果たしたが、学校は再建されることはなかった。清末から続いた商務印書館の実験学校・尚公学校の28年の歴史はこうして閉じられることとなった。

参考:
『商務印書館百年大事記1897-1997』(商務印書館、1997。中国語)
「上海商務印書館被毀記」(中国・商務印書館HP)http://www.cp.com.cn/ht/newsdetail.cfm?iCntno=1404 
「我念過的尚公学校」(中国・商務印書館HP) http://www.cp.com.cn/ht/newsdetail.cfm?iCntno=513(中国語)

ヨーロッパの歴史教科書再編--『国際歴史教科書対話』を読む2008年09月30日

近藤孝弘『国際歴史教科書対話』
 近藤孝弘『国際歴史教科書対話―ヨーロッパにおける「過去」の再編』(中公新書、1998)はヨーロッパの歴史教育と教科書対話について理解する為にも、『欧州共通歴史教科書』誕生の背景を知る意味でも、今後の歴史教育、教科書を考える上でも、大事な知識と欠かせない視点を与えてくれる本である。

 本書の本題は戦後に加害国ドイツを軸に行われた二つの歴史教科書対話である。一つ目は戦後直後から始まったフランスとの対話。反共主義者だった西ドイツのアデナウアー政権が隣国フランスとの和解を急いでいた、という政治状況もあり、早期に実現した。二つ目は1972年に始まった最大の被害国ポーランドとの対話。この対話は冷戦により(西ドイツが反共政権だったこともあり)大幅に実現が遅れた。

 近藤氏は特に二つ目のポーランドとの対話に重点を置き、1976年の会議で出された26項目の「ドイツ連邦共和国とポーランド人民共和国の歴史と地理の教科書に対する勧告」中の10項目について内容にまで踏み込んで詳細に分析を行っている。そのいずれもが示唆に富む内容であるが、気が付くのは両国間の歴史理解で問題となるのが、ナチスの時代に限らず、ポーランド分割を含む近代史、或いは古代史にまで及んでいることである。更にドイツとフランス、ドイツとポーランドの対話は時に多くの抵抗と反感を引き起こしながらも数々の議論を経て、社会が徐々にこの対話の結果を受け入れていった経緯も興味深い。

 ところで、本書の巻頭にはバートランド・ラッセルのこんな言葉が載っている。「(子どもたちは)自分たちの国家が行なった戦争はことごとく防衛のための戦争で、外国が戦った戦争は侵略戦争なのだと思うように導かれる。予期に反して、自国が外国を征服するときは、文明を広めるために、福音の光をともすために、高い道徳や禁制やその他の同じような高貴なことを広めるためにそうしたのだと信じるように教育される」(バートランド・ラッセル『教育と社会体制』、1932)

 歴史教育の機能を実に上手く表現しているバートランド・ラッセル(1872-1970)の発言は第二次世界大戦前のヨーロッパを念頭に置いたものである。ヨーロッパには戦前から歴史教育に対する問題意識があり、すでに歴史教科書対話が行われ、社会的な関心も強かったのである。北欧ではすでに隣国の教科書の記述を確認しあうことが行われていた。フランスとドイツの間でも対話があった。(このときの対話の結果はフランスの教科書には反映されたが、ドイツではナチスの対外イメージ戦略に利用されただけで教科書に反映されなかったとはいえ)ヨーロッパでは歴史教育の問題がこれほど早くから社会的に認知されていたのだ。だからこそ、戦後間もなく歴史教科書対話が実現したともいえるだろう。

長くなったので、続きはまた明日(^^)

参考:近藤孝弘『国際歴史教科書対話―ヨーロッパにおける「過去」の再編』(中公新書、1998)

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